55.電波猫と春陽のやり方
訊けば、人を含めて、獣が殺害される様を見たことが無かったのだと言う。初めて目にした狩り。鹿の頭が潰れる瞬間の音が、弾け飛ぶ体液が、焼き付いてしまった。それを思い出すと、体が震えて、気持ちが悪くなって仕方が無い。
未だに顔を真っ青にしながらポツポツと話す春陽の言葉を要約すると、そうなる。
まだ雫が落ちる前脚の先、肉球に舌を這わせて水を舐め取っていく。それを横目で捉えた春陽は不快気に眉を顰めた。
それに気付かぬふりをして、話を進める。
「春陽。酷かも知れぬが、獲物を仕留める度に具合が悪くなるようでは、猟は出来ぬ」
私の言葉に、春陽の視線が落ちる。火の入っていない囲炉裏の中に眼を落として、乾いた灰の中に何かを探す様だった。
丁度、太陽は中天に届き、頭上からの陽光が庭を明るく照らす。傾斜の付いていない光は、家の中には入りづらく、室内は薄暗い。
濡れた体を何度も舐め上げて、ようやく人心地着いた。
先日までの熱を失った、涼やかな風が開け放した雨戸を通り抜けていく。
蝉の声も随分と細い。あれ程煩わしく感じていたと言うのに、居なくなれば寂しく思うのは、我ながら身勝手な心地がする。
変化を求めることと、今のままでいたいと願うこと。それらは日々刻々と鬩ぎ合って一定の割合には収まらない、そう言うことなのだろうか。
今朝の猟果を思い出す。あれ程の大物を獲ることが常態化したのも、いつの頃からだったか。紫瞳の猫と契約を交わして、それ以降は魔晶石を持つ獣ばかりを狩ってきた。それ以前、アイツに手土産として渡していたのは、確か、もっと小型の兎や狸の類が多かった。その様な意識しない変化も、思い起こせば種々様々に日常を変えていく。気付いたときには引き返せないほどに。
はた、と思い付く。
「春陽。狩りがしたい理由を聞いて良いか?」
春陽は沈んだ様子のまま、モニョモニョと話し出す。
その内容は、随分と錯綜していて、本心を見通すことが難しい。小一時間程も訊いてみて、ようやく像を結んだそれは、意外な形をしている。
曰く、私が春菜や夏海にチヤホヤされるのは狩りが上手いからであり、狩りが上手いから獲物を運ぶと言う名目で里にも出入りしている。春陽も狩りが出来るようになれば、里に戻れる。
なるほど。なるほど。
「………春陽の言っていることは、概ねその通りかも知れないな」
里にいるであろう若葉の顔を、ふと、思い出す。
「春陽の考えを、まとめるとこういうことだ。里の者がワディエツヤ ドゥイグと呼ぶ私達が、彼等を害すること無く、彼等の恐怖心を超えるほどの何かの益をもたらせば、里に戻ることも、或いは適うかも知れない」
脳裏の巌めいた顔に苦笑が浮かぶ。我らはそれ程単純ではありませぬ、と苦言を呈する様だった。
私が反対すると思っていたのだろうか。春陽の考えを首肯すると、驚きを顔に浮かべて、ブンブンと音がしそうな程に激しく何度も頷いた。
「………しかし、春陽のやり方には抜けがある。春陽は里の者たちが我々、ワディエツヤ ドゥイグをどれ程、恐れているのか知らぬのでは無いか?」
「そんなことは無いよ!………たぶん」
威勢良い言葉が、勢いを失って尻窄みになっていく。
恐らく、ワディエツヤ ドゥイグは怪物の名前である。それは幼子を寝かしつける親が夜伽に聞かせる姿の無い化け物の類に等しい。春陽の中にある類似の化け物と言えば。
「では春陽は、ある日いきなり海から海神が出てきて、魚を捕っても良いから、代わりに自分を里に住まわせろ。そう言ってきたらどうする?」
海神、の名が出た瞬間に春陽の体に緊張が充ちる。
その姿を溜め息で見咎めて、続ける。
「………そういう事だ。積み上げられた恐怖心はそうそうには解かせられぬ。だから春陽が急に大量の獲物を抱えて里に行っても、周りの者は恐れこそすれ、歩み寄ることは難しいだろう」
私が山神などと呼ばれている事もそうだ。結局の所、彼等の中のワディエツヤ ドゥイグに対する意識は微塵も変化していない。ただ、人成らざる化け物の中で益になる者に、神と、新たな名を与えただけなのだ。そんな愚痴を春陽に零す。
春陽の瞳が暗く沈んでいく。そっかぁ、と軽い調子の合いの手の中に、深い諦観が交じる。自分のやっていることに絶望した時、人はこの様な顔をする。それがどうしようも無く淋しい。
「………だからな春陽。春陽は神様ではなく、人を目指しなさい」
人?、と聞き返す春陽。その目の澱んだ暗がりに一筋の光が灯る。
それは私にも出来ない。きっと春陽にしか出来ない形だ。
「私のように、魔力を操って、ワディエツヤ ドゥイグとして人を助けるのでは無く、あくまで人として魔力を制し、御する事が出来るのだと、そういう姿を見せる。それが春陽の望む形に近いのでは無いかな?」
ふむふむ、と分かったような顔をして頷く。
しばらくそうしていたが、ふと我に返ったようにして聞き返す。
「………それって、結局のところ、私は何をしたらいいの?」
それが私にも分からぬから、お前を里に帰す目途が立たぬのだ。そう言うと、春陽は何それ、と言って呆れた様に笑ってくれた。
春陽は気付いているだろうか、そうして私に笑いかけてくれる貴女が、私を神などという化け物から、ただの猫へと戻してくれるたった一人だと言うことを。
「とりあえず、鹿や熊といった大型の獣は諦めよう。もっと小型の兎や狸なら、やり方を工夫すれば狩れるかも知れないし、魔力を使わない方法で狩りが出来るようになれば、それを里の者に教える、そう言った形で里に馴染む事も出来るかも知れない」
昼餉の後、庭先に春陽を連れ出して、そう切り出した。
「まず成功率の高そうなものから試していこう、罠だ」
魔力尾を展開して、庭先の木材を切り出す。厚い木板を四角に組んで、内部に仕掛けを入れ込む。
「………これは筺罠と言って、なかに獣の餌になるものを入れて使う。獣が餌を食べれば………」
魔力尾で中の仕掛けから押さえの錘を外す。
ガタリ、と音を立てて扉が閉まった。
「この様に扉が閉まって獣を閉じ込める事が出来る」
フムフム、と春陽が頷く。
筺罠、くくり罠。あとは幾つかの投擲武器。投げ槍や投石器を納屋に山積していた木材や革から作り出しては説明していく。
春陽の眼が輝きに満ち溢れ、やがて多すぎる情報に押し流されるように光を失っていく。
飽きてきた頃合いを見計らって、最後の話をする。
「罠に掛かった獣にトドメを刺すときは、しばらく私が同行する。今日教えた武器のどれかで良いから、モノになった時には春陽がやってみると良い」
呆けた顔をしていた春陽が居住まいを正す。
パンっと頬を叩く。
輝きを取り戻した瞳で私を真っ直ぐに見詰めて、力強く頷いた。




