84.神獣を喚ぶ者
男は名を、弥源と言った。
その名を知る者は多くは無い。
虎都の塵が最後に行き着く場所と名高い左の袋の川岸街において、火葬場に寄ってくる野犬を追い払う薄汚い小男と云えば、十に二、三人はその陰気な姿を思い出す、そんな男だ。
葬場の守人と云えば、下級とは言え官吏の一人。世において下にも置かれぬ身分でありながらも、俸給の殆どを書に注ぎ込み、仕事以外は殆ど家から出ずに書淫に耽る様から、人々からの覚えは良くは無い。
洗いぎすで縺れた糸が飛び出す官服の他は、文机と僅かな茶道具が片端に寄せられ、残りは書に埋め尽くされた荒屋の中で、それでも彼は幸福であった。さる文官の庶子として生を受け、若くして母には先立たれたものの、金子に困らぬ父は私塾にも通わせてくれ、末端とは言え官職の口も利いてくれた。既に齢は18となり、同時期に奉公に入った者たちの中には、身を固め、子を持つ者もいる中で、色事とは無縁の生活を送る。その事に、諧謔めいた暗い楽しみを覚え、脳裏に詰め込んだ万巻の知に酔う。恐らくは、このまま生の終わる時まで、己の悦楽に没頭し続ける生活を送ることが出来るのであろう。その未来は曖昧として具体的な像を結ぶ事は無いが、なに、昨日と変わらぬ今日、今日と変わらぬ明日、その様に極々近視眼的に生きていけば、そう遠からず未来の方からやってくる。弥源にとっての生とは、或いは、その様なものであった。短絡的とも言え、見方に依れば達観とも取れる。その様な考えを持つこの男に、転機が訪れたのは、さる晩春の日のことである。
「………………はっ………?」
上席に当たる老人の言葉に、思わず疑問を呈する。
聞こえているのか、いないのか。老人は言葉も無く一枚の紙を渡す。この様な都の掃き溜めにおいて、多くの者は生涯見ることなど能わぬ上白紙。微かに紫色の光沢を滲ませるそれには、今上帝の印が捺され、この紙にある内容が勅であることが記されている。問題であるのは、その紙の中程にある弥源の名である。
官舎とは名ばかりの小屋の中、表通りからの喧噪が僅かに届く。場末に相応しく、小汚い簡素な内装。火葬場の使用記録が詰め込まれた棚と粗末な机のみの室内で、目前に置かれた勅書を食い入るように見詰める。
修辞に塗れたそれを読み解けば、それは。
「………飽つ海の郷司を任ずる………」
飽つ海。
表通りを歩く人々の誰でも良い、百人ばかりを捕まえて、アクツウミを知っているか?と問えば、首をかしげる者が殆どだろう。少し学のある者が混じっていれば、皆が農学の祖と崇める梅雪君の故郷にして虎国の興った地と答えるだろう。更に事情に通じる者がいれば、そこが度重なる遷都に依って、今では蛮族と魑魅魍魎の跋扈する辺境である事を教えてくれる。恐らく、具体的な位置、とりわけ、この虎都からの道筋など知る者はいない。遥か昔、夥しい時の砂の中に埋もれた古都、それが現在における人々たちの共通認識である。
目眩を覚える。
郷司と云えば、卑しくも一領の首長に値する。恐ろしいばかりの出世である。しかし、その地がよりにも依って飽つ海とはどういうことであろうか。辺境も辺境。いかに広大な虎国とは言え、事実上、放棄された陸の孤島である。真面な行政機構が機能しているのか、そもそも今でも人は住んでいるのだろうか。そんな事すら疑問に思う。
「………お主が初代の飽つ海の郷司らしい、とそれを持ってきた者は言っておった。故に5年は税を免除するとも………」
思わず天を仰いだ弥源に、茶を啜っていた老人が言葉をかける。
その言葉に、鈍い弥源も漸く思い至る。
これは、流刑だ。
恐らくは内裏に出入りする父に何かがあったのだ。それが、政争に敗れたのか、或いは勝った後に庶子たる自分が邪魔になったのか、知る由は無いが、兎に角、自分の存在が邪魔になったのだ。
もう一度、勅書を読む。老人の言葉に嘘は無い。しかし、今の住処も引き払わねばならぬし、路銀はどうするのか。支度金などについては何も記載が無いと言うことは、全てを自弁せねばならぬと、言外に命ぜられている。
断りたい。弥源は強くそう思った。
しかし、勅に背く事は死を意味する、その程度の事はこの男も理解しているのだった。
世話になっている書店や古本屋、貸本屋に頭を下げては、小屋の中の書を処分していく。苦労して手に入れた希覯本を手放す時は身を引き裂かれる思いがした。代わりに手に入った銭で、長旅に向けたあれこれを準備していく。実際に外を出歩く事など滅多に無いが、山行記などを頼りにしていけば、少しは格好が付いた。
