62.電波猫と春陽の別れ
「薪が足りないのと、後はこの間、嵐のとこのお父さんが転んで足を怪我したから、鞣した革が欲しいって言ってた。折れた足は枝とかで固定するんだよね。後は………」
里から戻ってきた春陽から里の様子を伝え聞く。春陽を里に連れて行くようになって、もう一年になる。最初の数ヶ月間こそ恐る恐るであった里の者達であったが、最近では春陽を通して様々な要求をしてくる。それらを一つ一つ聞いていくと、食い物に限らず、生活のための資源が足りていないことを悟る。
ふむふむと聞いていく。
それにしても種類も量も多い。春陽も色々と聞いてきているが、一々覚えきれない様である。抜けがあると、神様としての威厳に係わるので、こっそりと若葉からも情報を仕入れて対応している。
若葉。
春陽を里に連れて行くようになって、暫くしてから彼女の所を訪ねた時のことを思い出す。
思わず背中に怖気が走って、毛が逆立った。
意識的に記憶に蓋をして、それ以上は避ける。
あの里の女は、怒らせると恐ろしい。教訓としてはそれで十分である。
思考が逸れた私の傍ら、春陽は唸りながら記憶を掘り起こしている。その様を見ていて、ふと思い付く。
「春陽。文字というモノを使ってみないか?」
何それ、と問い返す春陽に説明していく。様々な人から聞いたモノを全て覚える、というのは中々つらい。私の様に思考領域に強烈な催眠を施していれば可能であるが、そんなものは人には不適である。皇国でさえも、そんな変人は限られていた。
何故なら人は文字を操る。
外部媒体に丸投げしておけば済むことに、ともすれば脳髄が焼き切れて廃人になるリスクを取るのは、馬鹿げている。ともあれ、今の春陽を見ていると、簡単な象形文字を幾つか覚えているだけで、かなり楽が出来そうである。
論より証拠と、目の前の囲炉裏の中からまだ火の付いていない薪を一本引っこ抜く。魔力尾で薄切りにして、手頃な木板を一枚切り出す。
「春陽。すまないが、細工物をするときに使っている道具の中で、彫り物に使えそうな物を持ってきてくれないか?」
良いよー、と一声残して春陽は居間を後にする。外廊下を走るパタパタという足音に続いて、板戸を開ける音、道具箱をひっくり返す音、そしてまたパタパタと戻ってくる。
これで良いか、と渡されたのはすこし不格好な錐のような石器である。この様な形にするために、雨の日の春陽は、手にマメを作りながら石を削っていた。
そんな大切な道具を手渡される。それを魔力尾で握って、木板に当て付ける。
「………例えば、里で鹿を必要としているとしよう。そんな時は、鹿の絵を書くのだ」
ゴリゴリと木板に石器を押しつけて傷を付けていく。四本の足を持ち、頭に小さな角を持つ獣の絵。我ながら不格好であるが、鹿であることは理解出来る。この下に、横棒を一つ。
「この様に、絵の下に一本、線を引けば、鹿が一頭必要だと分かる」
二頭なら二本、三頭なら三本である。線の引き方は色々とあるが、ここは皇国の流儀に従って正の字を書く。
やってみるか、と春陽に木板を渡す。
春陽は待ってましたと云わんばかりに木板に溝を彫っていく。意匠は狼であるようだ。しかし、それでは唯のお絵描きなのだが。
まぁ、いいか、と嘆息する。
最近は春陽も気を張り詰めていることが多い。こうして年相応に遊んでいる様を見ると、却って安心が勝る。
耳を澄ます。屋根を打つ雨音がする。今日は雨だ。狩りに出るにも、採取に行くにも適さない。春陽と一日中、お絵描きをしているのも悪くは無いだろう。
そんな春陽を横目に、暖かな炉端で昼寝をするのは悪くない。だって、別れの日は近いのだから。
月日は瞬く間に過ぎていく。それは惜しんでいる時ほど尚、早く。
故に、こんな日が来ることは覚悟していた。
紫の奔流が原野を充たす。集まり来る獣の正中を、魔力尾が貫く。早春の原野に、骸の原が積み上げられる。
恭しく、傅く若葉に告げる。
「我が娘。春陽を降嫁する。我に何用があろうとも、彼の巫女を目とし、耳とし、我に伝えよ。人々の営みの漣を、我は我が娘より伝え聞こう」
驚愕が満ちる。
それは、春陽も同じ。
里人と同じく、驚きを露わにする。
知っている。
私が思うのと同じくらいに、春陽が私との日々を大切にしていてくれたこと。
私は知っているさ。
だから、これは私しか知らない。
春陽には伝えていない。
でも、約束をした。
いつか、いつの日か、里に帰すと。
月に一度などとは言わず、人の中で、生きていけるようにすると。
そう、約束した。
だから、帰す。
それが、どんなに淋しくとも。
春陽のいない家の広さを考えただけで、身が引き裂ける心地がする。
でも、それでも。
それが春陽の幸せだと、私は思うから。
私の言葉を最初に理解したのは、夏海だった。
衆人を置き去りに、前に進み出る。
恭しく、頭を下げる。何時もの大根役者ぶりを何処に捨て去ったか、それは見事な一礼。
「承った。我が父祖の名にかけて、御神の巫女を御守り申す」
それは、別れの一言だった。




