67.電波猫と狂おしき日、或いは春陽の結婚
産毛の浮いた腹に右前脚を乗せる。肉球から伝わる僅かな振動を音響探査用の演算式に放り込む。結果を解析してみれば、私の肉球よりも少し大きい程度ではあるが、確かに。
「………孕んでおる」
固唾を呑んで見守っていた春菜と夏海にそう告げる。春菜がほっと息をつき、対照的に夏海は蒼白になっている。その二人を横目に、横になったままの春陽が唸る。
「………ぎもぢわるい………」
要は悪阻である。
胎児の大きさから考えれば、少なくとも二ヶ月、多く見積もっても三ヶ月ほどでは無いだろうか。詳しくは知らないが、里に出入りするようになってから見てきた他の妊婦と比較すれば、それくらいの生育具合である。
それは同時に悪阻の絶頂を意味している。
春陽の様子がおかしいと、夏海が駆け込んで来たのは今日の昼過ぎである。聞けば、数日前から気持ちが悪いと飯を喰わぬ、と言う。
夏海には大変、申し訳ないが、実は前々から春陽と春菜からは相談されていた。月の渡りが無い、何となく体が重い、夏海にも伝えたらしい食欲不振も、最初に聞いたのは数週間前である。
そんな訳であるので、再三、夏海には悪いが、悲愴な顔つきで私の塒を訪れた夏海を見て私が思ったのは、春陽もやっと夏海に報せる気になったのか、という幾分以上に緊迫感に欠いたものであった。
とりあえず無理に食べさせるのでは無く、食べられるモノを与える他は、沸かした湯を飲ませれば良いと伝えたものの、納得する夏海では無かった。とにかく一度、様子を見てくれと言う。私は医者でも薬師でも無いと宥めてもまるで効果が無い。仕方が無く春陽達の家を訪れて、さもいま知ったように取り繕ったのが、つい先程である。
春陽の妊娠を知った夏海が、複雑な表情を浮かべながら、狩りに出掛けていった。それを見送ってから、春陽に声を掛ける。
「………その様子だと、夏海には嵐の事を伝えていないのだろう?」
何気ない一言のつもりであった。と、思う。
「えっ、嵐なの?!」
素っ頓狂な声を上げたのは春菜であった。
思わず、驚きに髭が立った。
春菜に送った視線を春陽に戻せば、そこには何とも形容し難い顔をした春陽。
「………もしかして、春菜にも伝えていなかったのか?」
辛うじて絞り出した私の問いに、春陽は苦い顔で頷いた。
人とは、度し難い生き物である。
どういう積もりであるのか。自分の父には懐妊すら隠し、母には相手も伝えていないと言う。で、あれば一人で産み、育てる積もりであるのか、と問えば、その様なことは無いという。どういうことか、と問い詰めれば、恥ずかしかったなどと、益体もない事を繰り返すのみである。
恥ずかしい事などあるものか、と私は思う。
そもそも、の話であるが、酸素すらない原始の海で生命が発生してからこれまで、全ての先祖が子を成してきた故に我々は今を生きているのである。生殖は生命の根源であって、朝に陽が昇るのと同じ程度には当たり前である。それに羞恥を覚える理由が私には分からない。特に、人は難産であると聞く。皇国においてすら、出産により命を落とす者は、稀にいた。稀と、そう形容出来るまでに掛かった年月が途方も無い事も伝え聞いた。そうであるならば、助力は多いに越したことは無い。ならば、それがそうと分かった時点で、助力が期待できる者には事情を説明するべきでは無いのだろうかと、私は思う。しかし、話の焦点が感情論に移れば、私が春陽に掛けてやれる言葉は多くは無い。脳内で春陽の言葉が再生される、何で言っちゃうの、トラの馬鹿、だそうだ。
人と我は違う。そう思うより他は無い。
