70.電波猫と小雪
しんしんと、深々と、雪が降る。
分厚い灰色の雲から、微かな風に乗って舞う雪が降り積もっていく。幾重にも重なり合う、大粒の雪。その白い帳に隠されて、視界は幾程も無い。
静かだ。
雨と同じく、感覚器に干渉する雪のため、まるで世界が止まってしまった様にも感じられる。ただ、ゆっくりと落ちていく雪の一欠片が、まだ時間が止まっていないことを示しているようだった。
ふと、舞い落ちる雪の一粒に目を取られる。薄い雪片が重なり合った複雑な形。その一欠片が、実に幾何学的で規則正しい結晶を成している。その事を私は知っている。しかし、揺らめきながら落ちていく様を見ていれば、ただ柔らかい綿が白い地面に吸い寄せられていく、その様にしか見えない。一粒が音も無く地に触れる。凹凸のある表面に陽の光が差し込む。光は雪の中で散乱し、どこか柔らかい光となって視界に映る。曇天の空と相まって、雲の上に立っているような、不思議な心地がした。
知識として知っていることと、経験として理解していることは違う。舞い落ちる雪の結晶がどれだけ鋭利な形をしているか知っていても、それが積み重なると雲のように柔らかく見えることを、一粒の雪の結晶から想像する事は難しい。
逆もそうだ。この柔らかく発光する雪が、針を組み上げたような粒から成ることを、或いは、その細やかさに注意する事すらも、ただ何処までも広がる雪原を見ていただけでは気付けないだろう。
「…………そう、思わないか。…………小雪」
背に負った小雪に語り掛ける。ただしんしんと降り続く雪の中で。
朔の日に里を訪れた帰りの事だ。
山積した猟果を里に運び、春陽にそれを渡す。
衆目の前で、春陽が恭しく感謝の言葉を述べて、私は対価として魔晶石を受け取る。若葉が逝った後は、春陽は名実ともに巫女として扱われている。ともあれ、最近になって這うようになった、春陽の子を脇に抱えてのことであるので、以前の様な緊迫感にも似た厳かさは無い。赤子の泣き声というものは、どんな演出や虚飾も剥ぎ取って、それが単なる生活の一部であると気付かせてくれる。
軽くなった体を労るように、里と塒を繋ぐ木道を戻っていく。一週間ほど前から降り始めた雪が、森も道も覆い隠してしまって、自分が道を歩いているのか、はたまた森の中に踏み入れているのか、容易には判別できない。それでも道の上だけは空が開けて見えるので、方向すら見間違う、と言うほどではない。
ほう、と吐いた息が白い。
あの巌の様だった若葉が逝ってから、里に赴く理由が一つ減った。春陽や春陽の子の様子を見に行くこともあるが、春陽の方からやってくることも多いので、やはり頻度はかなり少なくなっている。
実害はない。春陽は良く里に溶け込んで、月に一度の連絡の際には、里の近況を教えてくれる。その甲斐もあって、朔の日に運ぶ品々が足りない、と言った事も無い。それでも折々につけて、いなくなってしまったあの老婆に、私がどれ程、助けられていたのか気付かされる。失ってから気付くことは多い。私と春陽が変えてしまった里の在り方を、柔らかく周知し、或いは受け容れやすく噛み砕き、影に日向に私達に協力していてくれた。
それに、私にとって本当の意味で対等に相談できる相手というのは、やはりあの老婆を於いて他にいなかったように思える。
定命ならば誰だっていずれ死ぬ。
形あるものはいずれは朽ちる。
そんなことは知っている。そう思っていた。
この地に来て、この様に人の死を悼むのは何度目になるだろうか。知っている、とは知っている以上の意味を持たない。どれ程に、誰だっていつかは死ぬと知っていても、いざ彼の人が居なくなり、それでも続く日々の中に彼の人の面影を探す度に、乾いた悲しみを覚えるのだ。
少し、足を止める。
里から続く私の足跡が、あっという間に覆い隠される。降り続く雪は、暗幕の様に感覚器を阻害する。その中で、自分自身を対象に、索敵系を起動する。
常に無い精度で結果が戻る。戦闘機能から駆動系は基より体組成にすらエラーが無い。
既に耐用年数を大きく超えて駆動しているにも係わらず、だ。
私は老化していない。少なくとも老化を裏付ける結果が悉く不在している。身に覚えはある。損傷する度に原型を模して再生する魔力膜、それらが経年劣化すらも修復しているのだろう。しかし、それではまるで。
「………これが神様を騙った罰なのかな」
