第4話「初めてのお仕事~2日目」
第●●期竜王戦第1局実況スレ Part2
262:名無しの将棋指し
明日の現地の大盤解説って誰?
263:名無しの将棋指し
>>262
確か本居四段だったと思う
タイトル戦の現地解説、しかも2日目を四段が任されるって異例じゃね?
264:名無しの将棋指し
まぁ、本居人気だからなぁ
見た目だけじゃなくてイケメンだし、何より解説が分かりやすい
265:名無しの将棋指し
これ形勢的にはどうなの? 互角?
266:名無しの将棋指し
俺のソフトだと先手有利って出てる
俺は角松竜王が順当に勝つと踏んでるわ
267:名無しの将棋指し
これ戦型としては矢倉ってことで良いんだよね?
「矢倉は終わった」って誰か言ってなかったっけ?
268:名無しの将棋指し
>>267
別にそれを言った人も矢倉を研究しなくなったわけじゃないし……
しかしいつ見ても竜王でけーな
黒羽四段も将来はこんな筋肉モリモリマッチョマンになるのか?
269:名無しの将棋指し
黒羽くんはその……身長が……
270:名無しの将棋指し
今日のネット中継で新四段2人が師匠と同じもの食べてたけど
並んだときに黒羽の方が小さかったもんな
271:名無しの将棋指し
>>266
そうか? 俺は氷田名人が勝つと思うわ
てか勝ってほしい。やっぱ絶対王者は強くてナンボよ
そしてその状態のまま弟子の白鳥四段とタイトル戦をやってほしい
272:名無しの将棋指し
>>266
いや互角でしょ、1日目にこの程度の差じゃどうとでもなる
てか最近の見る将は評価値に振り回されすぎ
AIが示した最善手以外を指した途端に悪手悪手ってうっせーわ
273:名無しの将棋指し
昔は解説者が見落としてた逆転の一手がいきなり出てきて面白かったんだけどな
今はAIがそういうのも事前に出しちゃうから驚きがねーのよ
274:名無しの将棋指し
とはいえ素人はそういうのも無いとまったくついていけないからな
ファン層の拡大のためには致し方なし
275:名無しの将棋指し
どっちが勝つかはともかく、俺としては
何かこう「凄い将棋を観たな」って感じの名局にしてくれないかね
* * *
天気予報の通り、2日目の会場は朝から雨模様だった。黒ずんだ分厚い雲が空を覆い隠し昼間とは思えない薄暗さに包まれているが、そんなことはお構いなしとばかりに会場には多くの観客が詰め掛けている。
竜王戦に限らずタイトル戦というのは、将棋連盟が総力を懸けて催す祭りごと。対局そのもので観客を魅了するのは勿論のこと、それ以外にも様々な催し物が現地では行われる。棋士と一緒に会場である寺院を見学するツアーは生憎の天気で中止となってしまったが、対局者と同じ料理を食べられる昼食会などは予定通り行われ、とても好評だった。
そんなイベントの中でも最も応募人数の多かったイベントが現在、棋士の控室でもある検討室と同じ建物内にある、宴会やセミナーの会場としても使うことのできる広い和室にて行われている。ズラリと並べられた数百の座布団はトイレや煙草などの所用で外している場合を除いて全て埋まっており、幅広い年齢層の観客が見つめ、耳を傾けている。
「ここはかなり手が広い局面ですからね。遠くから虎視眈々と狙ってるこの角をどうするか、角松竜王も考えたいところでしょう」
「パッと思いつく手となると、4五香で角の通り道を塞ぐか、角の頭である3五に歩を打ち込む、といったところでしょうか?」
「香車を後手に渡すのは少し怖いですねぇ、7二香とかやられるので。3五歩だとその後は7七銀として、そうすると……▲同桂、△同歩成、▲同金、△6七角成、▲同玉、△5六金とかやられたときに耐えられるか――」
「そうなると、例えば先手玉を逃がすという手も考えられますか?」
「その場合だと――」
