第3話「初めてのお仕事~1日目」
竜王戦第1局、1日目。
10月の京都にしては暖かく穏やかな朝であり、観光地としても人気の市内は風光明媚な町の景色や歴史ある寺院や神社を楽しむ人々の笑顔に溢れている。
しかし対局場であるこの寺院は、まさしく境内の名を表すように外とは一線を画す張り詰めた雰囲気に包まれていた。ヒヤリと空気が冷たく感じるほどのそれは歴史ある寺という神秘的な場所がそうさせていると取ることもできるが、今日に限っては連盟職員や新聞・雑誌などの記者、寺院側の事務員、更には動画を中継する放送局のスタッフなどが、この将棋界きっての一大イベントを無事成功させるため走り回っているのが大きな要因と言えるかもしれない。
「皆さん凄く忙しそうですけど、私も何か手伝った方が良いんじゃ……?」
「大丈夫だよ、白鳥先生。皆、それぞれ自分の仕事を全うしているだけだからね」
「今日の白鳥先生のお仕事は、我々の取材を受けながらタイトル戦を楽しむことですから」
「そうですか? なら良いですけど……」
そんな中、雪姫と黒羽、そして彼女達に密着取材をする広瀬と三澤の4人は、連盟職員の案内によって境内にある建物に向かって歩いている最中だった。雪姫も黒羽も先程から周りの景色をキョロキョロと忙しなく眺めているが、走り回る職員などを見つけては遠慮がちに体を縮こまらせる雪姫と、純粋に寺やタイトル戦の雰囲気を楽しんでいる黒羽といった感じに違いが見られる。
そういうちょっとした事も見逃さず心のメモに書き留めつつ、広瀬が2人に問い掛ける。
「2人共、昨日はよく眠れたかな?」
「さすがに眠れないなんてことは無いですよ。対局するのは自分じゃないので」
「師匠同士のタイトル戦も、まぁ初めてじゃないんで」
「でもお2人共、現地で師匠の対局を観るのは今回が初めてなんですよね?」
三澤の問い掛けに、雪姫と黒羽が同時に頷いた。師匠の対局はネット中継などを介して、つまり一視聴者と同じ視点でしか観戦したことが無く、今回のように他の棋士達と一緒に観戦するのは初めてだ。
別に棋士でなければ会場に入れないなんて決まりは無く、勉強熱心な奨励会員が棋士に紛れて対局を検討することもある。しかし何となくそういった経験の無かった2人からすれば、今日この日こそが文字通りプロの世界に足を踏み入れた日だと言えるかもしれない。
と、そんな会話を交わす内に、目的の建物へと辿り着いた。会場の御殿からは少し距離のある場所に建つそれは本堂の次に大きな建物であり、寺を訪れた客人をもてなすための宿坊やレストランなどが備えられている。
そしてこの建物の地下にある会議室に、棋士や女流棋士が集まって対局を検討する“検討室”が設けられている。
「それじゃ、行こうか」
「――――はい」
広瀬の呼び掛けに頷き、2人は建物の中へと足を踏み入れた。雪姫だけでなく、黒羽もここに来て若干の緊張感を漂わせている。
検討室として選ばれた会議室はその名の通り、和の装いだった建物の外観からはむしろ意外と思うほどに普通の会議室だった。落ち着いた色彩のカーペットが敷かれて机と椅子がズラリと並び、部屋の前面には大きなスクリーンが張られ、プロジェクターによって対局室の様子が映し出されている。
そしてその部屋の中に、既に大勢の棋士や女流棋士、更には取材にやって来た記者などが詰め掛け賑わっていた。解説などの仕事がある者は資料を片手に身支度を整えていたりしているが、大半は机の上に置かれた将棋盤を挟んで座っていたり、あるいは壁に寄り掛かったりしながら、特に将棋とは関係の無い雑談に花を咲かせている。
全体的に和やかな雰囲気であり、しかしその全員からこれから行われる大きな戦いに対する高揚感が漏れ出ていた。それがまるで質量を伴って部屋全体を覆い尽くしているかのような息苦しさを覚え、1歩踏み入れた雪姫が思わずその足を止める。
「おぉっ、白鳥くんに黒羽くん! 今日は色々と宜しく頼むよ!」
