68.電波猫と若葉
風の無い日だ。
空には薄く白墨を掃いた様に、何処までも雲が伸び、白めく薄雲から、音も無く小雪が舞い落ちる。一昨日から、しんしんと降り続くそれらが、葉を落とした木々を、原野を、家々をゆっくりと覆っていく。まるで綿帽子を被せた様に、あらゆるものの輪郭を緩やかに雪が覆い隠す。
南に聳える大山を始め、遠く東に並ぶ山脈も雪化粧を施されていた。秋の紅葉と落葉の後、雑多な色に染まった景色が白一色で塗り替えられる。何処までも続く雪の覆いが、陽光の下で淡く、或いは鏡面の様に明るく、様々に輝いている。命の息遣いを押し隠す様な、静かな、けれどもとても美しい日だった。
明るさに誘われる様に玄関を出る。途端に風に一撫でされる。冷たい冬の空気が後ろ毛を逆撫でて、思わず全身に震えが走る。薄い雲は大地の熱を受け止めてはくれない。骨の髄まで染み入るように、ひどく寒い。地面を踏み締めれば、柔からかな雪の下、凍てついた地面が固い感触を返してくる。
なんとなく、予感がした。
朝と呼ぶには遅く、昼と呼ぶには早い。そんな中途半端な時間に、家を出る。歩いている間にも背中に静かに積もっていく淡雪を、度々落としながら、塒から里に続く木道を歩いて行く。雪が音を吸いとってしまうのか、辺りは酷く静かだ。常ならば、風に揺られる木々が、雪の下でも尚騒がしい小動物が、まるで皆で居なくなってしまったよう。
ただ、淡い雪が、何処までも降っている。
ゆっくりと、噛み締めるように歩いて行く。木道を覆う雪に、点々と足跡が続いていく。雪に彩られた森の景色を目に焼き付ける様に時間を掛けて、里に向かう。
里に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だ。
白く輝く視界の中で、家々の戸口から明かりが漏れる。純白の中に橙色が点々とし、そこだけがひどく暖かに見える。美しい雪景色に混じる僅かな人の営みが、雪の美しさが生命のそれとは異なるのだと、まるでそう言っているようにも感じられた。
まだ陽のある内であるというのに、一際、煌々と薪を焚く一軒に歩み寄る。戸口で名を告げれば、すんなりと家人から許しが出る。狭い屋内を横切る。床に厚く敷かれた毛皮の上に、私の足形に沿って雪が積もる。少し申し訳なく思いながら、家の奥、寝台に横たわる老婆に歩み寄る。
「若葉、息災か?」
私の言葉に、若葉は僅かに頷いた。
形式めいたやり取りをしているな、と思う。一年前に脚を痛めてから、若葉は歩けなくなった。先月までは、それでも用足しに子守りにと、細々と動き回って居たが、最近ではそれも億劫らしく、一日の殆どを床で過ごしている。用足しの度に、家人を呼ぶのも憚られるのだろうか、食も細くなり、それに連れて体はまるで枯れ枝の様に細くなった。
若葉が手を振る。それを見た娘が孫たちを連れて外に出て行く。恐らく、話があるのだろう。そう思い付いた。
「………トラ様」
掠れた声で私を呼ぶ。ヒビ割れた唇を、少しでも潤すように、一度、唇を噛む。その様子を見ながら、どうした、と応える。
「………トラ様、お怨み申しております」
乾いた肌は、樹木の皮を思わせる。巌のように何事にも動じずに、全てを受け取るかの様な、圧迫感を内在した頼もしさは、既にない。あるのは命が消えゆく時の寂寞とした、儚さだけだ。その様な老婆が、今、私への思いを口にしている。
ただ静かに待つ。彼女の一言すら漏らさぬように、頷きのみを返して、先を勧める。
「あれは何時であったでしょうか。我が初孫を葬り、その直後にいらした貴女様が、我らに山鳥をお与えになった」
咳き込む。乾いたその音は、まるで燠火に爆ぜる薪のよう。
「あの鳥は、大層、美味でございました。それまで私達が沈んでいた悲しみが、全て吹き飛ぶ様に、私達はあれを貪ったのでございます」
覚えている。若葉と初めて出会った夜から、地続きになった朝のことだ。一晩通して、彼女の孫の墓を守った時も、今日のように寒かった。
「お分かりになりますでしょうか、私達は死んでしまいたい、そうとまで思っていたのです。最も幼い家族を無くして、悲哀に暮れていたかった。それなのに、貴女様は、たった一羽の山鳥で、私達はまだ生きていたいのだと、あれ程、可愛かった孫の居ないこの世で、それでも生きていたいのだと、私達に突き付けたのです」
お怨み申しております、もう一度、若葉は繰り返す。
白濁した瞳に、囲炉裏の灯りが反射した。瞬きの間、その瞳が燃える。
「もう少し、あと一日、貴女様が早くおいでになっていれば、あの子は死なずに済んだのです。あの様な忌み子では無く、私が最初に貴女様に出会っていれば、逝ってしまったこの里の子らは、餓えに苦しんで死なずに済んだのです」
分かっている。あの時みた墓の数々を思い出す。掘り返した土が乾く暇もない程に、冬の厳しさは人の命を奪っていく。
すまない、と私の口から空虚な謝罪が転び出る。
「しかし、どうでしょうか。この冬に、逝くのはこの老婆のみでしょう。貴女が齎す獣たちが、貴女の娘が齎した新たな知恵が、この里を変えてしまった。もう冬の祭りの度に、死者を悼む者などおりませぬ。皆、忘れてしまった、我らが贄としてきた数々の子らを、幼子を。我らの生が彼等の死の上に築かれたものであると」
若葉の瞳が光を帯びる。死に瀕した体の中で、瞳だけが爛爛と。それは生の輝きなのか、それとも死者の慟哭なのか。私には判別出来ない。それでも確かに鮮やかな光が、その瞳に宿る。
「だからトラ様。我が孫の弔いは私が行います。トラ様は今を生きる者たちを、まだ残る我が血族を、お頼み申し上げます」
灯が消える。
刹那の輝きが、老婆に満ちた何かが、抜け落ちる。
「分かった。約束だ。生きる者たちの事は任せよ」
そう言う。若葉と約束する。また、大切な約束が増える。
「だから、私が逝くまで、先に逝った者たちの事は頼むよ。何だか、若葉にはいつも大変な事ばかりお願いして、申し訳なく無いのだけど」
若葉の口の端に微笑が浮かぶ。
それを見て、思わず。
「若葉、逝くのか?」
そんな言葉が出た。
「はい、トラ様。ですが、今ではありませぬ。子と孫を呼んで頂けますか。偉大なる御神にこの様な事をお頼みするのは心苦しいのですが」
いいさ、私と若葉の仲だ。そう軽く返して戸口に向かう。若葉の家族は直ぐ隣の家に居る。彼等の息遣いは、私の探査で捉えられる。この雪の中でも確かにそこに居ると、そう分かるほどに、彼等の生は鮮やかだ。
戸口を潜る間際。
「若葉。良い旅路を」
「………はい、トラ様。露払いは私がしておきましょう。トラ様も良い旅路を」
そう言って、私と若葉は別れた。
それは、今生の別れだった。




