第2話「初めてのお仕事~前夜祭」
今回対局が行われるのは、京都にある長い歴史を誇るお寺である。平安時代初期に建立されたその寺は世界遺産にも指定されており、積み重ねてきた歴史の重さによる荘厳さ、寺という(少なくとも雪姫にとっては)馴染みの薄い場所から来る非日常感、綺麗に手入れされた日本庭園から来る華やかさが同居した、まさに将棋のタイトル戦を行うに相応しい雰囲気に包まれた会場だ。
京都駅に到着した一行が連盟の手配した送迎車に乗って会場へ向かうと、住職を筆頭に事務方の長などがズラリと並んで出迎えてくれた。そうして挨拶を一通り済ませると、さっそく今回の対局場である離れへと向かい、対局者2人による“検分”が行われる。
検分とは謂わば、対局会場の下見である。
対局場に着いてまず確認するのが、対局に使われる将棋盤や駒だ。大体は2種類を用意してヒビ割れや劣化が無いかを確認したうえで、どちらを使うか決めることとなる。どちらも最高級の一品なのは間違いないのだが、駒の文体や色などに大きな違いがあるためだ。
そうして次に、対局場の環境が長時間の対局に耐え得るものかを確認する。室温や照明の調整、騒音が無いかどうか、将棋盤や記録係のテーブルの位置などを見て、対局者の要望にできるだけ合わせていく。
「竜王、何かご要望はございますか?」
「いえ、これで大丈夫です」
「名人は如何でしょうか?」
「私も問題ありません」
とはいえこのお寺自体が何度もタイトル戦の会場になっており、角松も冬路も細かく注文を付ける質ではないため、ものの数分ですんなりと作業が終わった。時には対局者同士の注文が衝突したり『庭の滝の音がうるさいから止めてくれ』などといった事態が起こることもあるため、無事にここを乗り切れたことに関係者は内心ホッと胸を撫で下ろした。
こうして検分も終わり、後は各々自由に過ごしながら明日の対局に向けて気持ちを集中させる――といったことにはならない。
何故ならば、棋士本人や連盟、更には会場となる地域の人々にとっても特に重要なイベントである“前夜祭”が控えているからだ。
『それではここで、明日からの竜王戦第1局を戦います、角松竜王と氷田名人の入場となります! 皆様方、盛大な拍手でお迎えください!』
場所は、寺の近くにあるホテルの大宴会場。寺には宿坊もあり宴会を開くだけの大広間もあるのだが、今回は立食形式のパーティーを想定していたため別会場での開催と相成った。
司会進行役のアナウンスによって入場した、現竜王の角松と挑戦者の冬路。そんな彼らを拍手で迎えるのは、東京駅から一緒にここまでやって来た棋士や連盟職員などの面々に加え、現地で合流した他の棋士や女流棋士、事前に公募して選ばれた一般の参加者、更には開催地の市長を始めとした地元の有力者も多く並んでいる。
「この町は将棋のタイトル戦と非常に所縁の深い場所となっており、いずれも将棋界の歴史に残る素晴らしい対局となっております。今回竜王戦の幕開けとしてこの地を選んでくださったことは、市長という立場としても1人の市民としても大変名誉であり――」
将棋がプロ競技として認められてタイトル戦が設立されて以降、それらには“興行”の側面が付与されるようになった。前夜祭も含めて1つのイベントとして捉え、地域振興という名目を掲げることによって地元の人々の協力を得てきたのである。
そもそも将棋連盟の活動自体が『将棋の普及発展と技術向上を図り、我が国の文化の向上、伝承に資するとともに、将棋を通じて諸外国との交流親善を図り、もって伝統文化の向上発展に寄与すること』を目的として掲げている。棋戦を開催し棋士及び女流棋士に活躍の機会を与えるのも、全国各地に将棋教室や育成機関を設けるのも、こうした前夜祭や各種イベントにて将棋ファンとの交流を深めるのも、全てはそういった目的を果たすためだ。
故にプロの棋士として活動する以上、前夜祭に対しても手を抜くことは許されない。
「四段昇段おめでとうございます! 頑張ってください!」
「ありがとうございます。頑張ります」
「奨励会時代から応援してました! 大ファンです!」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「師匠の氷田名人に負けない大記録、期待してます!」
「ありがとうございます。応援、よろしくお願いします」