と、そんな慌ただしい雰囲気の中でも源会長は入口に立つ雪姫と黒羽の姿を目敏く見つけ、いつもの快活で通りの良い大声で呼び掛けながら手を振って駆け寄ってくる。
そしてそれに釣られるように、部屋中の棋士達が一斉に2人へと顔を向けた。
「――――初めまして。この度新四段となりました、黒羽歩です」
「……お、同じく、白鳥雪姫です。今日から2日間、宜しくお願いします」
一気に浴びせられたその視線の雨に、後退りそうになるのを踏み留まって黒羽が部屋中に呼び掛けるように挨拶をした。それをきっかけに雪姫もその後に続き、2人揃って深々と頭を下げる。
「おいおい、そんな畏まらなくても大丈夫だって!」
「そうそう! タイトル戦なんて祭りみたいなモンなんだから、気楽に楽しめば良いんだよ!」
「何か分からないことがあったら、おじさん達に何でも訊きな!」
そうして真っ先に反応したのは、2人がここに来る直前まで会長と喋っていた、会長と同年代のベテラン棋士達だった。にこやかな笑みで2人を気に掛けるその姿は、まさしく孫にデレデレなお爺ちゃんそのものだ。
「……宜しく」
「取材、大変だろうけど頑張って」
「好きな所に座って良いから」
会長世代よりも一回りから二回り低い世代、年齢で言えば二十代後半から三十代前半の棋士達は、挨拶や気配りこそしてくれたものの、若干の距離を感じざるを得ない反応だった。しかしながら2人に対する興味は相応にあるようで、挨拶を済ませた後もチラチラと2人を盗み見る様子が見られている。
「おーい、雪姫先生! こっちおいで!」
そしてスクリーンから程近い席に座って腕をブンブン振りながら手招きするのは、満面の笑みを浮かべる塩見だった。
「……なんでおまえがこんな所にいるんだよ」
「昨日も言うたやん、黒羽先生。竜王戦に出場するさかい、勉強のためやって。――ささ雪姫先生、こっち座って」
「えーっと、お邪魔します……」
塩見に促されて彼の隣に座る雪姫だけでなく、口では文句を言っていた黒羽も溜息を吐きながら2人の対面の席に座った。何だかんだ言って、彼も知り合いの近くの方が安心するのだろう。
と、そんな雪姫達に近づく者が2人。
「えーっと、せっかくだから挨拶良いか?」
「お会いできて、光栄デス」
年齢はどちらも二十代前半と、この部屋に集まる棋士の中では最も雪姫らと歳が近い。1人はかなりのイケメンだが軽薄な印象の無い、スーツ姿が公営放送のアナウンサーにも見える好青年。そしてもう1人は、180センチは優に超えているであろう長身、白い肌に金色の髪、ハッキリした目鼻立ちと明らかに日本人ではない。
そんな2人に、雪姫と黒羽はすぐに席から立ち上がって向き直った。塩見は事前に挨拶を済ませているのか、その場から動かず成り行きを見守っている。
「初めまして。本居四段と、ウィリアムズ四段ですよね」
「おっ、俺達のこと知っててくれたのか。嬉しいね」
「勿論です。2人共、若手のホープとして有名ですから」
「まぁ確かにプロの中では俺らが一番歳が近いみたいだし、何かあったら俺らを頼ってくれよ」
「ボクのことは、ケンジって呼んでくだサイ。親しい人は、みんなそう呼んでマス」
本居風磨、23歳。昨年秋にプロデビューした若手棋士で、現在順位戦(C級2組)でも4戦全勝という若手有望株。見た目の良さと真正面から相手にぶつかる棋風で特に若い女性ファンからの人気が高く、将棋以外の番組でも取り上げられるなどテレビの露出も多い。
ケンジ・ウィリアムズ、24歳。アメリカで生まれた彼は日本好きな両親の影響で将棋を始め、小学生の頃に両親と共に来日。昨年春に四段へと昇段したことで、海外出身初のプロ棋士として大きな話題を集めた人物だ。
「ほら、もうすぐ対局が始まるだろうし、俺達と一緒に検討しようぜ」
「あなた達と一緒に検討できたら、ボク達も勉強になりマス」