兎に角、迂闊にも嵐の名を出してしまった私を、春陽は酷く詰り、ついには家中のモノを投げ付けて追い返した。追い出された私は、昼過ぎにも係わらず、やけに低い位置にある太陽を横目に塒に向かっている。
企図せず、溜め息が出た。
春菜を差し置いて、嵐を紹介してくれた、と思えば嬉しくもある。その一方で、自分の塒を幾度となく連れ込み茶屋代わりに使われた事を、非難したくなる気持ちもある。それらに増して、日に日に具合が悪くなっていく春陽が心配であるし、そんな私の心中を知ってか知らずか、私を無碍に扱う春陽に怒りも感じる。
何ともまとまりの無い、混沌とした心持ちがする。
我が子等の時はどうであったか、と考えると同時に思考が逸れる。春陽を引き取ってから、何度、我が子らの事を思い出したであろうか。「家」にいた時には、そんなことは禄に無かった。日々の仕事に没頭し、時折、彼等彼女等の話を伝え聞いては、一喜一憂することはあれども、それは仕事終わりから寝るまでの僅かな時間に限られていた。目を覚まし、標的の足跡を追っているうちは、子らの事など思考の隅にも挙がらなかった様に思える。
頭を振る。
思い出す、ということは、それが必要であるという事である。こうして遙か昔の事になってしまった自身の出産の経験、種も違えば環境も違う。それでもそれに縋るより他に術を、私は知らないのだった。
しかし、比較すればするほどに、人の出産は難儀である。子が産まれる幾月も前から母体には様々な負荷が掛かる。悪阻は食欲も運動能力も減退させるし、もう幾月かで膨らんだ腹に重心を持っていかれて、走る事すら儘ならぬ。それでも無理をすれば、容易く子は流れてしまう。
生物の設計として、複雑に過ぎる。
我らとは違い、群れで生きる様に出来ている、そう見做せば良いのだろうか。それでも栄養が必要な時期であるというのに、自分では狩りも出来ぬ、飯も食えぬ、と言うのは俄には信じられぬ。群れの他の個体の協力無しには、到底、無事な出産など見込めない。
そう言えば、同じ様に難産な生き物が他にもいた筈だ。確か、シロイルカの一種で、母の母、子から見れば祖母に当たる個体が子を宿した雌の代わりに狩りをすると言う。そうであるならば、今の春陽にとっては春菜こそが頼るべき人物なのでは無いかと思う。
再度、頭を振る。
いけない。思考が空転している。本来、紐付けるべきでは無い事象を自分にとって都合の良いように、恣意的に結びつけようとしている。人は人、イルカはイルカ、そして猫は猫である。
そうであるように、春陽は春陽であるし、私は私だ。だから、今の私がすべき事は、何なのか、それを考えて実行すべきだ。
だって、春陽は私の大切な娘なのだから。
踵を返す。
里に戻る道を行く。
私は知らなくてはいけない。人が人の中で生きるとは、どの様なことなのか。だって、春陽を人に戻したのは私だ。猫のようにも生きられた彼女を、人の輪の中に戻した。戻したのだからもう知らない、と言うのは、私にとっては無責任な言葉に思える。
「………トラ様。春陽の事でしょうか?」
秋の終わりの日暮れは早い。狩りに出掛ける者も、採取に行く者も、早く帰ってくる。その者らを避けて、それでも誰かに相談したいと思えば、目の前の老婆は打って付けである。
「相変わらず察しが良いな」
私の尾に、耳に、兎も角も全身に群がってくる若葉の孫たちを、展開した魔力尾であやす。上の孫娘はもう5つ程になるはずだが、私が来ると何時も尻尾を握ろうとする。それを魔力尾で捕まえて宙吊りにすると、キャッキャと燥ぐ。出会ったときの春陽を髣髴とさせて、何とも可愛い。他の三人の孫たちも同じ様にあやしてやりながら、騒がしい室内で若葉と話す。
