76.電波猫と涙
涙には不思議な力がある。
我々は本来、異物の除去のためにしか涙を流さない。それでも昨日、春陽に撫でられながら、存分に涙を流した今なら、涙が持つ不思議な効果とやらが実感できる。
端的に言えば、すっきりした。
行き場の無い後悔、それに縛られて自縄自縛になっていた心持ち。それらの鎖が少し綻んだ様な気がする。
何か事態が変化したわけではない。
春陽は最後まで、私を赦すとは言わなかったし、かと言って咎める事もしなかった。ただ、ひたすら私の言葉を聞いて、優しく撫でてくれて、疲れ果てた時分を見計らって、床に入った。
久しく使われていなかった囲炉裏に火を入れて、その傍で二人で一緒の毛皮に包まって寝た。
私を抱いたまま、横寝をする春陽はすっかり寝相が良くなっていて、昔のように蹴られる事も無かった。
燠火に暖められた室内、暖かな春陽の腕の中から這いだして、一人、軒先に立つ。
赤に近い暁光が、次第に白めいていく。藍色の空が青く澄んでいく。それをじっとみつめる。
まだ弱い陽光の中で、星々が瞬く、そんな時分だ。
春陽は何も言わなかった。
きっと、言うべき言葉は無かったのだ。
私の思う善きことと、春菜たちの思う善きこと。その両方を知って、きっと秤にかけて、そしてその天秤はどちらにも傾かなかったのだろう。
それでも遠くに見える煙を見付けて、私を訪ねてくれた、今はそれで充分だ。
春菜と私。現実主義者と理想主義者。実母と継母。どんな言葉を使っても良い。
辛い判断だったと思う。そんなことを強いてしまった事を、より長く生きたモノとして恥じ入る。
そして思う。春陽を信じよう、と。
春陽は私を見捨てていない。私の言葉はまだ届くのだと信じよう。そう思うことで、この地の人々が、準敵性個体から保護対象に切り替わる。
その滑らかさに動揺する。私の螺子は何処まで緩んでいるのだろうか。
然して、自然と笑みが零れる。
なんだ。こんなに簡単な事だったのか。
あんなに悩んでいたのに、春陽に少し優しくして貰っただけで絆されるくらいに、私は緩んでいるのだ。
もっと気楽にいこう。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
ここはかつての「家」とは違う。
春陽を育て、今は私だけの寝床になった、私だけの家だ。
遠い隣人たちと、ぶつかる事もあるだろう。
それでも良い。
ぶつかって、お互いを擦り合って、角が取れたときにわかり合えればそれでいい。
差し当たって、忌み子の件を春陽に相談しよう。
私は、赤児が死ぬのが嫌なのだ、とそう正直に伝えよう。
春陽は何も罰しない。私が、私であるために、何かを見付けるべきだと、そう春陽は判断したのだ。昇る朝日を見ながら、そんなことを考える。
これはきっと、どうすれば良い、と言った問題では無い。私が、何をしたいのか、それを決めなくてはいけない。きっと春陽はそう伝えたいのだろう。
だから、私は私の中の答えを探す。
簡易催眠でもなく、奥深くに刻まれた設計思想すら超えて、この時代で私がしたい事を思索する。やらなければならない、そう思うことは、止めよう。それでも縛られる何かを受け容れよう。それを更に超えて、「私」の意思を固めよう。人がみなそうするように。私もまた、自身の在り方を決める時期が来たのだ。
瞬く星々が、陽光に塗り潰されていく。
数多に光るそれらが、一つの光に打ち消されていく。その様をじっと見詰める。善は、きっと幾つもある。しかしそれは、星々の様に散在する。それらから、遍く生を照らすような、そんなモノを探すべきなのかも知れない。
昇る朝日、既に青に染まった空には微かに滲む半月が浮かぶ。