「えっと、私は構いませんけど……」
「ぜひ、宜しくお願いします」
「宜しゅうお頼もうします」
雪姫が真っ先に了承し、黒羽も塩見もそれに倣ったことで、本居とケンジは嬉しそうに3人の傍の席に着いた。
「何というか、意外ですね」
「うん? 何がだね?」
一連の遣り取りを少し離れた場所で眺めつつメモを取り写真を撮っていた広瀬・三澤コンビだったが、ふいに独り言を漏らすように口にした三澤の言葉に、広瀬が取材対象の雪姫達から視線を逸らさないまま問い掛ける。
「いや、私の想像より棋士の皆さんの反応が穏やかだったんで。もっとこう、ライバル心剥き出しでバチバチやるものかと思ってましたよ」
「昔はそういう空気もあったけど、今は全体的に落ち着いた印象はあるね。――まぁ、本人の性格や置かれている立場もあると思うけど」
「性格はともかく、立場というのは?」
三澤が問い掛けると、広瀬は「そうだね」と部屋全体を見渡してから口を開く。
「例えば会長と同じ世代のベテランは、棋力的にもタイトル戦に出ることは残念ながら叶わない。だからどれほど若手の棋士が強かろうと特に影響は無いし、何なら将棋界が盛り上がると喜ぶ場合が多い」
ふむふむ、と頷く三澤。
「若手の部類に入る二十代前半の棋士は、タイトル戦出場を目指している真っ最中だ。だから若手の有力株が登場した場合、自分も負けないように頑張ろうと奮起するパターンが多い」
ほうほう、と頷く三澤。
「しかし棋力がピークに達すると言われる30歳前後の棋士にとっては、これから自分達が将棋界の中心になろうってときに彼女達のような超大型新人が乗り込んできたことになる」
「成程。下から突き上げられる中間管理職みたいな感じですね」
「まぁ、そういうことだね。特に今は絶対王者の氷田名人と角松竜王が君臨していて、なかなかその牙城を崩せずやきもきしていた世代だ。そういった想いを尚更強く抱いていてもおかしくないだろうね」
「確かにその世代の棋士からしたら死活問題でしょうね。――将棋ファンからしたら、盛り上がること間違いなしでしょうけど」
万一にも本人達に聞かれないよう小声でそう話す三澤に、広瀬は苦笑いを浮かべた。
つまり、否定はしなかった。
スクリーンに映る対局室は、まるでそれ自体が1つの絵画のようだった。
対局室には既に立会人と記録係、カメラを首に提げる新聞記者、更には一般公募によって選ばれた見届人がズラリと並び、対局者である2人の入室を音もたてず待っている。日本画の描かれた襖絵とその奥に見える掛け軸も相まって絵巻物のような光景であり、ここが寺であることも併せて神事でも行われるかのように張り詰めた空気となっている。
「おっ、来たぞ」
ベテラン棋士の言葉に、検討室にいた全員がスクリーンへと注目した。
定刻の15分ほど前、2人がほとんど同時に対局室へと足を踏み入れた。現タイトル保持者である角松が上座へ、挑戦者である冬路が下座へと座る。
各々が持って来た飲み物や時計などを自身の周りに配置し、自分が最も対局に集中できる環境を作り上げていく。それを終えると腕を組んだり目を閉じたりして意識を高めていくが、盤を挟んで正面に相対する2人の視線が合うことは一切無い。
そんな2人の一挙手一投足を、一般参加である見届人が固唾を吞んで見守っている。2人の邪魔をしないよう、音を出さずにいるので精一杯な様子だ。
「定刻となりました。只今より、第●●期竜王戦七番勝負、第1局を開始します。角松竜王の先手番で、開始してください」
時計を頻りに確認していた立会人の言葉により、部屋にいる全員が一斉に頭を下げた。
しかし角松は、すぐには動かなかった。盤上をジッと見つめ、そして数十秒ほど経ってから7六歩、つまり角の道を空ける一手を指した。
一方冬路は8四歩、つまり飛車先の歩を動かした。この手は弟子である雪姫も後手番でよく指す手であり、相手の作戦を受けて立つという意思表示である。
