89.神獣とヒトとの邂逅
やるべき事、知るべき事は山積していた。
その中で優先度を割り振り、少しづつ、前に進む。
常であれば農閑期、家に籠もって雑貨などの細工などに勤しむ里人にも、協力を求める。
全ては、ヒトのために。
それはまるで、梅の遺した言葉を体現するように。
楽をするために、苦労する。
来年の田を広げるために開墾する。
いつか来る大水に、洪水に、噴火に抗するために治水を進める。
かつて、龍の如く里を襲った山体崩壊。それにより拡大した河川を飼い慣らしていく。数多の砂防ダムと堅固な石造りの堤防を張り巡らす。
私の眠っている内に繁茂した森を伐採する。材木を運び出したのに広がる広大な原野に火を放ち、水路を張り巡らせ、畦を盛っていく。そうして広がった畑を、水田にあるいは住居に、牧畜に。それぞれに適した姿に変えていく。
変化は開墾のみに留まらない。既存の里には上水道と下水、更には雨水の給排水網を全体に張り巡らせる。
或いは、荒れ果てた街道。視界を埋める樹木を切り払い、山々を切り拓く。均した土の上に、人の手では不可能な速度で石畳を普請していく。要所に水場を引き、仮の宿と出来るように東屋を建てていく。
里長と弥源は、それぞれの知識を競い合うように、これからの事を決めていく。それを具体案に落とし込み、毎日毎日、泥と雪塗れになるまで動き続ける。
今までは里長にだけ施されていた古語、そして弥源の持ち込んだ近代語、それらに加えて梅に渡した字引を再翻訳して里人らに教える。それはあたかも学校教育の様だ。老婆が翁が、我々には既に不要であるから、と炊事や雑用に回ってくれる。
里が一丸となって先を目指す。
目指す先も明瞭でないままに。
長く、かつて無いほど短い冬を越す。
まだ残る淡雪の下、紅梅が蕾を付ける。
「………もうすぐ、春が訪れますね」
月に一度。朔の日に行われる会合は、里長の時候の挨拶から始まった。
「トラ様、私と弥源様は度々お聞きしておりますが、この中には全体の進捗に明るくない者もおります。一度、進捗の程を説明頂いてもよろしいでしょうか?」
視線を向ける里長に、頷きを返す。是非も無し。この春からは正に総力戦となる。そのためにも情報の共有は必要だろう。
「まず、今まで進めてきた事を挙げていこう。一つ目は里の皆の基礎学力の向上だ。これは皆も大なり小なり関わっているので、心当たりのあるモノも多いだろう。ただ、これについての進捗は長殿の方がよく知っている。後で改めてお聞かせ願いたい」
息を付く。春風というにはまだ冷たい風が、髭を撫でていく。
「逆に私が主導したのは主に開墾だ。里の北、私が眠っていた辺りから、御山の麓までの樹海を大きく開墾した。御山が崩れた後に出来た河には十重二十重に堤を敷き、適宜、浚渫すれば大水となることも無いだろう。既に水田、秣場、畑としての整備も済んでいる。後は春の種蒔きが難儀だが、私が手伝えば、今年はなんとかなる」
私の言葉に一同が息を呑む。
その声に疑惑を感じたのか、里長が口を開く。
「………真です。トラ様の背に乗り、駆け巡りました。少なくとも今の里の数百、もしくは千倍にも届く土地が、この春からでも作付け出来るでしょう」
そうですね。と私の隣の弥源にも問い掛ける。
「間違いありませぬ。あれ程の耕地は虎国広しと謂えども、他には無い、そう断言出来るほどの治水がなされ、焼いた木々の灰は土地を潤して余りあります」
弥源が答える。
この一冬で随分と雰囲気が変わった。書生然とした頼り無さが身を潜め、どこか修行僧めいた威厳が醸されている。切る間も惜しいと伸ばした髪を後ろで結び、皆の前でも凜とした様子でいる。
或いは激務により窶れた痩躯が、そう見せるのか。
少し、弥源の健康に気を遣った方が良いな、とそう思う。これまでの生活から一変して里長と並ぶほどの仕事量をこなしているのだ。今は気が張っている故に違和感すら無いのかもしれないが、その緊張から開放された途端に、倒れられても困るのだ。
「次の話に移ってもよいかな?」
ええ、と里長が短く返す。
「このトラの里に続く古街道は5つあった。その全てを普請し直した。ただ、何故にも他の郷と繋がるものであるからな。入口は念入りに隠してある。幅は牛車で4台は並べられる。牛の歩みであれば、最も長いもので二週間ほどだろう。それに合わせて、水場と宿坊は仮拵えしてある。人の往来が盛んになれば、宿場町として広げる準備も出来ている」
何せ、これからの事を考えれば街道は生命線だ。そう、視線で問い質す。里長と弥源、彼等が口にした未来像、それは未だに変わっていないことを、その覚悟を試すように。
「次は、里の整備だが、これは住んでいるお主らの方が詳しいだろう。どうだ?不具合はないか?」
私の言葉に里長の隣に座る老婆が答える。
「不具合などありませぬ。この冬に凍傷を患った者はおらず。また、病に伏せる者も少なくなりました。トラ様の言う、衛生、の概念も広がりつつあります」
それは何より、と返す。
「最後に、これはこの場で初めて明かすのだが」
意図せず、言葉が途切れる。
唾を呑み込む。
いつもこうだ。人の一歩を押し出すときの緊張は、何度となく体験しても私を縛る。それでも。
『生きろ、殖えよ。己が生を全うせよ。楽をせよ。生きづらき世を生きやすく変えろ』、梅の言葉が蘇る。
『お前が残したモノは全部つかって!惨めったらしく!それでも、俺達は生きる事を選ぶ!』、あの言葉に背中を押される。
そうか、私が、私自身が梅たちに遺した最も有益なモノだったのかも知れないな。
『行け!トラ!』
あの時の梅が、紅潮した顔を涙で濡らしていた姿が、鮮明に蘇る。分かっている。ありがとう。お前は本当に善く出来た私の娘だ。
「河のダムの二つに細工をした。銅と鋼を用意出来れば、水力発電が可能だ」
その言葉を、本当の意味で理解したのは二人のみ。
里長と弥源が息を呑み。一拍を置いて決意の炎を瞳に宿す。