一辺が1メートルほどはある巨大な将棋盤を挟み、聞き役である女流棋士の質問に答えつつマグネット式の駒を忙しなく動かしているのは本居四段。マイクを片手にトークをするその姿は、キッチリしたスーツ姿も相まってますますアナウンサー然としており、とても様になっている。
このイベントは、所謂“大盤解説会”と呼ばれるものだ。対局の盤面をその場に再現し、棋士達が現在の戦況や次の一手予想などをテーマに解説やトークで場を盛り上げる、というものである。プロですら難しい局面もある対局を一般の観客にどう分かりやすく、そして面白く伝えるか、将棋の普及を目的とした棋士達の腕の見せ所と言えるだろう。
「うわぁ、やっぱり人が多いなぁ……」
「そりゃそうよ。何てったって対局者は、四冠の角松くんと三冠の氷田くんっていう“頂上決戦”だよ? そして解説者は、若い女性からマダムにも大人気の本居くん。これで応募枠が埋まらないはずが無い!」
部屋と廊下を隔てる襖を少し開けて中を覗き込む雪姫の呟きに、将棋連盟会長である源九段が実に上機嫌な様子でそう答えた。彼女達のいるそこはパーティションにより区切られた関係者エリアとなっており、後ろには黒羽や塩見を始めとした、検討室からこちらの様子を見に来た複数の棋士の姿もある。
会長の言葉通り、この時間帯の解説を担当している本居の語りは雪姫の目から見ても好評に思えた。若手ながらそのルックスから多くのテレビ番組やイベントに引っ張りだこである彼は、その影響もあって将棋解説の方もかなり鍛えられている。今日の観客も男性陣はその解説に聞き惚れ、女性陣はこちらに目配せしながら笑顔を振り撒く彼の甘いマスクに見惚れているようだ。
それに加え、時刻は午後3時を回ろうかという頃。
じわじわと戦局が傾き、大半の棋士が後手(つまり冬路)の立場で指したいと表明するようになったものの、まだまだ一手のミスでどうとでもなる微妙な状況。つまりああでもないこうでもないと議論を交わすには持って来いの局面であり、実際に周りの人達と小声で話し合ったり、スマホでネットの掲示板や動画配信との情報と併せて自分の考えを組み上げたりと、皆が思い思いの方法でタイトル戦という特別な場所を楽しんでいる。
「どうだい、白鳥くん? なかなか楽しそうだろ?」
「そうですね。動画では何回も観たことありますけど、やっぱり生の空気感は違いますね」
「そうだろう、そうだろう。――じゃ、そろそろ行こうか」
「え?」
「あぁ、黒羽くんも一緒に来てね」
「え?」
後ろから雪姫の肩を軽く叩き、そして彼女の後ろにいた黒羽の手首辺りをむんずと掴むと、会長は一切声を掛けることすら無く襖をいきなり開けて会場へと入っていった。
そんな突拍子の無い行動に、解説をしている最中だった本居が目を丸くし、笑いを堪え切れない様子で会長へと早足で詰め寄っていく。
「ちょっと会長! 何してるんですか!」
「いやいや、せっかく雨の中来てくれた皆さんに、未来の名人候補をお披露目しようかと思ってね。せっかくの師匠の晴れ舞台なんだから、特等席で見せてやりたいでしょ?」
「おっ! ということは……!」
「それじゃここで特別ゲスト! 先日プロ入りが決まったばかり! 中学生プロ棋士として話題沸騰中であり、角松竜王の弟子でもある黒羽歩新四段! そして同じく中学生プロ棋士、更には女性初のプロ棋士でもあり、なおかつ挑戦者の氷田名人の弟子でもある白鳥雪姫新四段の登場です!」
観客からはパーティションに遮られて見えないエリアに踏み留まってブンブンと首を横に振っていた雪姫だったが、会長直々に紹介され、観客から大きな拍手で迎えられたとあっては出て行かないわけにはいかない。
覚悟を決める時間を稼ぐために1回大きな溜息を吐くと、最初から諦めムードが漂っていた黒羽と共に会場の中へと足を踏み入れた。ちなみにその途中、塩見がからかい混じりに「お気張りやすぅ」と声を掛けてくるのが聞こえてきた。
あれよあれよという間に連盟の職員からマイクを手渡され、ほとんど反射的にそれを口元に持っていきながら雪姫が口を開いた。
