第一章 ハジマリ 3
「まさか、追ってくるとはな」
すると、また聞こえた。あの姿無き声だ。
「誰だ? さっきの人だよな」
「お前、喋るなと言っている!」
少女が微動だにせず、噛み付いた。美しい朱の唇が動き、長い髪の向こうの矢のような視線がさらに鋭くなる。
「落ち着け、つばめ。もしかすると、こいつかもしれない。正体が分かるまでは静かにしてろ」
長い息を吐くように、声が言った。
「正体って、何の話だ?」
話が見えない。むしろこっちはそちらの正体が知りたい。仁は周囲を見渡したい気持ちだったが、肩に乗る刃が無言にてそれを制す。冷や汗が頬を伝った。
「お前、実はさっき会ったときから、妙な気配を感じていたが、さては、『千羽虫』か?」
「虫? 僕は人間だ」
突拍子もないことを謎の声に言われ、仁は面食らう。眉をひそめ、虫と呼ばれたことに対し、心外だという感情を示した。
しかし、透明な声の主は静かに笑った。
「兄さん、顔に見覚えが?」
「何かの間違いだ。僕はそのせんばむしとやらじゃない」
「嘘だ!」
少女が叫ぶ。彼女は仁を敵と捉えてその枠から一寸も外すつもりはないようだった。しかし、仁とて、はいそうです、と認めるわけにもいかない。頬を切らない程度、僅かに首を振る。
「嘘じゃない。とにかく、この刀をどけてくれないか?」
そして、刀の峰を触ろうと手を伸ばすと、なぜかすっと少女は引いた。軽いステップを踏んで、飛び退る。
「あ、ありがとう」
感謝を言ったが、それもつかの間、少女の目は安らかではないことを仁は確認する。むしろ、怒りの炎に燃えていた。
「刀を、抜け」
「は?」
「つばめ、ちょっと待て。少年、聞きたいことがある」
「何、でしょうか?」
刺激しないように、慎重に仁は言葉を選ぶ。さすがに刀を持った相手が目の前にいる。不用意な言葉で八つ裂きにされたくはない。
「歳はいくつだ?」
「歳、ですか?」
「いいから答えろ」
少女が刀を振り、風が唸った。
「じゅ、十六です」
「……嘘は言っていないように見える」
「本当ですから」
「体つきも、こんな風ではなかったような」
姿無き声の敵意が少しずつ静まってきたようだ。怒りに満ちた緊張が解かれ、疑いが混じり始めている。
「兄さん?」
「……つばめ、こいつじゃあない。俺の勘が間違っていたようだ」
この口ぶりは、どうやら人違いだと分かってくれたようである。仁は安堵する。とりあえずの危機は回避された。
すぐに少女も刀を収めてくれるだろう。
そう思ったが、上手くはいかなかった。
「刀を構えなおせ」
再び冷徹な声が響く。
仁は耳を疑った。もう訳がわからない。両手を挙げ、降参のポーズをとる。
「どうして? 僕はあんたたちの敵じゃない」
「そうだ。確かに敵ではない。が、お前から感じるただならぬ気配。それは否定できぬ」
「ただならぬ、気配?」
「少年、名前は?」
「小日向、仁だ」
おずおずと答えると、すぱりと竹を割るような笑い声が響いた。それは、身震いを誘発させるような呵呵大笑。
いったいどこから聞こえてくるのか、不気味なことこの上ない。
少女の目が大きく見開かれたのが見えた。
その名がどうしたのいうのだ。
「小日向、小日向仁。そうか、少年、お前は小日向家の人間か。それで意味が分かった。まさかこんな場所で、こんな偶然があるとは。ハハハ」
これには仁も堪忍袋の緒が切れた。
「おい! いい加減にしろ。あんたたちは何者だ。何が目的だ。この子はどうして刀なんて持ってる!」
意外にも返答は早かった。
「愚問だな。小日向家の人間なら知らないはずはないだろう」
もしかすると、また何か勘違いをされているのだろうか。仁にはやはり状況がさっぱり理解できない。
こんな風に横暴で、刀を持った人間の話など、仁は露ほども聞いたことがなかったのだ。もしかすると精神異常者なのか、とも思うが、少女の目は正気の色を失っているわけでもない。ならば、自分が気がふれたのか?
「僕は何も知らない。あんたらが勝手に勘違いしているだけじゃないのか?」
首を振りながら、正気を確かめた。
「馬鹿を言うな。俺が匂いを嗅ぎ間違うはずはない。少年、本当に何も知らないのか? この刀を見ても?」
「本当だ。僕には何も分からない」
場の空気が張り詰めたのを感じる。少しの身じろぎも出来ない、金縛りにあったような感覚。
少女の瞳が仁を捉えていた。真っ直ぐに。
蛇に睨まれたカエルってことかよ。
「つばめ、あごだ」
短く、尖った声が命令し、少女が……消えた。
間を置かずして……。
こつ。
仁の呼吸が空気を吸い込みきれず、止まる。あごに何かが触れていた。視線が僅かに上向き、固定される。
「嘘か、本当か、にわかには信じがたい話だったが、知らないってことは事実のようだな」
いつの間にか、刀が、仁のあごの下にあった。逃げる暇もなく、少女が動いたことさえ、察知できなかった。
冷たくひんやりとした刃の感じ。身を切り裂く、鋭利な死の予感が肌に触れていた。
「……」
仁はぐうの音も出ない。
「我らが剣客の汚点、小日向家。誇りを失い、立ち向かうべき敵すら見失い、武器を捨てた一族。自らの運命に背き、今や、その罪すら忘却したというのか? 聞き捨てならんな」
「こいつが、祖先の宿敵!」
少女の声が視線の下から響く。さらに突きつけられた刃に力がこもり、顔の角度が上がる。
いったい、何がどうなってるんだ。
仁は必死に思考を展開しようとしたが、思い通りにいかない。手を伸ばそうとするが砂が指先をすり抜けるように、何もつかめず、頭の中が真っ白になっていた。