現在、前夜祭は市長や会長による挨拶と乾杯を終え、一般参加者も交えた歓談の時間となっている。会場にはホテルの用意した美味しそうな料理の数々が並んでいるが、参加者のほとんどがそれには目もくれず、それぞれ好きな棋士の前に列を作り、会話を交わしたり写真を撮ったりとコミュニケーションを楽しんでいた。
その中でも特に長い行列を作っていたのが、竜王戦の主役である角松と冬路、そして今回急遽の参加となった雪姫と黒羽だった。特に後者の2人は今回が初のイベント参加であるため、熱心な将棋ファンがこぞって詰め掛ける事態となっている。とはいえイベントに慣れた者が多いからか特に混乱も無く、きっちりと列を作って1人数秒の交流に留めている辺り流石といったところだろう。
「同じ女性として勇気を貰えました! 応援してます!」
「ありがとうございます。お互い、頑張りましょう」
「男性ばかりの世界ですけど、負けないでください!」
「ありがとうございます。全力を尽くします」
それにしても、やはりというべきか、雪姫の列に並ぶ参加者は他の棋士よりも女性の比率が高かった。初めてプロ棋士となった少女、しかも男性を含めても非常に珍しい中学生プロということで、色々と期待する女性ファンも多いのだろう。
もっとも、性別や年齢に関係無く対等に戦えるのが将棋の魅力だと思っている雪姫にとって、特に女性だからといった感覚は持ち合わせていない。しかしわざわざこの場でそれを指摘する必要は無いため、この場では素直にお礼を言って握手に応じていた。
――うぅ……、料理美味しそうだなぁ……。
しかしながら、乾杯の挨拶からずっとファンサービスに応じていた雪姫は、初めてということもあり若干の疲れを感じ始めていた。美味しそうな料理を目の前にお預けとなっているのも、食べ盛りの中学生としては辛いものがある。
「良かったらこちらをどうぞ、雪姫先生」
「えっ?」
と、ふいに横から幾つか料理の盛られた皿が眼前にニュッと現れ、雪姫は思わず目を丸くした。目の前に並ぶ女性ファンもその皿を持つ人物に口をポカンと開けているが、その表情には自分の番で横槍を入れてきたその人物に対する怒りといった感情は無く、むしろ思わぬ登場に困惑と驚きが入り混じってるといった感じだ。
「――塩見さん!?」
「こんばんは、雪姫先生」
その人物――塩見楽三段に雪姫が驚きの声を向けると、彼は悪戯が成功した子供のようにニヤッと笑みを浮かべて挨拶してきた。
「えっ、なんで塩見さんが?」
「僕の実家、呉服屋なんは知ってんやろ? 明日の対局、どちらの先生もウチで仕立てた着物を着るさかい、実家の手伝いで会場まで持って来たんやわ。ほんなら会長が、せっかくやさかい参加してきたら、って言うてくれてな」
「へぇ、そうだったんですね――あっ! すみません!」
思わぬ知り合いの登場にそのままお喋りをしていた雪姫は、ファンとの交流の真っ最中であることに気づき、慌てて目の前の列へと向き直って謝罪の言葉を口にした。
しかし先頭の女性は、そんな雪姫に対して笑顔で首を横に振った。
「いえいえ、私達は大丈夫です。少し疲れてるみたいなんで、休憩がてらということで」
その女性の言葉に、後ろに並ぶ人達も頻りに頷いたりしていた。
「えっと……、すみません、ありがとうございます。それじゃ、1分だけ」
「皆さん、ありがとうございます」
胸の奥がじんわりと温かくなる心地になりながら、雪姫は腰を折って深々と頭を下げた。その隣で、塩見も揃って頭を下げる。
そうして将棋ファンが距離を空けて見守る中、雪姫は塩見から箸を受け取り、彼の持って来た料理の中からカツオのたたきを選んで口に運んだ。とろける食感と旨味が口いっぱいに広がり、自然にホワッと顔が綻ぶのが自分でも分かる。
「美味しそうに食べるなぁ。持って来た甲斐があったわ」
とはいえ、塩見にそれを指摘されると途端に恥ずかしくなったのか、雪姫は即座に表情を引き締めて咄嗟に話題を変える。
「それにしても、会長もよく入れてくれましたね」
「奨励会員は立入禁止なんて決まりはあらへんしな。それに僕の場合、来期の竜王戦の出場資格があるさかい、勉強のためにって名目もあるし」
「あっ、そうか。塩見さん、この前のリーグで次点でしたもんね」
竜王戦の大きな特徴として棋戦最高額の賞金がよく挙げられるが、それと同じくらい特徴的なのが、プロ棋士だけでなく女流棋士や奨励会員、更には大会で優秀な成績を修めたアマチュアにも出場の門戸が開かれていることだろう。