そうして角松が指した次の手は――6八銀。
「矢倉か」
本居の言葉に、雪姫ら4人が無言で肯定した。
正式には“矢倉囲い”と呼ばれるそれは自玉を駒で囲って守備陣を構築する戦法の1つであり、江戸時代に出版された将棋の定跡を記した書物にも掲載されるほどに歴史のあるものだ。類型が多く膨大な研究量を必要とし、様々な形が生まれては消え、そして復活した、将棋における“純文学”と評されたこともある奥深い戦法である。
しかしその一方で、コンピューター将棋による激しい攻撃に晒された戦法でもあった。矢倉に対する強力な対策が開発され、その他の戦法が著しい深化を遂げていく中、矢倉はその存在自体が危ぶまれていると言っても差し支えない。
「後手は急戦を仕掛けてくると思うか?」
「先手次第ですが――あっと、2筋の歩を突かれましたね。急戦は無さそうです」
「ってことは、しばらくの間はじっくり進んでいく感じか」
本居と塩見が雪姫の両隣に座って後手番(つまり冬路)の視点で、ケンジは黒羽の隣に座って先手番(つまり角松)の視点で検討する。
「七番勝負の1局目デス。最初はお互い様子見、デスか?」
「1局目は勝って弾みをつけたいだろうしな。まぁ、負けても良い対局なんて無いんだけど」
彼らの予想通り、対局は最初から時間を使ってじっくり考えながら指していく展開となった。冬路が18手目に30分近く考えながら午前のおやつの時間となるが、どちらもジュースとコーヒーという選択であり、スイーツは選ばれなかった。
ネット中継の解説者となっている棋士や女流棋士が、続々と検討室を出ていく。最初よりも人数の減った部屋の中で、雪姫達はスクリーンをチラチラ見遣りつつも、対局自体がゆったりとした展開になっているため徐々に雑談が多くなっていく。
「2人の通ってる学校に、将棋部ってあるの?」
「はい。先日、そこの部長さんから勧誘を受けました」
「あれっ? 入ってなかったんデスか?」
「まぁ、奨励会の方に力を入れたかったんで」
「そういや2人共、中学に上がったときには既に初段だったんだっけ」
「ええなぁ、雪姫ちゃんと一緒に部活できるなんて羨ましいわぁ」
「おい、ナチュラルに俺を省いてんじゃねぇよ――」
矢倉の場合、玉は端に移動しつつ駒によって築かれた城に入っていくのが一般的だが、角松は玉を動かさずに駒組みを進めていく。積極的な姿勢を見せつつも、状況に併せて幾つかの戦形に移行できるよう含みを持たせている。
そうして27手目、角松の玉がようやく動きを見せたところで時刻は12時を回った。昼食休憩は12時半から13時半まで、控室の棋士も含めて昼食の予定を視野に入れる頃だろう。
「選択肢も多いし、ここいらで昼食に入るだろうな。――せっかくだから、一緒にメシ食うか? 近くに美味い蕎麦屋があるんだ。奢るぜ」
「ワオ! お蕎麦大好きデス! 天ぷらも付けまショウ! ゴチになりマス!」
「いやケンジ、おまえには奢らねぇからな?」
――お蕎麦かぁ、何が良いかなぁ……。
本居とケンジが漫才めいた遣り取りを交わす中、雪姫はすっかり蕎麦の気分になっていた。頭の中で様々な具材を蕎麦の上に置き、今の自分が何を欲しているのか吟味する段階まで来ている。
とりあえず彼の提案にイエスの返事をしよう、と雪姫が口を開き――
「おっと。白鳥くんと黒羽くんはこれから大事な仕事があるから、奢るのはまた今度にしてくれ」
かけたそのとき、会長の呼び掛けによってそれは中断された。
「えっ、仕事? 聞いてないんですけど」
「言ってなかったか? あれま、言ったつもりになってたな……」
とにかく宜しくな、と会長に急かされるまま、2人は本居達を置いて控室を後にする。
「ところで、その仕事って何ですか?」
「えっとな――」
今回のタイトル戦の昼食は、検討室と同じ建物内にあるレストランからの提供となる。