それではまるで、自分が尋常の生き物ではないと、そう突き付けられた様だった。一足先に逝ってしまった若葉に会えるのは、随分先のことになりそうだ。
若葉が寝たきりになった原因は雪の中で転んだためだと聞いた。その時もこの様に静かに雪が降っていたのだろうか。
そんな事を考えながら、とぼとぼと塒を目指す。
ソレに気付くのが遅れたのは、雪によるジャミングと、そんな物思いに耽っていたためか。
熱源探索の一部に反応があった。
間抜けな狸でも巣穴から出て来たのか、と無視しかけた時、音響探査にも反応。その反応が、人の赤子の泣き声に一致する。
ガチリ、と撃鉄が落ちるように思考が切り替わる。
熱源探索と音響探査の結果から割り出した推定範囲に最大出力の索敵。
ジャミングの効果をフィルタリングして精度を稼ぐ。当たりを付けた地点に向けて駆け出しつつ、順次もどってくる解析結果を基に目標地点を補正していく。
見付けた。
目標を視界に捉えて、全力の疾走。
雪を跳ね飛ばしながら近づく。
精度を増した索敵系が、それを保護対象として認識する。種々の結果から、対象は生後間もない赤子、既に軽度の低体温症と凍傷が認められ、さらに重度の脱水を起こしている。
そしてなにより。
極至近で目視する。
おざなりに掛けられていた毛皮を剥ぎ取る。
歯噛みする。
これが、原因か。
その赤子の左足は奇妙にねじくれていた。
赤子を背負って疾走する。
赤子を包むように魔力膜を形成。交戦回路の一部を起動して、自分の体温を上げる。赤子の体温が少しだけ戻る。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
今朝、里に向かっていた途中には、この赤子はいなかった。催眠下から引き出したログを再走査した結果がそれを裏付けている。赤子が自分で動ける筈も無し、何者かがあの場に捨て置いたのだろう。そして、その理由など、火を見るより明らかだ。
強くなければ、生きていけない。
そんなこの時代の不文律が、形を持って現れた。
まただ。春陽の時もそうだった。周りに勝手に選ばれて、選別されて、そして皆のために死ねと言われる。そんな事を一つずつ無くしてきた、そう思っていた。弱くとも生きていけるのだと、そう知らしめてきた。それでもまだ足りなかった。
噛み締めた奥歯が鳴る。知っている。この感情は怒りと、そう呼ぶのだ。
捨て子だとすれば、親を探しても埒が明かない。捨ててきたモノが帰ってきたから、やはり面倒を見るなどと心変わりするにも、昨日今日では時間が足りなさすぎる。そして、その改心を待ってやれる余力が、この子にはもう残されていない。
私の塒に戻っても仕方が無い。暖は取れる。凍傷の処置は出来る。しかし、赤子に飲ませる乳が無ければ、この脱水と飢餓は対応できない。
なり振り構っている余裕は無かった。
雪原を弾道の様に切り裂いて、私が向かったのは、乳が出て、間違いなく捨て子の親では無い。そう、春陽の元だった。
「お帰り下さい」
家の戸口から橙色の光が零れる。
半ば羽交い締めされるように、家の奥に押し込まれた春陽が何事かと誰何する。
その前に立ち、石槍を此方に向けて、春菜はそう言い捨てた。
叫ぶ。
「何故だ!この子に春陽の乳を分けてくれと、そうしなければこの子は死ぬと、そう言っているのが分からないのか!」
トラ、どうしたの。家の中から春陽の声。
「春陽!出て来てはなりません。若葉を連れて隠れていなさい」
春陽の声を遮って春菜が叫ぶ。
再び、石槍の穂先が向けられる。
溶岩を磨いた黒色の穂先が、囲炉裏の炎を反射して燃えるようだ。
何故だ、と再度問おうとする私を遮って春菜が言う。
「トラ様。いいえ、いと慈悲深さ御神よ。人とは何でしょうか?」
思考に空白を捻じ込まれる。
そんな問答など後で幾らでも付き合ってやるから、いまはそこを通せ。そんな思いが身を焼く。いや、焼くに留まらない。既に暴走に近い状態にあった魔力が神としての威容をとる。それは紛れもない威嚇だ。
しかし、それを目にしても尚、春菜の瞳には覚悟の火が灯っている。
「………人とは、道具を作り、操り、言葉を交わす。火を味方とし、群れで生きる。そんな問答をお前はしたいのか!?」
肥大した体躯から怒声が飛ぶ。