「春陽が子を宿した。悪阻が酷く、しばらく物を食えていないらしい。まぁ、それは良いのだが、春菜と夏海にもあまり相談できていない様なのだ。恥ずかしいなどと言って、一人で抱え込んでしまっている。懐妊に羞恥を覚える、とは人にとっては普通なのか?」
私の言葉に若葉は首を傾げた。少しの間、考え込む素振りを見せてから、おもむろに口を開く。
「………あまり、聞きませぬ。大抵の場合は子を孕む前に、男女の仲であることが知れます。何分、人の口に戸は立てられず、また狭い里の中でございますれば。そうなれば、婚儀を行い、晴れて夫婦となりますし、それに続いて子を宿すのは、自然な事です」
つまり、互いを思い合っている時点で、周囲に知れる。周囲が気付けば夫婦になる。夫婦になってしまえば、懐妊も自然な事として受け入れられる。そう言う事だろう。
スルリと自然に頭に入ってくる。確かにそうである。人は番を易々とは変えない種らしい。それを夫婦と呼ぶ、確かに思い当たる。
「………では、今の状況を変える為には、春陽と春陽の番を正式に夫婦にしてしまえば良いのだろうか?」
私の言葉に、若葉は再び考え込む。
宙吊りにされた若葉の孫が、最近になって伸びてきた腕で私の腰の辺りの毛を掴む。率直に言って、痛い。魔力尾を操作して、孫娘の頭を私の眼前に持ってくる。柔らかい髪の上から頭を甘噛みする。引っ張れば痛い、噛まれれば痛い、それはお互いに痛みを交換しなければ気が付かぬ事である。
噛まれた孫娘が痛い痛いと燥ぐ。どう見ても反省している様子では無い。次に掴んだら、もっと痛くするからな、と伝えたが、効果は如何程のものであろうか。
「正式に夫婦となれば、春陽の夫も、その家族の助けもありましょう。そうであれば、多少の変化はあると思いますが、問題は新婦が春陽という事です」
どういうことか、と目線で問い掛ける。若葉は溜め息を付きながら、話す。
「春陽は並の男などより余程、腕の良い獣取りです。どれだけ悪阻が酷くなろうと、自分の食い扶持を満たす程度、春陽にとっては容易いでしょう。自活出来るのであれば、他の者の助けが要ると、そう思う事も無いのかも知れませぬ」
若葉は傍らの水差しを持ち上げ、椀に水を注いだ。椀の縁に口を付けて、唇を湿らす程度に水を口に含む。それをゆっくりと飲み込んだ後に、続ける。
「子を宿して間もない女に、最も良くないことが心を乱す事です。春陽が望まぬ内に、無理に婚姻を進めれば負担になりましょう。それに婿となる家族との関係も増えれば、心労は如何程のものになるか。そう考えると、春陽の感じる羞恥とは、自分を守るためのものなのかも知れませぬ」
分からなくなってきた。少し考え込む。隙だらけになった私の尻尾が掴まれる。その先には若葉の孫娘。見るからに悪戯を楽しんでいる。しかし、いま掴まれているのは魔力尾であるので、痛みは無いのだ。
魔力尾で逆に胴体を捕まえて、また宙吊りにしてやる。キャッキャと燥ぐ。なんだか最初に戻ったようだ。
「つまり、春陽の場合は、婚姻と妊娠の順番が逆になっていることと、春陽が一人でも子を育てられる可能性が高い、という二つが事態をややこしくしている、という理解で良いか?」
私の言葉に若葉は、少し苦い笑みを浮かべる。
「ややこしい、というのは違うかも知れませぬが、本来ならもっと早い段階で味わう恥ずかしさを後回しにし過ぎているように、私には見えます」
その言葉に得心がいく。確かに、狭い里の中で惚れた腫れたの話が出れば、噂話の格好のネタであろう。そうして揶揄われる中で、夫婦になり、次いで子を宿す。その様に段階を踏むことで、心に掛かる負荷を分散しているのだ。しかし、春陽はその段階を踏んでいない。溜まった負債が一挙にのし掛かれば潰れかねない、そう若葉は言っている。
