58.電波猫と二度目の祭り
「ちょっと!トラ!これは何なのよー!?」
目覚めた春陽が抗議する。
然もありなん。目を覚まして見れば、毛皮こそ丁寧に被せられてはいるものの、冷たい石の中に閉じ込められていれば、その様な反応も当然だろう。
家の礎石よりも尚、巨大な岩を組み上げた小屋。それは、言葉を選ばざれば、即ち石牢である。明かり取りに小窓が幾つか開けられているが、出口は無い。飲み水と食料、防寒の為の毛皮、後は用足しに甕を入れてあるが、その不快は想像に難くない。
終ぞ、春陽に説く術を見出せなかった。
先日、若葉から祭りのことを聞かされてから、今日までの間、ずっと考えていた。
それでも、春陽を納得させる、或いは誤魔化す言葉は見付からなかった。
祭り。
それは魔力の奔流を用いた撒き餌猟と同義だ。
この一帯を埋めるであろう魔力の瀑布。それが春陽にどの様に作用するか、私には予想が付かない。
春陽が暴走すれば、どれ程の血が流れ、彼女の願う帰郷がどれ程、遠ざかるか。
しかし。
魔力の暴走について仔細を語れば、春陽の兄の末期を伝えなくては成らぬ。
お前は腹違いの兄を殺したのだと、告げなくてはいけなくなる。
私には、それが出来なかった。
故に。
「すまぬ。昼過ぎには帰る。それまでそこで大人しくしていてくれ。これ以上は言えぬのだ」
隠し事を、誤魔化す事すら出来ずに直裁に告げる。
「何それ!何でも良いから出してよ………」
私の緊張を察したのか、語勢が衰えていく。
すまない、と最後にもう一度だけ告げてから、里に向けて駆け出した。
逃げ出す様に疾走する。
背後から聞こえる声が、遂に嗚咽混じりなっていくことが、堪らなく辛かった。
胸中とは裏腹に、秋晴れの美しい朝だ。
澄んだ青空の高い所に、巻雲が細く伸びる。
まだ藍に近い、深い青色の空に雲の白色が映えている。
風が強い。
黄に、赤色に、様々に色付いた木々から葉が落ちる。
落ちる端から巻き上げられ、或いは流されていく。
寒いな、と独りごちる。
更に加速する。
景色が背後に吹き飛び、冷たい空気が刃の様に我が身を切る。
見え始めた里に向けて大きく跳躍しながら、春陽が凍えていないかが心配だった。
里の入り口に一人の老婆が立っている。
もはや見紛う事も無い慣れ親しんだ顔、若葉である。
その目前で足を止める。
恭しく頭を下げる若葉に、声を掛ける。
「若葉、早いな。こんな所で待っていて、寒くは無かったか?」
日の光の下で彼女に会うのは随分と久しぶりだった。毛皮を重ね着してはいるが、風の吹く秋の早朝である。太陽の熱が地表を暖めるには、もう少し時間が掛かる。
頭を上げた彼女の姿。少し、痩せただろうか。
以前の巌めいた印象が薄れ、まるで朽ちかけた樹木の様な、仄かな寂寞を感じる。
「何分、トラ様にお願いする初めての祭りですので、心配性の者達が多くおりまして。ひとりひとりの相手をするより、こうしてお待ちする方が、幾分か気が楽というものです」
皺を一層深くし、乾いた苦笑を浮かべる。
合点がいった。確かに、里の命運を握ると言っても過言では無い祭りに関する事である。昨年、脅し紛いに贄役を務めると宣言したものの、直前になって怖じ気づくのではないか、そこまで思わずとも、長く習慣付いたやり方を変える事に不安を覚える者がいる。その事は想像に難くない。
まして私は普段から里に住んでいる訳でも無い。共同体に属さぬ者に、皆の命運を委ねる不安は容易に想像が付く。
短慮であった。
若葉の変化とは、ともすれば私と里の者との板挟みになった果ての心労に依るものであろうか。そう思えば、自らの考えの浅さを恥じるとともに、直前までそれを気付かせない若葉の老獪振りに舌を巻く。
「………すまない、余計な苦労をかけてしまったな。しかし、それならば里の者の準備は出来ているのか?」
若葉は瞬きの間ほど驚きの表情を見せた。それを柔和な笑みで洗い流すと、皆は今日の日を待ち望んでおりましたから、昨夜のうちから用意が出来ております、と答える。
皮肉が効いているものだな、と斜に構えた考えが浮かぶ。それを見透かした様に、若葉は居住まいを正し、真剣な表情で此方をひた、と見詰めた。
「皆は、今日の祭りの成否に不安を抱えております。しかし、それは期待の裏返しでもあるのです。ルイオディウに選ばれかねない子を抱える親達の期待は、いと深くございます。故に、幾度となく問い掛けざるを得ないのでしょう、我が子は本当に贄とならずに済むのか、或いは、同胞の血に塗れて生きなくても良いのか、と」
