56.電波猫と春陽の約束
正直に言えば、春陽を見くびっていた。
昼餉もそこそこに罠を持ち出して、森の中を歩き回っては獣の痕跡を探す。最初に幾つか、獣道の見分け方を教えてやると、驚くほどに熱心にそれを探し、罠を仕掛けていく。
2時間ほども森の中を歩き回り、手持ちの罠を使い果たした。家に着いて、これで少しは休めるかと思っていたのも束の間、罠の作り方を知っておかねば、里に戻っても教えられぬと言う。その言は正しい、と罠の作り方を一から仕込んでいく。
魔力爪を使えない春陽が木材を加工するのは困難であった。
細工物を拵える際に使っていた石器の類を持ち出してきたが、上手くいかない。細い枝葉を曲げるには使えても、木板を切り出し、または削り出すには向かないのだ。
そもそも、春陽の使う石器とは、かつてアイツが使っていた物と似た、石塊の破片をそのまま使う様な打製石器である。これでは少し力を込めれば先端が容易く欠ける。木枝に打ち付ければ、刺さりはするが、その後が続かない。
その旨を伝えると、ではどうすれば良いのか、と問い返す。
まず、木を切り倒すのであれば、磨製石器の方が適している。滑らかな表面を持たせた方が衝撃が石全体に広がるため、容易には割れなくなる。板材を作るにしても、仕上げは磨製石器の滑らかな表面を使って削り出す様にした方が効率的である。
試しに近場の岩を切り出して磨製石器擬きを作ってみる。手頃な枝に紐で縛って、即席の石斧とする。使ってみろと手渡すと、不器用ながらも木を切り倒した。切り倒した木を更にかち割っていく。その後も、幾つかの石器を切り出して渡してやると、それらを使って板を削りだし、見様見真似で筺罠を作り出した。
今度こそ休める、と家に入りかけた所で尻尾を掴まれた。この磨製石器はどうやって作ればいいのか、と問われる。仕方ないので教えてやる。作りたい石器の一回り大きな石を、まずは別の石で叩いて整形していく。ある程度形が見えてきたら、平らな石の上に砂をまぶしながら角の部分を削り取っていけば、何時かはできる。その様なことを、伝えたと思う。
猫とは寝子の変化した名前であるという。
つまり我々はよく寝る。私も普段は20時間弱ほど寝ている。
春陽の質問攻めから這う這うの体で逃げ出して、南側の縁側を今日の寝床と定めて昼寝をする。
眠りに落ちる瞬間も、ザリザリと、春陽が石器を作る音が届いていたことは覚えている
斜陽が瞼越しに赤く燃えている。
もうそんな時間か、と欠伸をしつつ背中を反らす。
そこで耳を疑った。
昼寝に入る前に聞こえていた、あの音がまだ聞こえている。
慌てて庭先に回る。
庭石のつもりで置いていた平たい岩。夏の雨で僅かに苔生すほどだったそれが、石の粉に塗れて白っぽくなっている。
その間も続くザリザリとした音。
「………春陽!」
呆けている場合ではない。
黙々と岩を削る春陽と作業台の岩の間に割って入る。
「いつからそうしていた!?手を見せてみろ」
胡乱げに此方を見る春陽。よく見れば眼の焦点が怪しい。
当たり前だ、こんな陽当たりの良いところで何時間そうしていたのか。
弱々しい抵抗を力付くで押さえ付けて、掌を確認する。
石の粉で塗れていても尚赤い。
破れた血豆の下にさらに新しいマメが出来ている。
「………この馬鹿者!」
魔力尾を展開して春陽を体に巻き付ける。
玄関の戸を蹴飛ばす様に開け放す。厨に駆け込んで、水瓶から椀に水を汲んだ。
「飲め。ゆっくりで良い」
春陽の口元に椀を近づけて傾ける。浅く開いた唇の中に水を流し込んでいく。
「ゲホッゲホッ」
「焦らなくて良い。ゆっくりだ」
春陽に水を与える間に、手の状態を確認する。ずっと力を込めていたためか、関節の動きが妙にぎこちない。
掌を水で洗う。破れた皮から血が滲み出る豆だらけの手。柔らかかった頃の面影が僅かに残ることが、却って痛々しさを強調する。
包帯など高尚なものは無い。柔らかな革を納屋から取ってきて、掌に捲いてやる。
こんなことなら春菜から傷に効く草の類でも聞いておけば良かった。
「………しばらく、そうしておけ。恐らく、しばらくすれば痛み出す。そうなっても取ってはならぬ」
革を巻き付けられた春陽は、それを呆っとみる。しばらくそうしていたが、思い出したように椀に水を汲んで、また飲み始めた。
それを、見守る。
種々の探査は、春陽の状態を正確に伝えてくる。
脱水、体温の上昇、恐らくは日射病だろう。
外傷もさして深いものでは無い。
しかし、問題はそんなことでは無い。
「………どうして、そんな無理をしたのだ?」
繕い切れない怒気が、微かに語気を揺らす。
その事に気付いたときに、改めて自覚する。
私は怒っている。
どうして、どうして。口の中で反芻するように春陽が繰り返す。
水の入った椀の中にボンヤリとした視線を落としたまま、ポツリと呟く。
「だって、やっと母様と父様の所に戻れるのかと思って………」
消えていくような、か細い声でそう言った。
性急すぎた。そう思った。
春陽も、私も。
春陽の里への憧憬を甘く見積もり過ぎていた。
簡単に思えるような道筋を安易に説明し過ぎた。
この傷は、きっと私のせいだ。
「………春陽。すまなかった。たとえ春陽が私の言ったことを全て出来るようになっても、それで里に戻れるか、私も分からない」
だから。今度こそ誤魔化しも嘘もつかない。
「だけど、約束しよう。いつか必ず私が春陽を里に戻す。だからそれまで絶対に無理はしないで欲しい」
前脚を春陽の首に回す。
全身を使って春陽に抱き着く。
極至近から涙に潤んだ、黒い瞳を見詰める。
私の言葉を理解したのか、瞳に大粒の涙が浮き上がる。
また、泣かせてしまった。
「約束だ。約束する。トラは約束は必ず守る。だからゆっくり進めよう。今は焦らないで、元気でいなくては。里に戻った時に春陽がボロボロだと、私が春菜と夏海に怒られてしまう」
怒った春菜は恐いからな、と呟く。
ボロボロと涙を流しながら、その涙を隠すように私の肩に顔を埋めながら、それでも私の言葉に少しだけ笑って、春陽は何度も頷いてくれた。
夕陽が厨の窓から斜めに射し込んで、抱き合う私達を照らしてくれた。




