66.電波猫と春陽の里帰り(三回目)
風の強い日である。
空に浮かぶ雲は鮮明に白く、大きな影を伴っている。形も大きさも様々であるが、吹き荒ぶ風が高いところまで及んでいるのか、刻々と形を変える。朝方、突き抜けるような晴天が垣間見えて、庭先が明るく照らされたかと思えば、ものの一時間もしない内に、打ち付ける様な雨に変わった。真夏の暑気が雨で洗われて、体表が結露するかのような温く湿った空気の中に沈んでいく。余りに厚い雲に日の光すら疎らになり、雨の勢いはいよいよ強く、灰色がかった視界の中では、庭先すら見通せない。
風に煽られた雨粒が強く屋根を、壁を叩く。幾つもの粒が打ち付けられて、いっそ地鳴りめいた低い音が絶え間なく続いている。それらの雨音、雨滴の一粒一粒が感覚器を鈍らせる。音響探査は基より、熱、電、磁、全ての索敵系が阻害され、外の様子はまるで窺い知れない。家の中だけで世界が閉じてしまったような、閉塞感と不思議な安心感を感じる、そんな日だ。
これは嵐といっても過言ではあるまい。
雨戸を閉め切り、常ならば開け放している納屋の一階にも雨戸を取り付ける。濡れるついでと、燻製室から昨夜のうちに狩り獲った猪を丸ごと取り出し、母屋の炉端に置いた。
朔の日まであと5日、流石にそろそろ春陽が来るかと思っていたが、この様な悪天候では今日は来るまい。まだ朝と呼んでも良い時間帯ではあるが、早々に見切りを付ける。今日はチビチビと猪を囓りつつ、ゴロゴロとしていよう。
そう思って炉端に横になる。
或いは、この様な日にこそ里の様子を見に行くべきであろうか、とそんな思いが浮かぶ。神様を演じ始めて既に6年になる。その間に、この様な嵐は8回起きた。内、一回は件の暴れ川の堤が切れる惨事となった。その時の事を思い出す。
余りに強い雨が、春陽の不安を煽ったのか、里の父母が心配だと騒ぎ出した。獣取りの腕前はあがったとは言え、まだ幼い女子が里に降りても役には立たないだろう、と諭すことも徒労に終わり、私が行かないなら一人でも行くと、大雨の中を春陽は飛び出していった。そうなってしまっては是非も無い、今日と同じく感覚器が働かない中で、唯一まともに動く魔力探知で春陽を補足し、半ば無理矢理に背に乗せた。風が颶風となって打ち付ける中、展開した魔力膜で瀑布を切り裂くように、里まで駆けて見れば、荒ぶる河川にも係わらず、里人らは家の中で普段通りに過ごしていた。
改めて見れば、里は河からは一段も二段も高い海岸段丘の上にある。嵐による高波も、増水した河川も然したる影響は無い。雨が多ければ厄介であるが、そもそもが半地下を掘り下げた竪穴式の住居であるので、どこぞの怠け者の様に屋根の普請を怠らなければ、家の中は安全である。嵐の過ぎ去った後に、削り取られた土壁を少し盛り直す程度で、大した被害は無かったのだ。
息せき切って家に入ってきた私達に、夏海がオットリとした調子で、朔の日では無いと思うが遊びに来たのか、と問うた。返事も待たずに、嬉しそうに玩具の類を取り出して、春陽と戯れ始める様を、なんとも名状しがたい心地で見ていたものである。
思わず、コロコロと喉が鳴っていた。
春陽を里に帰してから、思い出し笑いの癖がついてしまった。その日の天気に、獲物に、或いは渡ってくる鳥達に。雲の形の一つにすら、こんな事があった、あんな事があったと思い出す。不思議なもので、その最中にいるときは、春陽が酷く短慮に見えたり、軽挙に見えたりして、折に付けては叱っていたものだ。もっと良く考えて行動するように、何かをする前に相談するように、そんな事を言っていた。しかし振り返って、こうして思い出すのは、その様にお行儀良くしていた春陽では無く、感情や感性に突き動かされていた時の、真っ直ぐな姿ばかりだ。あの様に、心配だからと駆け、不安だからと怯え、大切だからと寝床にまで持ち込む、そんな純真さが眩しく見えたからだろうか。
どれ程の間、思い耽っていたのだろうか、雨音がいよいよ激しくなってきた。まるで数多の子人が、屋根を、壁を叩いているかのようだ。それらの向こう側に、木々を抜ける風の轟々たる音が混じり、鈍い低音が腹の奥底を揺さぶる。
ドンドンと、叩く様な音がする。
風に折られた枝や小石の類が打ち付けているのだろうか。樹林の中にあってもこの風雨であれば、平野での影響は推して知るべしである。明日には薙ぎ倒された草叢が濡れて艶めく事だろう。そうであれば、真夏の盛りに背を伸ばした下生えを踏むことも容易い。春陽が来るとすれば、明日だろうか、と思い至る。春陽の為に、明日の朝は狩りに出ようか、とボンヤリと考える。雨を塒で凌いだ獣が動き回れば、見付けることも容易いだろう。