少し頭の中が整理出来た。若葉に礼を述べて、家を辞す。若葉の孫たちが揃って不満そうに口を尖らす。また来るから、と告げれば、いま遊びたいのだ、と言う。全く子供とは素直なものである。これで今日は仕舞い、と言いながら全員まとめて宙吊りにして、高く掲げてやる。歓声を上げる姿を尻目に、今度こそ若葉の家を後にした。
晩秋の夕べ、薄く靄つく様な雲の向こうに大きな夕陽が沈んでいく。木道の両側には、色付く木々が夕陽に照らされて、赤く燃えている。葉を落とした木々の隙間に、低い位置から陽光が差し込み、常に無く見通しが良い。木道の上に重なった色とりどりの落ち葉は、近頃の天気の良さも相まってか、乾いていて、踏む度にカサリカサリと耳に心地良い。
若葉との会話を反芻する。
良く出来ているな、と思った。
番を見付け、婚姻し、夫婦となり、そして子を宿す。
我々であれば一足飛びにする事を、一々と段階を踏んで進めていく。それは一見すれば煩雑であるとも思える。しかし、若葉が言うように、子を宿す雌の立場に立てば、心身の負担を軽減し、協力者を増やし、子を産み育てる環境をゆっくりと醸すことが出来る。そうして、我々であれば、雌にのみ掛かる負担を分散している。
これが、群れで生きるモノの生き方、なのだろう。
それはまるで、目には見えない巣を作っているようにも思える。群れの中に、夫婦という枠組みを作ることで、新たな子を育てる社会的な足場を作っているのだ。
しかし、そうであれば。
「………やはり、今の春陽は危うい」
知らず零れた独白は、森の中に消えていった。
家に帰り着いた頃には、夕陽は沈みきり、森の中には夜が訪れていた。星々の眩い明かりの片隅に、細く痩せた月が浮いている。朔の日は近い。
家に入る。囲炉裏の中で火を熾す。
乾いた音を立て、室内が仄かに照らされる。
小さな火が枯れ枝と薪を巻き込んで次第に大きくなっていく。
その様子を見ながら、もう一度考える。
春陽になった気持ちで考える。若葉も言っていた。これは春陽の心労を如何に少なくするかが、一番重要である、と。で、あるならば思考の中心に据えるべきは私では無い、春陽なのだ。
何処までも春陽に潜っていく。それと同時に、常に無く客観的になっていく。不思議なものだ、誰かに成りきろうとすると、自然と何者でも無い何かが見えてくる。
春陽は、妊娠した事を恥ずかしい、と言っていた。それを感情論と切り捨てることは、この場合は有害ですらある。大人になったこと、親になりつつあること、そして日々刻々と変化する自分の体。それに躊躇う気持ちが羞恥として認識されているのかも知れない。
俯瞰した部分が、異なる意見を返す。群れの在り方を変える事に対する、一種の抑制機能である可能性を指摘する。
二つの仮定を、双方とも尊重する。どちらともが混在していてるとすれば、一時的に春陽を群れから隔離する、つまりこの家に戻すと言うのは、どうだろうか。春陽と私、それに夏海と春菜だけで群れを閉じてしまえば、春陽も話しやすく、心労も少ないかも知れない。
利点は大きい。人里から離れた此処は、良くも悪くも変化に乏しい。その分だけ自分の事に集中できる。里の者にどう思われようが物理的に離れているので、私達が口を噤めば春陽がどう思っていようが、或いは思われていようが関係ない。心労という点では、最小限だろう。
また、里の者には悪いが、彼等の住居は、お世辞にも衛生的とは言い難い。便所も風呂も水道も完備したこの家は、現時点に於いては最も妊婦にとって都合が良い。
少し、頭を冷やす。
厨の水瓶から水を汲んで、椀に注ぐ。
椀を炉端に置いて、一口、二口。
そう言えば、晩飯もまだである。燻製室から狼を降ろしてくる。
少し固くなった肉に食らいつく。