「えっと、皆さん初めまして……。先日新四段となりました、白鳥雪姫といいます……」
「……同じく新四段の、黒羽歩といいます」
非常に短い自己紹介と共に軽く頭を下げただけの挨拶だったが、観客からは暖かい拍手が贈られた。とりあえずブーイングも無く迎え入れられたという事実に、雪姫はホッと胸を撫で下ろす。
「お2人はそれぞれ竜王と挑戦者のお弟子さんということで、色々と訊いていきたいと思いますが……。まずはここまでの対局をご覧になって、率直な感想を聞かせていただけますか?」
「えっと……、タイトル戦に相応しい、とても難解な将棋だと思います。ここからどのように纏め上げていくのか、とても楽しみです」
「そうですね……。特に今の局面もそうですけど、開始早々に定石から外れて選択肢もかなり多いんで、その辺りは凄く大変なんじゃないかなと思います。――まぁ、最後は師匠が勝つと思いますけど」
最後に黒羽が付け足したそのコメントに、観客からは「おぉっ」とどよめきが起こり、雪姫は思わずバッと勢いよく彼に顔を向けた。
面白くなりそうな雰囲気を敏感に察知した本居が、そんな意地の悪い考えを爽やかな笑顔で隠して問い掛ける。
「おやおや、さっそく黒羽四段からの先制パンチですが、白鳥四段はどのようにお考えですか?」
「……私だって、勝つのは師匠の氷田だと確信しています」
確信して、の部分を強調してそう言い放つ雪姫に、今度は黒羽の方がムッと顔をしかめた。
「何だよおまえ、昔はそんな師匠愛が強い感じじゃなかったじゃねぇか」
「そ、それはそっちだって同じでしょ?」
「はあ? どういう意味だよ?」
黒羽が顔だけでなく、体ごと雪姫に向き直った。つまり観客に対して、完全に横を向いている状態となった。
そしてそれは、雪姫も同じことだった。
「だって歩が角松竜王の弟子になったのって、私が氷田名人の弟子になったことに対する当て付けじゃん」
「はあっ!? 別にそんなんじゃねーし! ちゃんと色々考えたうえで弟子になったに決まってんだろ! ――てかそれを言うなら、おまえが氷田名人の弟子になったのだって、そもそも氷田名人以外の棋士を知らなかっただけだろうが!」
「そ、そんなこと無いもん!」
何やらヒートアップしていく言い争いに、聞き手である女流棋士はチラリと会長へと視線を向けた。しかし会長はニコニコと笑いながら「もっと行け」とばかりに指を差すばかりで止める気配が無い。
「そうなんですか、白鳥四段?」
「いいえ、誤解で――」
「はいそうです! こいつ、俺と一緒に将棋を指すために研修会に入ったんで、プロの世界のこと何にも知らなかったんですよ! 奨励会に入るのに師匠が必要だってことすら知らなかったんで!」
雪姫の言葉を遮って捲し立てる黒羽に、雪姫は「ちょっと歩――」と顔を紅く染めて彼へと詰め寄り、彼の持つマイクへと手を伸ばそうとする。
しかし黒羽は後退りながらそれを避け、尚も喋り続けた。
「だからこいつ、奨励会を受験するってなったときに、何のアポも取らずにいきなり氷田名人の家に押し掛けて『弟子にしてくれ』って言ったんですよ!」
「歩ぅ!」
ボフン、と軽い爆発音でも鳴りそうな勢いで雪姫の顔が真っ赤になり、彼女はそのまま顔を両手で覆い隠しながらその場にしゃがみ込んでしまった。
そんな彼女の姿に本居も女流棋士も、困ったような同情するような苦笑いを浮かべた。
「まぁまぁ白鳥四段。それって、昔のことでしょう? 将棋のプロを目指して一生懸命な白鳥四段らしいエピソードじゃないですか」
「そうですよ。それに現にこうして氷田名人の弟子となったわけですし、もしかしたらそういう行動に見所を感じたのかもしれませんし」
「……はい、すみません。取り乱しました」
未だに顔は赤いままながらも、雪姫はゆっくりとした動きで立ち上がった。