ドン、と一際強く戸が鳴った。
思わず頭を上げる。
耳を澄ます。
鼓膜を叩く雨音、風の鳴声。
それらに混じって微かに聞こえる、これは。
玄関の戸が音を立てて倒れ込む。折れた閂が、カラカラと乾いた音と共に転がっていく。途端に耳朶を打つ風雨の音。
雪崩れ込む様に、一対の男女が転がり込んでくる。
ずぶ濡れになった全身から水が滴って、土の剥き出しになった玄関を濡らしていく。頬に、こめかみに、張り付いた髪でその顔は様と知れぬ。それでも、この距離ならば分かる。その身に纏う魔力の残滓、蛍火の様に微かに光る紫の燐光、そんなモノが無くたって、私が彼女を見間違う事などない。
「………おかえり、春陽」
地に顔を伏せたまま、ゼィゼイと荒い呼吸を整える事も無く春陽が、大きく返す。
「ただいまトラ!つっかれたー!」
ビチャリと湿った音を残して、そのまま大の字になって寝転んだ。
パチパチと、投げ込まれた枯れ枝が囲炉裏の中で乾いた音を残して燃える。天井近くに据えられた網棚には、二人が着ていた服が干されている。それが煙の少ない暖気で乾かされてゆく様がみえる。時折、滴る雫がジュワリと音を立てて炎に呑み込まれていく。
戸を閉め切っているため、明かりは囲炉裏の中の焚き火だけである。橙色の光に照らされて、陰影が強調される室内。私の視線の先には、腰巻のみを身につけた少年が座っている。
春陽の連れてきた友達とは、果たして少年であった。春陽より尚、暗い黒髪。濡れていることもあるのだろうが、夜闇よりも深い色のそれは、艶めく烏の羽のようにも見える。乱雑破に切られた前髪と、背後に伸ばした後ろ髪を肩の辺りで縛っている。仄かに照らされる体躯は鋭く引き締まり、発達途上の筋肉が光に浮き彫りされて、肉の盛り上がりが強調されている。まるで、初めて会ったときの夏海のように、胡座に組んだ足の膝の前に、両の拳を付いて、目線を囲炉裏に向けている。
無口な男だった。
年の頃は春陽とそうは変わらないと思う。余り自信は無いが、二次成長が始まって間もない年頃では無いだろうか。そう、繁々と観察してから気が付いた。本人に聞けば良いのだと。
全身を濡らした春陽は厨で湯浴みの最中だ。まだ暫くは上がって来ないだろう。少年もずいぶんと緊張しているようであるし、何か他愛の無い話で、場を和ませることも家主の勤めかも知れぬ。
「………嵐殿、と申されたな。齢は幾つほどになる?」
私の言葉に、少年、春陽は嵐と呼んでいた、はビクリと肩をふるわせる。
「お、オレは。いや、私は春陽様と同じ年に産まれました。今年で14になります」
吃りながらも応えた彼の声には、微かに掠れた低音が混じる。変声期特有の不思議な声音。
「そう構え無くても良いよ。春陽の調子を見ただろう?朔の日なら別だが、今日の私は人の言葉を話す不思議な獣に過ぎない。もっと気を楽にしてくれると、私も助かる」
そう言って、体を伸ばす。そのまま炉端に寝そべる。低くなった視点からは嵐の緊張した面持ちがよく見えた。目が合った瞬間、彼の体に緊張が走る。それに気付かぬフリをして、欠伸を一つ。そのまま視線を、春陽がいる厨の方に向ける。嵐の口から、溜め息めいた気の抜けた吐息が微かにする。
「しかし、不思議なものだね。こんな山奥にいるせいか、私には春陽を里に戻した事が昨日の様に感じる。そんな春陽に友達が出来て、しかも私の塒まで連れてきてくれたという。とても不思議で、そしてとても嬉しく思うよ」
初対面故の気安さなのだろうか、思った以上に素直な気持ちが口から転び出ていた。私の言葉を嵐はどう思ったであろうか、緊張が解れる気配がする一方で、表情が窺えない。
自分の言葉に、少し気恥ずかしくなった。照れ隠しに、里での春陽の様子はどうか、と尋ねる。こちらの気持ちを知ってか知らずか、嵐は堰を切った様に話し始めた。
「………はるちゃ、春陽さんはとても明るいし、狩りも上手いので、友達は多いです。狩りの仕方が里の男衆とは違うので、帰ってきたばかりの頃は一人で山に入っていましたが、余りに春陽さんばかりが獲物を多く獲ってくるので、春陽さんの方法を知りたいと、男衆が聞き始めて。もう一年は前の事だと思います、男衆に混じって狩りをするようになっています。春陽さんはどんな事でも教えてくれるから、みんな何でも聞いています。それに春陽さんのやり方なら、オレ、じゃない、私の様な者でも獣を獲れるので、今までなら足手まといって言われていた様な者でも狩りに行けるようになりました」
