93.神獣と秋
誰の助けも期待できぬ。農耕も、育児も。
そんな状態は、然して、子の成長によって解決された。
安直にいえば、春陽の首が据わった。
抱っこ紐の様に展開した魔力膜で春陽を背中に固定する。春陽の背中、ガチャガチャと鳴るのは哺乳瓶代わりのシリンジや、真空状態で保存した人工乳の類である。その他、野営のための布やら、薪やら、何やらが堆く積んである。
拡張した体躯に乳飲み子を背負って駆ける。少し荒れた田畑を整備し直していく。春陽が泣けば、その場で凌ぐ。夜も朝も無い。野営を前提として動けば、春陽に掛ける時間などたかが知れている。
それが正しいとは思わない。常に振動がある状態が乳児にどの様な影響を与えるかは、私の知識には無い。なるべく振動を通さぬようにと幾重に魔力膜を積層しているが、何処まで機能しているのかすら分からない。とりあえず、蒸留水を入れた瓶が倒れない程度には、サスペンションとして機能しているようではある。
一月ほどだ。
たった一月。それでも手入れを怠っていた箇所の損傷はそれなりである。時期も悪かった。よりにも依って雑草の繁茂しやすく、水位の調整も難しい、夏場だった。しかし、今さら文句を言っても仕方が無い。これまでの遅れを取り戻すように、昼夜を問わず、農地を駆ける、駆ける。
里長が、春陽をどう思っているのか。そんな疑問を持ったのもこの時期だ。赤児の頭というのは柔らかい。どれだけ敷物を敷こうとも、床に寝かしたままにしておけば、床に接する部分が平らになってしまうものである。かつての里でも、忌み子とされた子には、その様な歪な頭の形をした子が多かった。
春陽にはそれが無い。とても綺麗な頭の形をしている。つまり、産まれてからこれまでの、殆どの時間を誰かの腕の中で生きていたのでは無いだろうか。誰か、里長以外におるまい。産後の苦しみを味わい乍ら、それでも我が子を離すまいと、そう育てたのでは無いだろうか。だと言うのに、私に子を預けると言う。
預ける。ああ、そうだ。あの女は確かにそう言った。預ける、いつかは返して欲しいと言うことだろうか。
思わず、喉の奥から笑みが零れる。なるほど、なるほど。
分かったような気がする。里と子供を天秤に掛けて、苦しんでいるのは私だけでは無いという事が。
なれば、この子、春陽は大切な預かり物だ。時を経て、再び育てることになった私の養女。あの時から何も変わらない。里の在り方のせいで雁字搦めになった母、一種の贄として差し出された娘、その双方を上手く結び付けてやれば良いのだろう。そんなことは、千年以上も前にやった事があるさ。
伊達に神様扱いされるほどの長寿ではないのだ。お年寄りの知恵を舐めてはいけない
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金色の野を風が駆けていく。
秋だ。
稲穂は重い頭を垂らして、収穫の時を待つ。
展開した魔力鎌を振るう、振るう。重い稲穂が受け皿の様に展開した魔力膜にのし掛かる。それらを順次、脱穀のための水車小屋に送り込む。
その量に満足する。
嗚呼、良かった。私は約束を守れたのだな。
そのまま死んでしまいそうである。とは言え、背中に負った赤児が泣く。その声が私を現実に戻す。
まだ死ねないさ。
弥源とも、里長とも約束がある。何よりも。
遠く、風に乗って歓声が届く。
なんということか。まるで謀ったかの様に、弥源達が帰ってきた。その荷台に、沢山の人々を乗せて。