ちなみにここまでの遣り取りを、観客は暖かな笑みを浮かべながら眺めていた。特に高齢の観客など、まるで自分の子供あるいは孫に向けたそれであるかのようで実に微笑ましい。
もっとも衆人の前で辱めを受けた(と思っている)雪姫本人としては、そんな雰囲気など感じ取れるはずも無く、若干目に涙を溜めながら黒羽をギロリを睨みつけているのだが。
「……憶えてなよ、歩。とっておきのエピソードを話してあげるから」
「おい何だよそれ、凄く不安になるじゃ――」
「あっ、角松竜王が指したようですよ! 4五桂です!」
と、一通り遣り取りが済んだのを見計らったかのようなタイミングで対局場にて動きがあり、モニター越しにそれを確認した本居が声をあげた。
そしてその瞬間、あれだけ睨み合っていた雪姫と黒羽が同時に大盤へと顔を向けた。女流棋士が桂馬を動かすのを、真剣な面持ちで見つめている。
「お2人は、この手についてどう感じますか?」
「角に対しての犠打というのは予想してましたけど、香車じゃなくて桂馬なんですね。ここで桂馬を使っちゃうと後に響く気がしたんですけど」
「まぁ、後手に香車を渡したくない気持ちの方が勝ったんだと思います。――とりあえず、同歩か?」
「多分。その次がどうだろ……。桂馬があれば3五銀も良いかなって思ってたんだけど……」
先程までの喧嘩など無かったかのように検討を始める2人に、女流棋士が若干ホットしたような笑みを零した。
「3五銀でないとすると、白鳥四段としてはどういう手が良いと思いますか?」
「…………」
「あのー、白鳥四段。大盤解説なので、無言での長考は控えていただけると幸いです」
「あっ、ごめんなさい!」
観客から笑い声があがる和やかな雰囲気の中、大盤解説は新人2人も交えながら続いていく。
ちなみに先程の言い争いの最中、会長は終始腹を抱えて笑いを我慢するかのように体をプルプルと震わせていた。
* * *
カメラに映る対局室は襖絵と掛け軸を背景にしているが、反対側には廊下を挟んで外の景色が見えるようになっており、なので朝から降り続いている雨の勢いが強まり暗くなっている様子も確認することができる。
残り時間も1時間を切り、ハッキリと形勢の悪さを自覚できるほどになってきた角松からしたら、今の外の景色はまるで自分の心境を表しているかのような心地だろう。時折「うーむ……」と小声で唸って頭を掻いたり、記録係に棋譜を見せるよう求めたりと、盤面に集中したまま体を身じろぎもしなかった午前中と比べると明らかに体の動きが大きくなっている。
「…………」
チラリ、と顔は盤面に固定しながら視線だけと冬路へと向けた。
肘を腿に突いて顎に手を添える姿勢のまま、かれこれ30分は次の一手を考え込んでいる。途中で寺のスタッフと思われる女性がお茶とおしぼりを交換しに入室するが、冬路はそれに気づいているのかも怪しいレベルで一切目もくれず盤面に集中している。
形勢は冬路に傾いているとはいえ、まだまだ悪手1つでどうとでもなる局面だ。今は彼が気持ち良く攻めている局面ではあるが、最後に読み抜けでもあって予想外の事態にでもなれば一気に角松にチャンスが巡ってくる。
と、顎に添えていた冬路の手が、盤面に伸びた。
微かに指先が震えているように見えるその手が掴んだのは、7六の位置に置かれていた飛車。
それを手に取ってパチンと置いたその瞬間、雷の落ちる音が対局室に鳴り響いた。
大盤解説会の会場では、何だかんだそのまま残っている雪姫や黒羽も横で眺めている中、本居と女流棋士による解説が続いていた。
「おそらく氷田名人は、5六飛で勝ちたいと考えているんじゃないですかね。その方向で詰みの局面まで読んでいるのではないかと」
「爽やかな手順になりそうですね」
「そうですね。5六飛だとして、▲5八香、△3六飛、▲3四銀が考えられますかね。あるいは▲3四銀が先に来るならば、△7六歩、▲同歩、△5七飛成辺りでしょうか」
本居の解説に、多くの観客が納得したように何度も頷いているのが見えた。そしてそれは、本居の傍で半分観客のようになっている黒羽も同じだった。