私も、トラ様のお示しになる未来に期待しているのです、と若葉は呟いた。悔恨と諦観の中に、仄かな期待が滲む、それは深く静かな声だった。
頷く。
否や。頷かざるを得ない、そう言った方が正しかったかも知れない。
トラ様の到着を里の者に知らせて参ります。そう言って若葉は里の中に入って行った。
東の空に太陽が昇る。
長く伸びた影が、見る間に縮んでいく。雁行する鳥たちが森の中に散って行く。鳥たちの木々に留まる羽音、実を啄む音、小動物の動き回る微かな葉擦れ。個々の音は微かであるが、それらが集って、森の音、としか言うより他に無い集合音となって耳に届く。
それらの中に、異質な音が混ざる。
土を踏み締める、リズミカルな音。それらは瞬く間に大きく、雑多になり、此方に近付いてくる。
目を遣れば、思い思いの距離を取って、里の皆が集まって来ている。
その集団から若葉が一人、歩みだす。
此方に向かって深く頷く。
祭りの準備は出来たようだった。
石室の上に立つ。
以前、若葉の腕の中で見下ろしたそこは、河川堤防に囲まれた河川敷に佇む巨石の集まりである。周りに聳える高い堤が、檻のように見えるのは、私の見方に先入観が混じるからか。
堤の上に、里の者たちが立つ。皆が私を見ている。
その視線に乗る思いは様々だ。
不安、期待、恐怖。
混淆した斑な感情が、形を持って迫るような圧迫感を伴っている。
溜め息を呑み込んで、石室の上に視線を落とす。
そこには若葉から渡されたルイオディウ、魔晶石が置いてある。
今さら呑み込む必要は無い。少なくとも私には。
しかし、これは儀式なのだ。
私が、これまでのルイオディウを継ぎ、そして二度と継がせない為の儀式。
頭を下げて、口を開ける。
犬歯で挟み込んだ魔晶石。
それを掲げる様に頤を上げる。
皆に確かに見せつける。
今。この時をもって、この祭りを変質させる。
脳裏に紫瞳の猫を思い浮かべ、語り掛ける。
………「すまない、力を貸してくれ」………
閉じた瞼の裏側。暗闇に佇む彼の猫が僅かに目を細める。
己の正中。魔晶石がその存在を主張するように拍動する。
口に食んだ魔晶石を嚥下する。
低周波の魔力波を最大展開。
それはかつて見た、魔力の奔流の相似。
しかし、決定的に異なるのは、それが制御下にある企図された流れである事だ。
想念は波、糸の如く細やかに、繊細に編み込まれた布を広げる様に、全方位に魔力波を放った。
その全てが私の制御下にある。
紫色の波が伸び上がり、吹き上がった柱が崩れるように雪崩降る。
全てを呑み込むその波に、人々から恐怖と畏怖の声が上がる。
それらが去った後、静寂の帳が下りる。
それは、これまでの祭りに比べれば遙かに長い沈黙だ。
派手な演出に息を呑む皆に、漣のように困惑が広がる。
獣が来ない。失敗だったのか。
不猟を危惧する、或いは既に望みを捨てたかのような怒声すら聞こえてくる。
やがて、男の一人が若葉に詰め寄る。紅潮した顔、怒りを口にするその直前。
森が動いた。
そう、形容せざるを得ない。
静かに森の暗がりから、黒い影が伸びるようだった。
じわりと、音も無く伸びる影。それはよく見れば獣の群れだ。
個々の影は、狼や熊、或いはもっと小さな種々の獣の形をしている。
それらがゆっくりと、だが明確に此方に向かってくる。
それは暴走では無い。
魔力の奔流に釣られて、飢餓に突き動かされた獣では無い。
私の放った魔力波、それに籠めた意味は一つ。
「私はここにいる」
故に、彼の獣たちはここに来る。
己の中の魔晶石が、輩を求めるが故に。
魔晶石の持つ、互いを求める意思に、ただ忠実である彼等は争うこと自体に何の価値も見出していない。
それは、ただの方法の一つでしかない。
故に、彼等は頭を垂れる。己の魔晶石を私に捧げるために。
堤の上の人々が息を呑む。
余りに多くの獣の群れ。最早、河川敷には納まらぬ。
立ち尽くす人々の間を縫うように、何処までも群れは大きくなっていく。
静かだ。
怒りも無く、飢えも無い。
凪いだ湖面に浮かぶ葉が、風に流されて集まるような静かな群れ。
太陽が中天に差し掛かる。
魔力探査に動きが消えた。
魔力尾を展開する。
すまない、と小さく詫びる。
無数に伸びた私の魔力尾が、集まった獣たちの魔晶石を貫く。
静かに、獣たちが絶命する。
その魔晶石と共に、彼等の命を貰い受ける。
眠るように地に伏す彼等から、重い音がする。
それは互いに反響し、遂には地響きめいて周囲に木霊する。
命の灯火の消えた、抜け殻のような体を残して彼等は逝く。
流れ込む膨大な魔力は、透き通るような紫色をしていた。




