92.神獣とワークライフバランス
パチパチと、薪が燃える。
急拵えの小屋の中、部屋の中央に据えた囲炉裏から橙色の炎が室内を明るく照らしている。
囲炉裏の縁、毛皮を敷いた上には赤児、春陽が寝かされている。
ウトウトとしていたのは先程までのこと、いまは黒目の大きな瞳を見開いて、何が面白いのが私の尾の先を見詰めている。
フリフリとゆっくりと揺らしてみれば、視線だけでそれを追い掛ける。首も据わっていないのか、やはり、先月産まれたばかりと言うのは本当なのだろう。唇を尾でつつくと微かに吸い付く、目覚めたと言うことは腹が減ったのであろうか、人工乳を湯煎して暖める。木製のシリンジをゆっくりと押し出してやれば、存外に器用に飲み下した。体に魔力尾を巻いて、縦にゆっくりと揺らしてやると、ゲプリ、と大きなゲップをした。
しばらくそうして揺すってやると、眠たげに瞼が落ちてくる。静かに、静かに床に降ろすと、口の端に泡を浮かべながら寝入っていった。
僥倖と言うべきか。
遙か過去に私が人工乳を造っていた小屋は、かつての姿のままで残っていた。里長の塒から逃げ出すように駆けてきて、里の知己を訪ねる。
「朝早く済まない!しかし火急の用件だ、ご容赦願いたい!今すぐ、米と乳と………!」
幾つもの家々を巡り、寸暇も惜しいと人工乳の材料を調達する。
かつての「トラの家」から、使えそうなモノを一切合財持ち出す。人工乳の製造に使っていた小屋からは、ガラス製の器具などの、再製造が難しいモノを根こそぎ持って行く。急いで、自分の耕作地に向かって駆ける。
脳裏に描くのは周辺の地図。子育てなど想定の範囲に無い。どうする、毎日の作業効率を落とさず、それでも数瞬も目を離せば死ぬやも知れぬ赤児を養う為には、何処に居を構えるべきか。
耕作地の中には住居にと宛がった土地もある、その中から、この時期の作業にとって最適な解は。
背中に負った赤児が鳴く。
『家』が必要だ。建材は何処から。いや、それよりも。
錯綜した思考が巡る。かつての春陽を、数多の子らを思い出す。あの時はどうしていた。拓いた森から木材を調達するのは、間に合うのか。
糞っ、と心の中で悪態をつく。
分かっている。私の今の動きの全てが里長の想定内だと。こうして、里人達に借りを作り、今後の開拓に向けた起点を作り、更にはこの赤児をその先導者とするつもりだ。
分かっている。
だが。だがしかし。
「………あの、狡猾な女狐め!」
悪態をつく以外に私に出来ることはない。
跳ぶ。
かつての森は今は無い。
建材となる木々を、石材を求めて広野を駆ける。
その日の夕べ、ようやく『家』と呼べる小屋が仕上がった。
背負った春陽に探査。脱水症状が出始めている。
歯噛みしながら人工乳の製造に掛かる。
今日だけで何回目になるのかも分からない舌打ち。
糖類の精製が間に合わない。
魔力膜を精密に操作、牛乳から乳児に有害な物質だけを漉し取る。自信はない。出来たのはタンパク質と乳糖、後は水分だけの出来損ないだ。それでも無いよりはマシだと吸わせる。幾らかを飲み下した後に、スヤスヤと眠り始める。魔力尾で抱き抱えつつ、かつてのレシピを再現する。蔗糖を、蒸留水を精製し、それらを混合していく。細菌相はどうする、かつては小雪から培養したモノを使っていたが、今となっては不可能だ。仕方ない、寝ている春陽の肛門から魔力糸を差し入れて、細胞の一部を採取する。
ふぇ、と短い泣き声。
背筋に悪寒がする。
息を詰めて、数瞬。再び寝入った春陽を床に横たえる。思わず、溜め息が漏れる。気を取り直して、作業を進める。本来であれば人々の群れで生きる中に、自然と取り入れる種々の腸内細菌だが、乳児の内から隔離されれば話は別である。かつての里のように、親の異なる子供達が集まっていれば良いのだが、それも望むべくもない。とりあえず、採取した細胞から細菌相を培養して、逐次あたえるより他には無い。多様性は下がるだろうが、一応、母親と一月ほどは過ごしている。生存に必要不可欠なモノは揃っているはずだ。
ほぅ、と溜め息が漏れる。
我が子を棄てた里長のことを思い出す。それ以上に、何故、私は人でないのであろうか、と考えてしまう。もし、私が人であれば、私の細胞から培養すれば良いのだ、しかし、人と猫ではそれも適わない。
これも無い、あれも無い。無い無いづくしだ。かつての春陽を思い出す。
我ながら大仰に溜め息を付く。
魔力を操作して耳に似た器官を模倣する。それを赤児の春陽のそばに置いて、外に出る。
予定は大きく狂ったが、田畑の世話はせねばならぬ。
寝ている間にも、少しは進めていこう。
日の落ちた中を駆けていく。瞬く星と大きな月。それらの明かりを頼りに、今日一日分の仕事を熟していく。
春陽のそばにおいた魔力耳に反応が入る度に、全力で家まで駆ける。襁褓を替えてやり、乳を飲ませた所で畑に戻る。
驚くほどに進まない。
どだい無理なのかも知れない。かつてのトラの里の様に数十人程度を養う規模の畑ならば、乳飲み子を抱えていてもなんとか世話を出来た。が、しかしである。今の畑の面積はその一万倍は下らない。私が全力で駆けても端から端まで往復するには、それなりに時間が掛かる。
スヤスヤと眠る春陽を見ながら、煩悶する。
どうする。畑の世話は私しか出来ない、今の里に余剰の労働力は無い。
誰か、乳母でもいてくれたら、話は別であるが、里長の命でも下っているのか、春陽の面倒を見てくれる者はいない。
いっそ、今年の畑作は諦めるか。手を加えるのは最低限にしても、一定の収穫は見込める。何処まで妥協するかは、後々に考えるとして。
いや、やはりそれはマズい。
弥源達と連絡が取れない今、此方の収穫量が見込みを下回れば計画が狂うことは避けられない。
では、どうする。春陽の世話を放棄するか。私が、赤児を見殺すのか。
そんなことは絶対にしたくない。
仕事と育児の間で、挟まれる。
腹に感じる春陽の体温、その暖かさを感じる。
幼子一人と里の未来を秤に掛ける。
分かっている。
合理的なのは、春陽を棄てることだ。だが。
「理屈に合う、それだけで生きていけるなら、どんなに楽なのだろうな………」
穏やかに眠る春陽に益体もなく、愚痴をこぼしてしまう。
また、陽が落ちる。
遅々として進まぬ作業、ただ過ぎていく時間。
溜め息を零す私を、ただ星明かりが照らしてくれた。