寺らしく動物性の食材を使わない精進料理も用意されているが、今回対局者の2人が注文したのは一般の参拝客向けに用意された、動物性の食材も使われた豪華な御膳だった。どちらも秋の彩りを感じさせる目にも鮮やかなメニューだが、メインのおかずやデザートなどに細かな違いが見られるのが特徴だ。
そしてそんな2人の頼んだメニューとまったく同じ物が、幾つものテレビカメラを向けられた雪姫と歩の前に置かれていた。
「それでは、ここからは両対局者のお弟子さんであり、先日中学生プロ棋士となった白鳥先生と黒羽先生を交え、昼食を摂りながらのインタビューとなります。お2人共、宜しくお願い致します」
「よ、宜しくお願いします」
「……宜しくお願いします」
将棋のタイトル戦は、地域振興の意味も持つ。対局の昼休憩に豪華な昼食が用意されるのも、地元の特産品や料理をアピールすることで観光客などを呼び込む目的があるためだ。
ならば本来は対局者、あるいは一般公募で選ばれた人くらいにしか提供されない豪華な昼食を対局者の弟子である雪姫達に振る舞い、それを食べながらトークの1つでもしてもらえればより高い宣伝効果が見込めるとなれば、それを使わない手は無いというわけだ。
「胡麻豆腐、凄く美味しいです。舌触り? が滑らかっていうか――」
「これだけ量があったら、僕みたいな食べ盛りでも満足すると思います」
『頑張って食リポできて偉い』
『まだ中学生でしょ? さすがに贅沢すぎない?』
『単なる中学生じゃなくて未来の名人候補だぞ。先行投資と考えれば安い安い』
『将来これが超お宝映像になったりするのかな』
『いっぱい食べて大きくおなり』
懸命に味や感想をリポートする2人の様子がネットに配信され、そして画面の向こう側にいる視聴者が思い思いのコメントを書き連ねていく。
「お2人はそれぞれ今回の両対局者のお弟子さんということですが、師匠と一緒に食事をする機会はあるんですか?」
「そうですね。師匠の家で研究会をした後に、ご飯をご馳走になることもあります。それと、何かお祝い事があると、豪華な料理を作ってくれたりしますね」
「僕の所も、大体そんな感じですね。それと偶に、近所のお店に連れてってくれたりもします」
「へぇ、そうなんですね。そういうときって、どのようなメニューが多いんですか?」
「私の所だと、結構色々なジャンルの料理が出てきますね。玲さん――師匠の奥さんが料理好きなので。でも師匠は普段小食なので、師匠の分まで私が食べることも結構あります」
「僕の所は師匠が体を鍛えてるんで、そういうのに効果的な料理が多いですね。赤身の多い肉だったり、他にもタンパク質の多い料理とか。まぁ頭を使う仕事なんで、糖質制限とかはしてませんけど」
『氷田名人って食事するんだ……』
『おまえは名人を何だと思ってるんだ』
『霞食ってりゃどうとでもなる将棋仙人』
『やっぱ竜王は普段の食事から気を遣ってるんだなぁ』
『弟子の口から語られる師匠の姿からしか摂取できない栄養がある』
こうして公式対局すら未経験の2人による食リポとインタビューは、少なくとも動画のコメントを見る限りは盛況の内に幕を閉じた。
「うぅ、疲れたぁ……」
「好評だったよ、白鳥くん! お仕事お疲れさん!」
検討室に戻ってくるなりテーブルに突っ伏してしまった雪姫に、会長が躍るように軽やかなステップで近づき満面の笑みで労いの言葉を掛けてきた。傍目には明らかにご機嫌なその様子から、その言葉が単なるお世辞でないようで雪姫はひとまずホッと胸を撫で下ろす。
そんな彼女の姿に、外で蕎麦と天ぷらを食べてきた本居達が同情の混じった笑顔を浮かべた。
「ああいうのって、確かに緊張するよなぁ。俺も1回やったことあるけど、せっかくのご馳走なのに全然味わえなかったわ」
「2人の食レポ、見てマシタ! 凄く美味しそうだったネ!」
「確かに、如何にも京都って感じがウケそうやったなぁ」
「おまえが言うと、皮肉に聞こえるな」
「……本心やで?」