虎都に出入りする行商人に口を利いて貰い、飽つ海を目指す。荷馬車の露台に腰掛けながら、どうしても手放す事の出来なかった書を捲っていく。
万巻記と名付けられたそれは、梅雪君が神より賜った神書、その写しであるという。未だにその多くは解読されていないにも関わらず、それらの記述には誤りが見当たらぬという。伝説染みた話ではあるが、遥か昔に虎国の成り立った時、梅雪君はこの全てを読み解き、人々を導いたという。現在の虎国における万学の祖であり、恐らくは頂きの一つであろう、とその様に伝えられている。大枚を叩いて手に入れたそれは終ぞ、手放す事が出来なかった。今では読むことの出来る者も少ない、古語で綴られた古書であるが、弥源にとっては愛読書の最たるものである。手垢に塗れたそれを読み返し乍ら、既に初夏に差し掛かった陽日の中を揺られて行く。
馬車、渡し舟、時折、徒歩と様々に乗り継いだ先、飽つ海への道の入口だと、教えられたそこは、藪の中に僅かに踏み跡の残る古道であった。思わず、ここまで連れだった行商人に問い掛ける。
「本当か!?とても人里に続く道とは思えないぞ!?」
その言葉に商人は苦い笑みを浮かべる。困惑するように藪の中を指差し、少し覗いて見ろという。言われるがままに藪の中に分け入って見れば、苔生した石柱に何やら文字が彫り込んである。指先でなぞり、薄くなった溝を探りながら読んでみれば、確かに虎郷の文字。
虎郷。虎都と呼ばれる前の虎国の首都を示す名前である。
まさかと思い、足元をよく見てみれば、下生えの中には、確かに人の手で普請された石畳の名残が見える。
愕然とした思いで道の先を見通す。人の背を遙かに越す草叢、陽の光の差さぬ鬱蒼とした樹林。そして、遙かに遠くには山々がそびえ立つ。
反射的に脳裏に地図を描く。いつ頃、描かれたかも定かでは無い古地図によれば、飽つ海はあの山の向こう、海岸にほど近い場所のはずだ。思わず膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。その姿を見た商人が気の毒そうに声を掛ける。
「………飽つ海への道は幾つかあれども、ここが一番マシって話です。むかーし、通ったことがあるっていう爺がいうには一月も歩けば人里が見えると」
こんな道を一月。一月だと。
余りの困惑に一言すら漏らすことも出来ずに座り込む弥源に、商人が気の毒そうな視線を送る。
「………………どうしますか、アッシらといくならこの先の町までご案内しますが………?」
呆然としたままに、反射的に道行を想像する。
この様子では宿場はおろか、飯場すら無いだろう。食料も水も持ってきてはいるが、それはせいぜいが数日分である。野営の準備もしてはきているが、経験は無い。
無い無いづくしだ。
自問する。誰か旅慣れた者に同道を頼むか、いや、路銀は既に尽きかけている、誰かを雇う余裕は無い。しかし、都に帰れば死罪である。
行くても死、戻りても死。
では逃げるか。果たして、書に耽溺してきた自分が、知己の無い地で着の身着のままから生きていけるのか。
袋小路に追い詰められた鼠の気持ちだ。
結局、弥源は商人から買えるだけの食い物を売って貰い、古道を進む事を選ぶ。遙か過去に忘れ去られた虎郷を目指して。
混乱した記憶が甦る。葉の擦れる音にすら怖じ気づき、獣を恐れて眠ることも儘ならぬ。段々と意識が朦朧としてくる中で、只ひたすらに歩く。水場を見付ける度に水筒を一杯にし、腹が膨らむまで水を飲む。最後に飯を喰ったのはいつだったのか、それすらも忘れかけた時。
海が見えた。
煌めく水面。
その手前に鬱蒼たる森とは違う、開けた土地。そこには水田が海に向かって段々としている。
思わず、腰が抜けた。
呆けた頭の中に、様々な思いが過る。
飯が食える。人が住んでいる。
何よりも。
「本当に、里があったのか………………」
伸びた髭でザラつく頬を、顎を撫でさすりながら、思わず独白する。
ここが、あの梅雪君が虎国を興した土地なのか。
思わず浮かび上がった考えに身震いする。自分が伝説の地に足を踏み入れたことへの感動がフツフツと湧き上がる。
これまでの疲れを忘れるように、弥源は里に向かって駆け出した。
………………そこまでで一度、接続を切る。
心身への負荷が大きすぎる。これ以上は廃人になりかねないと、判断する。
それに、続きは本人が目を覚ましてから、ゆっくりと訊けば良いだろう。
血に塗れ、傷だらけになった肉体を魔力糸で繕ってやりながら、嘆息する。
「………………まったく、無茶な孫を持つと苦労する」