「そうです。そして御神の背負いしソレは人としての形を持たず、自ら歩むことも出来ず、ただ朽ちていくだけの虫と同じです。我ら女子は、その様な忌み子を産まれ落ちた時に息を止めると、そうしているのです。そうで無ければ、呪いは伝播し、次なる赤子も虫と成れ果てると」
春菜は震えていた。
ガタガタと音を立てるように、穂先が揺れる。
春菜の背を、春陽が押す。
何処にその様な力があるのか、春菜はびくともしない。
それは紛れもなく、娘を、孫を守ろうとする親の姿だ。
しかし、それでも譲れない。
こんな問答をしている間にも、この赤子の命の灯が消えかけていく。それが私にはよく分かる。
「そんなことは無い。例え手足が無かろうと、人は人だ。生まれ持って無ければ作れば良い。私ならばそれが出来る。だから、今は、今だけは、この子の命を救ってくれ!」
懇願する。
懇願する事しか出来ない。
だって今の私にこの子は救えない。
だから頼む、頼む、と繰り返す。
お願いだ。今までずっと、お前たちを助けて来たでは無いか。
お前たちを救ってやったでは無いか。
だから。
「頼む。私を信じてくれ。呪いなんてそんなモノは無いのだ。こんなモノは、ただの怪我と大した違いは無い。腹の中で怪我をしたか、産まれてから怪我をしたか、その程度の違いでしか無いのだ」
「母様!お願い!トラの言うことを聞いてあげて!」
春陽が春菜を押しのけ、顔を見せる。
私の姿を見て、目を見開く。
あの春陽すら怯えるほど、今の私は恐ろしいのか。
だが、そんな私に正対し、春陽を押し留めながら、それでも春菜は譲らない。
「お帰り下さい。私は忌み子の呪いを知っております。かつて忌み子に情けを掛け、命を落とした我が姉。そして忌み子の呪いによって娘をルイオディウに仕立て上げられた私は、知っているのです。そんな忌まわしいモノを私の娘に近付けさせはしない!」
春菜が槍を突き出す。いや、分からない。単に春陽に背を押されて、一歩踏み出しただけだったのかも知れない。
しかし、交戦回路が稼働していた私は、それを攻撃と判断した。
反射的に形成された魔力尾が、春菜の手を打ち付ける、その刹那。
ガチリ、と魔力膜どおしがかち合う音が響いた。
腕に紫の燐光を纏った春陽が、私の魔力尾を打ち払った。
春陽が振り抜いた腕を引き戻す。
そっと、春菜の前に立つ。
泣いていた。
久しぶりに、春陽の涙を見た。
昔はあんなに泣き虫だったのに。
いつからだろう。春陽が泣かなくなったのは。泣き顔を見せなくなったのは。それはきっと、春陽が大人になったからだ。
だけど、泣かせてしまった。
威勢が削がれる。
張りぼての魔力膜を解除する。
「違う。違うのだ、春陽。春菜を傷つける気は無かったのだ」
分かってくれるのではないか。そう期待していなかったと言えば嘘だ。
春陽なら、私が育てたこの娘なら。私の言葉を信じてくれると、私はきっと思っていた。
「………帰って」
泣き顔を隠すように俯いた春陽は、そう言い残して家に入っていった。
そこだけが、今の春陽のいるべき場所だと、そう言う様に。
しんしんと、深々と、雪が降る。
雲の向こうに、大きな月が透けて見えた。
「………大丈夫だ、きっとなんとかなる」
大きな河川の傍、何処までも広がる雪原に足跡を残していく。
夜になって気温が下がったためか、雪は小粒となった。
小雪の舞う、美しい夜だ
「あの里の者は、子供の名前に産まれた日の様子を付けると言う。お前は女子のようだし、小雪と言う名前はどうだろうか?」
背中に向かって話し掛ける。
月明かりに雪が照らされて、その光が薄い雲にも反射する。
見渡す限りが、ボンヤリと輝いている。
「大丈夫、私が育てた春陽は里で一番の獣取りになった。小雪もきっと一端になる。狩りで無くても良い、裁縫や、家事でも、何だったら建築でも、私に教えられることは何でも教えよう」
一際強い風が吹く。
積もった雪が吹き散らされ、視界が閉ざされる。
「寒くはないか?」
寒くなどない。
「大丈夫。この世にあの里にしか人が住んでいないなんてことは無い。どこかで乳の出る女を捜して、頼んでみよう」
そんなことはもう無駄だ。
サクサクと音がする。
それは私が雪を踏む音。
時折、ピシャリと音がする。
それは私の涙が髭を伝って落ちる音。
背中からの音は無い。
心音も呼吸音も、とうの昔に止まってしまった。
「………ねぇ、小雪。お願いだからもう一度、泣いてくれないか?」