塩見の言葉に黒羽が「どうだか」と鼻で笑っている間も、雪姫は大きな溜息を吐いて疲労困憊といった様子だった。
そんな彼女を見かねてか、本居が手に持っていたビニール袋に手を入れる。
「ほら、近くの和菓子屋でどら焼き買ってきたんだ。小腹が空いたら食べな」
「どら焼き! いただきます!」
その瞬間、あれだけ疲れていたはずの雪姫は即座に上半身を跳ね上げ、本居からどら焼きを受け取ると包装をペリペリと剥がし、そのまま勢いよく頬張った。上品な甘さが口の中に広がり、ムフーと満足そうに鼻から息を吐いて表情を緩ませる。
そして、目を丸くしてこちらを見つめる男性陣に気が付き、一気に頬を紅く染めた。
「さっき食べた昼食、結構な量あったよな?」
「こいつ、見た目によらず結構食うんで」
「ええんと違う? いっぱい食べる女の子、僕は好きやわぁ」
「食べ盛りデスからね! いっぱい食べるべきデス!」
「さ、さっきは緊張しててあんまり食べた気がしないっていうか――あぁほら! 対局が再開しますよ!」
恥ずかしそうに捲し立てながらモニターを指差す雪姫に、あまりツッコミを入れるのも可哀想かと思った男性陣は大人しくそれに釣られてあげることにした。
再開時刻である午後1時半となる直前、挑戦者である冬路が対局室へと入ってきた。角松竜王が姿を現わさないまま定刻となり、立会人により対局再開の挨拶がされるや、ほぼノータイムで7五歩を着手した。おそらく昼食の時間も使って考えたそれは、互いの歩の交換を目指した積極的な一手だ。
角松が戻ってきたのは、それから数分ほど経った頃。ゆっくりと所定の位置に座って盤面を見遣ると、同歩とする。すかさずそこに冬路の角が滑り込み、歩の交換が成立した。
2日制の対局の場合、1日目に大きく形勢が傾くことはあまり無い。持ち時間が多くじっくりと考えられるからというのもあるが、身も蓋も無い言い方をしてしまうと、早い段階で決着がついてしまうと興行的に面白くないからという事情もある。
しかし駒がぶつからない静かな盤面でありながら、実際は水面下において激しい主導権の奪い合いが行われていた。歩を差し出しながら大駒に揺さぶりを掛け、どこから攻め入るか、はたまた守りを固めるか慎重に探りを入れていく。長考を挟みながら次の一手を決めていくこの時間帯は、激しい攻めの応酬とはまた違ったヒリヒリと肌を焼くような緊迫感に包まれる。
「――おっ、夕方のチャイムだ」
午後5時を回り、防災無線から落ち着いた童謡のメロディーが流れ出した。
1日目の対局終了予定時刻は午後6時、その時点で手番だった者が“封じ手”をすることになっている。次の一手を決めてそれを指定の紙に記して封筒に入れ、翌日の対局開始時まで書き換えられないよう立会人などが厳重に保管するのである。
この封じ手をどちらが行うかについても、攻防戦が繰り広げられることがある。自分で封じ手をした後に大きなミスに気づいて一晩中眠れないとか、逆に相手の封じ手が気になって一晩中眠れないとかがあるため、人によって積極的に封じ手をしたがったり拒否したがったりするのである。
とはいえ2人は封じ手に対してさほど拘りがある方ではないので、今回はすんなりと角松が封じ手をすることとなった。記録係の奨励会員が封じ手用の紙に盤面を描き始めたのを見て完成させるよう小声で告げたことから、その時点で自分が封じ手をすると決めていたのだろう。
中身を見られないよう一度別室に移動し、描かれた盤面に赤ペンでどの駒をどこに動かすのか記したら封筒に入れて糊付け、万一の紛失に備えて同じものを2通用意して対局室に戻り、糊付けの部分に対局者がそれぞれサインをしたら完成である。
「以上をもちまして、第●●期竜王戦七番勝負、第1局1日目を終了致します。明日は午前9時から開始となります」
立会人の挨拶により、1日目の対局が終了した。
予報によると、明日はずっと雨模様となるらしい。