乾いた肉に奪われる水分を、椀の中の水で補いつつ、思考に戻る。
春陽を群れから、もしくは社会から、隔離する。本当にそれで良いのか。
一時的に有効であることは間違いない。しかし、それでは何のために春陽を里に戻したのか。これから春陽が子を宿す度に、この家に戻すことになるのでは無いか。子を孕んだ雌は保守的になる。常以上に変化を警戒し、安全策を取る。一度目の出産で、この家を安全であると認識すれば、次回以降もそれを望むのは、同じ雌として容易に想像がつく。
しかしそれは、人の有り様では無い。
若葉の言葉に想起されたイメージが、再び浮かび上がる。婚姻し、夫婦となる。それは形而上の巣作りなのだ。そして、春陽にとって里における立ち位置を固める端緒にもなり得る。
人の群れの中で、番を見付け、次代に命を繋ぐ。それこそが、かつてアイツが私に残した願いでは無いのだろうか。そうであれば、やはり春陽を此処に戻すのは悪手だ。
頭の中が煮えてきた。
傍らに置いた椀から水を飲む。
ピチャピチャと勢いよく舐め取れば、跳ねた雫が顔面を濡らす。
少し、頭が冷える。
そもそもこの家と里、そのどちらかに固執する事が間違いなのかも知れない。
春陽の体調と心労を見ながら、里とこの家を行き来する様に慣らして行く事も出来る。今回は間に合わなかったが、次に子を宿すことになる前に、嵐と婚姻してしまえば、最終的には里に住むことになる。そうで無くとも、今は悪阻の絶頂だ。もう少し時間を置いて、安定期に入ってから、里との往来を始める事も出来る。今から焦って事を進めれば、どうしても春陽に負荷がかかる。
嵐。
唐突に思い至る。
子は、雌のみでは宿せない。
雌雄一対。春陽の子の親はもう一人いる。
春陽は、子を宿した事を嵐に伝えているのか。
………
……………
……………………
翌日。
太陽が昇っていく様子を、焦れる様な心地で待つ。
春陽はここ暫く、狩りには出ていないと聞いた。
事情を知っていれば当たり前だ。最も子が流れやすい時期に山野を駆けるなど論外である。
しかし、事情を知らなければ?
常ならば率先して狩りに赴く春陽が、塒から出ない。
その事を不審に思う者はいないのか。
いや、違うな。
好いた女の不調に気付かない程度の盆暗に、愛娘はやれぬ。
そうであるならば。日の出、男衆が狩りに赴き、恐らくは山野でバラける時刻。そこが好機である。
悪いが、試させて貰う。我が娘を預けるに足る男であるか、否かを。
想念は狼。常に纏う仔狼の姿では無い。成熟した雄狼。逞しい体躯。夕闇にも似た褐色の爪。口腔に収まらぬ鋭利な牙。
それは獣の形をした死の形だ。相対する人の命など容易く露と化す。
その様な獣を前に、彼の少年は立ち竦む。
手にした石槍を、此方に向けることすら出来ずに。
何という不覚悟か。
逃げることも、立ち向かうことも決めかねて、ただ呆然と棒立ちとなるなど、愚の骨頂。
容赦はしない。
遠慮の無い跳躍。
彼我の間、10mほどの距離を踏み潰す。その勢いの全てを右前脚に流し込む。
伸ばした爪が空気を切り裂き、風が鳴く。
鳥の鳴き声にも似た甲高い、風の悲鳴。
それが契機となったか、少年が正気に戻る。石槍の柄で爪を受け止める。
甘い。
体重の乗り切った一撃を、そんな粗末な棒ッ切れで受け止められるものか。
爪に、少年の体重が乗る。振り抜く。
張り飛ばされた少年が宙を舞う。
空中で転身。鵺の様な身のこなし。飛び出した先をどの様に確認したか、木の側面を足場に、身を撓める。
力を溜めた下半身を撥条のように、雷撃にも似た石槍の突き。
目を見開く。
先程の体たらくは何処に置いてきたのか、その一撃は春陽のそれを髣髴とさせる。
見誤っていたのは此方か。