しかし女流棋士側の方に立つ雪姫は、ジッと盤面を見つめたまま動かなかった。
「白鳥四段は、どう考えますか?」
それを見た本居が話を振ると、油断していたのか雪姫はビクッと体を震わせて「へっ?」と変な声をあげてしまった。
恥ずかしそうに頬を紅く染めながら、遠慮がちに口を開く。
「いや、他の手も無いかなぁって考えてただけなんですけど……。例えば、6六飛とか……」
「6六飛ですかぁ。いやぁ、でもそれは大変なんじゃないですかね。▲6七銀、△3六飛、▲3七香と固められたら、なかなか決まらなくなるように見えますけど」
「そ、そうですか……」
すごすごと引き下がった雪姫を見て、物怖じしないで自分の意見をどんどん言ってほしいと慰めようと本居が口を開きかけた、そのとき、
「うわぁっ!」
「キャッ!」
窓から強烈な光が部屋中を照らし、同時に空を切り裂くような甲高い音が鳴り響いた。あまりに突然の出来事に、観客だけでなく雪姫も思わず大声をあげて驚いてしまう。
「今のはビックリしましたねぇ。近くで雷でも落ちたんでしょうか?」
「とりあえず、停電の心配は無さそうですね」
「ご、ごめんなさい……。大きな声出しちゃって……」
「いえいえ、気にしないでください。――あっ、氷田名人が指したようですね」
モニターを見て盤面が変わっているのを瞬時に確認した本居が、そちらに若干身を乗り出して冬路の手を確認する。
するとその瞬間、彼の目が僅かに見開かれた。
「6六飛、ですね」
「えっ」
先程の解説も相まって5六飛の空気になっていたところでの一手に、観客からもどよめきが起こった。
そしてその間にも、角松が駒台から銀を取って飛車の頭、つまり6七に打ち込む様子がモニターに映し出される。
「いやぁ、白鳥四段の言った手になりましたね」
「弟子というだけあって、何か通じ合うものでもあるんでしょうか」
「とはいえ、これはなかなか一筋縄ではいきませんよ」
△8八金。角松の玉のすぐ隣であり、王手となる。
▲6八玉。逃げの一手であると同時に、銀を間に挟んだ冬路の飛車を成らせないための牽制でもある。
それを見た冬路は、飛車を後ろに下げて6五飛とした。ここまで持ち時間は消費しておらず、想定の範疇にあると思われる。
「6五飛としたときに寄せられない、と氷田名人は見たのかもしれませんね」
「しかし残り時間も気になるこの段階でこの盤面は、なかなか忙しい感じになりそうですね」
モニターに映る角松は、頭をエンジンの如くフル回転させて熱をもっているのか、袖を捲ったり扇子であおいだりと暑そうに見える。一方冬路は、ジッと盤面を見据えたまま動かない。実に対照的な光景だ。
角松の残り時間が30分を切った辺りで、それまで遠くから相手玉を見据えていた冬路の角を討ち取った。そして冬路の手番を挟んだ次の手で自身の玉頭にいた銀を動かし、冬路の飛車へと狙いを定める。
しかし冬路は駒台から桂馬を取り、これを3六に打った。初期位置から一度も動いていない角松の飛車を狙う意味があるのと同時に、矢倉戦における寄せの手筋に則った一手でもある。
実にスリリングな展開に、大盤解説の会場は(当事者でないにも拘わらず)張り詰めた空気に包まれていた。身じろぎの音1つすら邪魔になる、とでも言わんばかりだ。
と、ここで盤面に目を凝らしていた本居が、意を決したような雰囲気を漂わせながら「成程ぉ……」と口火を切った。
「これ、3八に飛車を逃がしたところで、その後△3四銀、▲6五銀、△4八銀とやられると角松竜王の負けですね」
「――――!」
ハッキリと勝敗を口にしたことで、角松の弟子である黒羽の肩がピクッと跳ねた。
それを視界に捉えながらも、女流棋士が話を広げる質問を口にする。
「その後も、受けはありませんか?」
「▲4八同飛、△同桂、▲5七玉となった後、6八飛とやられると受け無しですね。いやぁ、成程。6六飛の時点でここまで読んでいたのかもしれませんね。これは感動ものです」