前期の三段リーグで雪姫・歩に次ぐ3位の成績を修め次点を獲得した塩見は、竜王ランキング戦6組に設けられた奨励会員枠での出場権を与えられている。仮に彼がランキング戦を優勝すると次点が1つ付与され、次の三段リーグで降段点(18局中4勝以下)を取らない限りフリークラスでのプロ棋士編入が認められることになる。
もっとも、竜王ランキング戦を優勝するということは、同じ6組に出場する雪姫や黒羽も退ける必要があるのだが。
「まぁ、そない回りくどい真似しいひんでも、次のリーグで決めたらええだけの話や。フリークラスやと順位戦に参加できひんしね」
「塩見さん、結構その辺りの拘りが強いんですね。何だか意外な感じですけど」
「そら棋士たるもの、名人を目指してなんぼやん。――雪姫先生、一足先にプロの世界で待っとってください。僕も必ず追いつくんで」
「はい、待ってます。頑張ってください」
「おおきに。――邪魔して申し訳ありまへん。ほな、僕はこれで」
将棋ファンの列にもう一度頭を下げ、塩見はそのまま足早にその場を去っていった。
そんな彼の背中を少しだけ見送り、雪姫も再び列へと向き直る。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いえいえ。むしろ、ごちそうさまです」
放ったらかしにしてしまったというのに、何故か列に並ぶファンは満足げな笑顔を浮かべていた。中には「エモい……」などと絞り出すような小声と共に両手を合わせて拝むようなポーズを取る者もいる。
「…………?」
そんなファンの姿に、雪姫はただ首を傾げるのみだった。
1時間弱となる歓談の時間を経て、角松と冬路による決意表明を兼ねた挨拶が始まった。現竜王である角松は「充実した内容と共に竜王を防衛して実力を見せつけたい」となかなか攻撃的な挨拶をしたのに対し、冬路は「皆さんを楽しませるような将棋を指したい」と竜王奪取については敢えて触れない内容なのが印象的だった。
それを終えると両者は会場を後にしたのだが、その際にそれぞれの弟子(つまり雪姫と黒羽)による花束贈呈の時間が設けられた。そちらも会長から直前になって言い渡されたことであり、弟子2人の強張った笑顔と師匠2人の自然な笑顔が一般の参加者、そして新聞や雑誌の記者が持つカメラ等にバッチリ収められたことだろう。
そうして現在、ベテランの棋士による今回のタイトル戦における展望予想を兼ねた挨拶が行われている頃、
「どうも、黒羽先生」
「……おう」
笑顔を浮かべながら近づく塩見に、黒羽が挨拶とも単なる返事とも取れる短い言葉で返した。そのときの表情も彼を鋭く睨みつけ、明らかに警戒しているのを隠していないようなものだった。
とはいえ、それも致し方無いのかもしれない。食事を載せた皿を持って雪姫に近づいてきたときとは違い、塩見の笑顔は自然なものとは言い難い、謂わば本当の感情を隠すためのマスクとしての貼り付けたような笑顔だったからである。奨励会に入ったときからの付き合いだけあって、黒羽にはそれが手に取るように分かったのだろう。
「何や黒羽先生、そないに警戒しいひんでも」
「そんな胡散臭い笑顔、誰だって警戒するだろ。てか、その“先生”っての止めろよ。嫌味ったらしい」
「嫌味と違うで。僕はこう見えても、分別は弁えてはる方なんで」
塩見の言葉に、黒羽は『どうだか』とでも言わんばかりにフッと鼻で笑った。
「へぇ。それじゃ、おまえが四段になったら元に戻すってことか?」
「そや。そやさかい、半年後までの辛抱や」
「随分と自信があるじゃねぇか。次点を取った奴が次の三段リーグでボロボロになるなんて、そんなに珍しいことじゃないんだけどな」
「そうやろな。そやけど、僕は次のリーグで決めるつもりやわぁ」
馬鹿にする態度で口元に笑みを浮かべていた黒羽だったが、塩見のその言葉でスッと笑みが消えた。
その代わりとばかりに、塩見の口角がニヤリと更に上がる。
「来年の順位戦で、僕に負かされて昇級できひんかった黒羽先生の悔しがる顔見たいさかいな」
「――その台詞、そっくりそのまま返してやるよ」
鋭さを増した目つきと共に吐き捨てた黒羽の言葉に、塩見は何も言わずニコリと笑って返した。
その笑顔は、自然なものに思えた。
* * *
こうして前夜祭は、会場の片隅で交わされた遣り取りなど知る由も無く、一般の参加者からは好評の内に幕を閉じた。
そして次の日、将棋界最高峰の戦いの火蓋が切って落とされる。