生物の強度に調整した魔力膜が浅く裂かれる。
後ろ足で地を蹴る。
お互いの吐息が掛かる距離から更に前へ。
此方の肩で正中を射抜き、同時に擡げた頭を少年の喉元へ。
開いた口腔から、雄叫びが迸る。
後数瞬も無く、その喉笛を噛み切る、刹那。
顎下から脳天に突き抜けるような衝撃。
打ち上げられた頭骨。視界の端に振り抜かれた石突き。
巧い。なる程、春陽が惚れる訳だ。これ程の武芸者は中々いまい。
だが、まだだ。この程度では、この狼は止まらない。
打ち上げられた頭をそのままに、体当たり。
体幹を射抜かれた少年も、体勢を戻しきれずに真面に受ける。
互いに崩れた体勢の儘、地面を転がる。
起き上がったのは同時だった。
意図したように、視線がかち合う。
地面を転がる間に切ったのか、少年の額から血が流れる。
赤い滴りが彼の目に及ぶ、その刹那を狙う。
再び振るわれる爪牙。
先程と同じく、全力で振り抜く。それを。
血に濡れた瞳を見開く。その視線が此方の爪を確かに捉える。
手にした槍を、内側に巻き込むように繰る。
伸びた此方の脚を、回しように往なす。
半身に転身した、その動きから、稲妻の様な一撃。
体表を切り裂き、その穂先は過たずに心の臓を射抜く。
交戦回路を起動する。
魔力膜を解除。
魔力帯で拘束した狼はそのままに、最速で離脱する。
少年の槍が憐れな狼を貫いた。
……………………
……………
………
確かな手応えに、少年が嘆息する。
樹上からそれを観察する。良かった、獲物が入れ替わった事には気が付いていない様だ。
さて、と。ここからが正念場である。
少年の遥か頭上。高い位置にある木の枝の一本に寝そべり。さも、最初から見ていたかのように声を掛ける。
「見事だ」
その一言に、少年は弾かれたように此方を見る。その動きは先程の余韻に満ちて、尚鋭い。
なる程、本来の力を出すまでに時間が掛かる性質の様である。最初からそれが出来ていれば、こんなまだるっこしい事は必要なかった、かも知れない。
「嵐殿、トラだ。分かったら、そのおっかない槍を降ろしてくれないか?」
私の言葉に慌てて石槍を降ろす。血に濡れた穂先から雫が散り、地面に赤色の染みを付ける。
「先程の狩り、見事だった。あの動きは自分で身に付けたものか?」
此方に向かって片膝を付き、頭を垂れる少年に問いを重ねる。少年は一拍を開けて応答する。
「いえ、あれば春陽様との修練の賜物でございます」
その息は既に乱れていない。完成された調息に、又もや感嘆する。なる程、春陽は随分と彼を鍛え上げている。
しかし、そうであるならばもう少し頼ってやっても良いのでは無いか、と、つい思ってしまう。
溜め息を押し殺して、次へ。
「春陽か、なる程。アレはなかなか厳しいだろう。恋仲とは言え、手心を加える性質ではない。今日は狩りに出ていない様だが、どうしている?」
私の演技も板に付いてきた。或いは、嵐殿の緊張に助けられているのか。
「春陽様はここ暫く、具合が悪いと、床に臥せっておいでです」
その答えに確信する。春陽は自身の妊娠を嵐に伝えていない。その上、嵐も春陽の言葉を額面通りにしか受け止めていない。
本当に、こいつらは素朴に過ぎる。
溜め息を押し殺して、嵐の背中を押す。
「そうか、ではその獲物を手土産に、見舞ってやると良い。きっと春陽も喜ぶだろう」
これで、とりあえずの目的は達したと、気を抜きかけた時である。嵐は困惑を浮かべながら、こう返した。
「それが実は最近、春陽様には避けられているのです。恐らく、お訪ねした所で、追い返されるかと」
なんだと。
思考に一拍の空白が捻じ込まれる。
脳髄が、状況を咀嚼するに従って、怒りが湧いてきた。
あの、バカ娘が。