他にも、他にも、と嵐から見た春陽の姿を伝え聞く。少し水を向けるだけで、どれだけでも話してくれる。何時しか、嵐の頬に朱が差し、丁寧を取り繕っていた口調から角が取れてきた。饒舌になった彼は、身振り手振りを交えて、里で春陽がどれほど活躍しているのか、皆が春陽をどれだけ信用しているのかを語ってくれる。その熱の籠もった口調に、つい魔が差した。
嵐が息継ぎに、ふと黙った瞬間だ。
「それで、嵐は春陽の事を好いているのか?」
浅く開いていた口が、グイと開き。顔面が真っ赤になったのが、薄暗がりでもよく見えた。
呆けた顔をした嵐が、正気に戻る。次に出かけた言葉を呑み込むように、唾を飲み下す。
束の間の静寂の中に、嵐の嚥下の音が響く。
そんな彼に、どうなのだ、と真意を問うように視線を送る。
それに気付いた嵐が、こちらと目を合わせる。口元を引き締め、顎を引き、つまりは真剣な表情を浮かべながら、私の視線を真っ向から受け止める。
「………はい。トラ様。私はトラ様の巫女である春陽様を好いております」
未だ耳まで赤くなった顔を、それでも昂然と晒し、私に向かってそう言い切った。
その真摯さに感嘆する。なんと真っ直ぐな男の子であろうか。
春陽は良い番を見付けたモノだなぁ、と思った。さて。
「聞いたか春陽!嵐殿はお覚悟を示されたぞ!何時までも隠れていないで、出てきなさい!」
いつの間にか、雨音は静まっていた。
そして、扉越しに湯から上がった春陽が聞き耳を立てている事など、私にはお見通しである。
耳まで赤くなったのは嵐殿だけではない。春陽もまた、全身を紅潮させている。
初心なものである。
心在らず、と言えば良いのか。それとも互いの心の内にお互いのみを思っていると言えば良いのか。兎も角も浮き足立った二人と共に昼餉を摂り、嵐殿にも湯を勧めた。
嵐殿が湯を浴びている間、春陽にこれでもか、というほど嵐殿の美点を教えて貰い。それに中てられた頃になって、嵐殿が湯から上がった。
一人ずつであれば、二人とも如ほどに饒舌であるというのに、二人を並べるとチラチラと互いを見合っては押し黙っている。それでも気詰まりしていると言うよりは、再三であるが、互いしか目に入っていない様であった。
見ているこっちが恥ずかしくなる。
我ながら態とらしく雨戸を開け放し、既に雨も上がった様だし、帰るのであれば里まで送る旨を伝える。サッサと帰るかと予想していたが、春陽がモジモジとしながら、出来れば泊まっていきたいと申し出た。そして差し出される木簡。
「鹿が五頭に、狼を十頭、それに毛皮も。なんだか今回はヤケに多いな」
はて、と首を傾げた私に、春陽は早口で説明する。
「あのね、最近、新しく子供が産まれた家が多くて!服にする毛皮も足りないし、お肉も足りないの!だから、ちょっと多いの!」
そうなのか。嵐の話では春陽が随分と活躍している様だったが、それでも足りないのか。確かに夏は獣も痩せていて、一頭当たりに獲れる肉の量も少なくなる。それにしても、これ程の量が必要となれば、里の状況は少し困ったことになっているのでは無いだろうか。
もしかして、既に飢えている者が出始めているのか、そう春陽に問おうとして、春陽に視線を送った。紅潮した頬、常ならば真っ直ぐに此方を見詰める黒い瞳を明後日の方向に向けて、両の掌を体の後ろで組んでいる。
その姿を認めて、得心した。
これは、しかし。
いや、まぁ、いいか。
気付かれぬ様に溜め息を呑み込む。
努めて平静に、春陽に告げる。
「朔の日まで時間が無い。革を鞣す時間も必要であるし、今からにでも狩りに出る。客人には申し訳ないが、留守番を頼む」
そう言い残して、西日の差す森の中に走り去る。
チャッチャと森の中に身を隠し、先ほど呑み込んだ溜め息を解き放つ。
脳裏に浮かぶ春陽の姿。両の掌を体の後ろで組んでいたのは、その手が、指の一本一本を組むようにしている事を隠すためだろう。そして、その仕草は、春陽が私に隠し事をするときの癖であることを知っている。
つまりは、そう言うことである。
お邪魔虫はサッサと消えて、明日の昼前位までは狩りをしていたことにしよう。二人を里に送っていくのは、それからでも遅くは無い。
翌日。
顔を真っ赤にした二人を里まで送っていった。
それについて語ることは無い。
ただ、春陽が嵐に嫁いだと同時に、身籠もったと言う話を聞いたのは、その年の秋の終わり頃であった。