「白鳥四段も、これを読んでいたんですか?」
「へっ? え、ええと、ここまで確信してたわけじゃないですけど、何となく気持ち良い感じがして……」
「何だぁ、ちゃんと言ってくださいよ。それが解説者のお仕事なんですからね」
軽口のような雰囲気でそう言う本居に、居心地悪そうに顔を伏せてモジモジと身を捩じらせる雪姫。観客からも笑いが起こり、張り詰めていた空気が若干和らいだように感じられた。
そしてそんな雰囲気の中、モニターを食い入るように見つめる黒羽の周りだけが淀んでいた。
対局は、△4八銀までは本居の解説の通りとなった。局面が悪くなるのは分かっていても、それ以外にやりようが無かっただめ指さざるを得ない、という角松の心境が傍目にも感じられた。
角松が飛車と角という大駒を取っている間に、肝心の玉が冬路の駒に三方から囲まれる形となってしまった。金・銀・歩と全て小駒だが互いに協力し合っていて遊び駒が無く、一方角松の持ち駒は先程の飛車・角に加えて桂馬・香車と飛び道具ばかりで受けにくい。
6六飛、そしてその次の8八金も併せて、指された直後はこのような形になるなど本居はまるで読めなかった。後で確認したところ、配信で解説をやっていたプロ棋士も検討室にいた面々も、読めていた者は1人もいなかったという。
「4四香、王手ですね」
冬路の玉を狙った角松の一手に、冬路は1分ほど考えて銀で受ける手を指した。仮にここで3一に玉を逃がすようであれば、角を打ち込んで自玉を囲む歩を取れる一手を指せたのだが、そのような紛れも生まれない。
はぁ、と観客から大きな溜息が漏れた。
ドン、と遠くで雷の落ちる音がした。
その後数回ほど角松による王手ラッシュが続いたが、勝敗が決定的となったのはまさにこのタイミングだったのだろう。
『――ありません』
頭を深く下げ、ハッキリと通る声で、角松が自身の負けを宣言した。
* * *
対局直後の取材と感想戦を終えたのは、それから1時間ほど経った頃。角松と冬路が対局室のある御堂から出てきたときには既に雨は止んでおり、黒い雲の隙間からチラホラと星が瞬いていた。
「師匠!」
「おう、歩! いやぁ、文句無しにやられてしまった!」
駆け寄る黒羽を白い歯がよく見える満面の笑みで出迎え、鍛えられた筋肉を駆使して彼の頭をガシガシと撫で回す。対局直後は敗北のショックが見えた角松だったが、今見ている限りではそれを引きずっている様子は見られない。
むしろ本人以上に暗い顔をしている黒羽の姿に、角松の方が思わず吹き出してしまうほどだった。
「おいおい歩、なんだその顔は?」
「だって師匠――」
「まだ第1局を落としただけだぞ。今日の反省をしっかり活かして、次で巻き返せば良いんだ」
「師匠……」
とはいえ、角松が負けを気にしていないかというと、そんなことは有り得ない。
そもそも将棋のプロ棋士というのは、負けず嫌いでなければ務まらないのだから。
「だがしかし! 今日負けたのは、それはそれで悔しい! というわけで、俺はこれから気分が晴れるまで走り込みをする! 歩よ、おまえはどうする!」
「……お供します!」
「ようし、よく言った! では行くぞ!」
「はい!」
そうして「うおおおおおお!」と世界遺産にも認定されている寺院にはおおよそ似つかわしくない叫び声を上げながら、2人はそのまま境内の中を駆け抜けていった。とはいえ角松は未だに和服姿なので、おそらくどこかで着替えをしてから外に出ると思われる。その程度の理性は残っていると信じたい。
そんな体育会系な2人が去っていくのを雪姫は何とも言い難い表情で見届け、同じような表情を浮かべる冬路へと改めて向き直った。
「お疲れ様でした、師匠。1局目、おめでとうございます」
「うん、雪姫くんもお疲れ様。大活躍だったって、会長から聞いてるよ」
「いや、全然そんなことは……。何だかよく分からないまま終わったって感じで……」