「………それは、済まなかった。しかし、嵐殿は春陽に会うべきだ。少し時間を貰えるか、話がある」
私の言葉に目を丸くする嵐。
その所作にはなんの衒いも無い。
思わず湧いてきた溜め息を飲み下すことは出来なかった。
………
……………
……………………
戸口に立ち塞がる夏海を跳ね飛ばす。
娘が馬鹿なら、親も馬鹿である。何を娘の言いなりなっているのか。
「嵐。今だ、押し入れ!」
地面に夏海を押さえ付けたまま、背後の嵐に声を掛ける。
夏海が藻掻く。怪我をさせないように気を付けながら、それを更に地面に押し込む。
先程の狩りで負った額の怪我から血を流したまま、嵐が春陽の塒に滑り込む。春菜の短い悲鳴。それを遮って嵐が叫ぶ。
「春陽!見舞いに来た!」
血で汚れた顔、片腕には猟果である大狼。傍から見れば押し込み強盗にしか見えない。それでも春陽は悟った様だ。
「………トラ!」
声と同時に室内で魔力反応。肉を叩く重い音。
春陽の蹴りを受け止める嵐が、視界の隅に映る。
夏海を押さえ付けたまま。魔力尾を伸ばす。春陽の耳元に声帯を模した魔力膜を形成。囁く。
「もう魔力なんてズルは止めなさい。人として生きよと、そう教えただろう?」
そのまま春陽の魔晶石を封印する。
急に魔力の補助が無くなった春陽が蹈鞴を踏む。それを。
嵐が抱き止めた。そのまま春陽の首と腰に手を回して持ち上げる。春陽が胸の中で抗議する。それでも魔力で補強されていない殴打程度では、今の嵐は止まらない。
悠々と、戸口から姿を現す。
立ったまま、昂然と顔を上げ、私を直視する。
騒ぎを聞きつけた里人が集まってくる。あれよという間に出来上がる人の輪。その中心には、私と嵐。
満を持して、嵐が叫ぶ。
「トラ様、いと猛き山神よ。御神の娘、春陽を我が妻として与えたまえ」
その言葉に、知らず、口角が持ち上がる。
浮かれた私から立ち上る魔力が、神としての姿を形作る。
「問おう。お主に我が娘を任せられるのか?人の脆弱なる命で我が娘を守れるのか!?」
今日だけで何度、こんな芝居を打たねばならぬのか。
それでも、これしか無い。
嵐の腕の中、恐らくは意識すらしないままに春陽は自分の腹に手を当てている。まるでそこに大切な何かがあるように。
嵐もまた、一目でそれを見抜く。肩と腰に腕を回し、腹を圧迫せぬようにと、自分の背を反らせて春陽を抱く。
嵐と視線を合わせる。
小さく、頷く姿を認める。そうか、お前は聡明だ。この馬鹿娘には勿体ないほどに。
「神よ。ここに私は誓う。例え万難が待ち受けようとも、私は彼女の槍として敵を払おう。例え嵐が襲おうとも、私は彼女の盾となり彼女を守ろう。そして」
嵐はそこで大きく息を吸い込んだ。
叫ぶ。
「例え、山神たる貴方であっても、私は春陽を渡しはしない!」
静寂が辺りを満たす。
それを切り裂いて、笑う、笑う。
呵々大笑たる私の声を、突き抜けるような嵐の言葉。
「例えどれ程、過酷であっても、私は春陽を守り通す!」
笑いを納める。目を細める。
そして、確とこの男の瞳を見詰める。
その奥に確かに灯る覚悟の炎。
「良いお覚悟だ、婿殿よ。では、その覚悟の折れぬ限り、我が娘を其方に預ける」
………
……………………
…………………………………………
これが春陽の嫁入りまでの顛末である。
嵐と私が見せた大立ち回りに気をとられて、里人は春陽の妊娠に気付かなかった。
その後になってバタバタと引越やらを済ませてしまえば、二人は晴れて夫婦である。
つまり、懸案だった嫁入りと出産の逆転は糺した。
それが一番の成果であり、目的だった。
まぁ、あんなに派手な求婚をされた春陽の照れ隠しで、私と嵐が死にかけたことなど、語るにも値しない些事である。