力の抜けた笑みでそう話す雪姫に、冬路もフッと鼻から息を吐いて口角を上げる。
そして、こんな質問をぶつけてきた。
「それで雪姫くん。今日の対局、どうだった?」
「はい。観ていて、凄く感動しました。6六飛から寄せまでの流れがとても綺麗で、大盤解説なのに普通のお客さんみたいに夢中になっちゃいました」
「そうか。それならまぁ、良しとしよう」
雪姫の答えに対し、冬路の返事は何とも微妙なものだった。そのときの表情も、良しとするには笑顔に陰りがある。
しかし雪姫がそれに対して疑問符を浮かべることは無い。
プロ棋士というのは負けず嫌いでなければ務まらない、というのは彼に対しても適用される。それだけの話なのだから。
「この後、ちょっと付き合ってもらえるかな? 6五飛から3四銀とされた後に良い手が見えなかったのが悔しくてね、少し検討したいんだ」
「――――勿論」
その満面の笑みを見なくとも分かるほどに、雪姫の声は弾んでいた。
「塩見三段、少しインタビュー良いですか?」
雪姫と黒羽がそれぞれの師匠とほぼ2日ぶりの再会を果たす場面を遠くから眺めていた塩見に、営業スマイルを携えた三澤が手帳片手に声を掛けてきた。
特に考える素振りを見せず、狐のように目を細めて「構いません」と返事をした。
「塩見三段から見て、今回の対局は如何でしたか?」
「いやぁ、えぇものを観させてもらいました。特にあの寄せは素晴らしい。やっぱりトップ棋士同士の対局は見応えがありますなぁ。しかも今回はそれを裏側から見られたんやさかい、貴重な経験になりましたわ」
にこやかな笑みを浮かべながらそう答える塩見だが、彼の頭に浮かぶ光景は対局室のそれではなかった。
大盤解説の会場にてマイクを片手にトークをする、新四段の雪姫と黒羽。
そしてそれを廊下から襖越しに見つめる、奨励会員の自分。
「成程。これは今月からの三段リーグにも力が入るってものですね!」
「ははは、そうどすなぁ。――ホンマにな」
最後に一言付け足したときの声色は、口にした塩見自身も驚くほどに低かった。
余談だが、日付を跨いでもホテルの部屋で対局の検討をしていた冬路と雪姫、そして周辺を走り回っていた角松と黒羽は、揃って朝食の時間に遅刻したのであった。
* * *
将棋連盟から電車1本で行ける駅が最寄りとはいえ、徒歩でそれなりに掛かる場所に建つアパートがその男性の住まいだった。
10畳もない畳張りの居間に押し入れ、そして玄関へと繋がる台所の脇にトイレという実にシンプルな部屋であり、壁や天井は元々そういった色なのか長年蓄積された汚れなのかも判別できないほどに築年数が経っている。床の畳も窓から降り注ぐ太陽の光によって見事に日焼けし、さらに彼を含む歴代の住人が長年踏みつけてきたことで草臥れ果てている。
「…………」
そんな部屋の中で一際目を惹くのが、中央にでんと置かれた将棋盤だった。テレビすら置かれていないその部屋において文字通りの意味でその将棋盤がレイアウトの中核を担っており、万年床と化している布団ですら将棋盤に場所を譲って壁際に追いやられている。
そして現在部屋の主である彼は、床に直に置かれたノートパソコンを傍らに置いて将棋盤を前に正座し、時折パソコンに目を移して盤上の駒を動かしては考え込む、という作業をひらすら繰り返していた。窓の外から子供の楽しそうな声や犬の鳴き声、更には酔っ払いと思われる男性の叫び声などが聞こえてくるが、彼はそういった雑音には一切頓着せず、ひたすらに将棋の世界に没頭している。
「――ん?」
と、彼のスマホが震えたことで意識が現実世界へと浮上した。
スマホを手に取って、将棋連盟からのメールを着信したことを知る。
「竜王戦の対局相手が決まったか……」
溜息のついでに吐き出したような気の抜けた声でそう呟いた彼は、対局相手の名前を確認したことでその目を大きく見開いた。
「――――白鳥雪姫」