54.電波猫の狩り方
「トラ、獣の捕り方を教えて」
夏海と春菜が里に戻って暫く経った頃のことだった。
あの一件で、春陽にどの様な心境の変化があったのかは、分からない。
しかし、夏の盛りも過ぎ、日に日に秋めいてくる中で、最近の春陽は春菜から教わった事を復習するように、山菜の類を採取し、時には竈で土器を焼いている。まだ失敗も多いようだが、チラホラと真新しい椀や、皿のような物が家の中に増えている。
私から離れて出掛ける事も多くなった。朝餉の後にフラリと出掛けて行っては、自分で作った籠の中に、山菜や、或いは土器の原料だろうか、白っぽい土塊を入れて帰ってくる。露出した手足には生傷が絶えず、治りきる前に新しい傷を拵えてくるので、最近では傷痕が日に焼けた肌に斑模様を作っている。
そこにきて、今日は狩りである。
勇ましくなったな、と率直に思う。
人の子は皆、こうなのだろうか。たった1月あまりでここまで変化する様が、眩しく映る。
しかし。
「教えると言っても、私は人の術を知らぬ。あまり参考には成らぬと思うが………」
それでも是非に、と春陽は言った。
…………………………
…………………
……………
家から南に2kmも離れれば、そこは原始の植物が繁茂する樹海である。
植生の高すぎる密度のあまり、木漏れ日すら疎らな薄暗い森。その木の枝の一本に寝そべりながら獲物を待つ。
展開した探査が数々の反応を返す。
落ちた葉の下を這い回る鼠や兎。それらを探して足音を顰める狐や狼。
そして。
口角に泡を漲らせ、疾走する大熊。
まるで気配を隠す素振りのないその姿は、この場にて己を狩り獲るモノの不在を確信して揺らがぬ覇者の自負か。
充血した眼。凡百には能わぬ、異常な心拍数とそれに裏打ちされた脚力。
逃げ惑う鹿の群れを、巨木を薙ぎ倒しながら直線で追い詰める。
探査を精化させるまでも無い。
その身から紫の靄が立ち込める様が、私からはよく見える。
憐れな鹿の一頭が、張り出した根に足を縺れさせる。
その頭上に、この暗がりにもまだ黒い爪を纏った右腕が叩きつけられる。
その刹那、梢から身を投げる。
重力に依って加速する感覚。
交戦回路に火を入れる。
見える。
加速する思考と視界の中で、彼我の相対速度を計算する。
熊の爪が鹿の頭を砕く。
砕けた頭蓋から脳漿が零れて、桃色の肉と共に鮮血が舞う。
振り下ろす爪に、自重の一切を籠めた熊の上体が傾ぐ。
薄闇に尚濃い体毛が、血と肉汁に塗れて薄く照る。
是非も無い。
此程の無防備。狩り獲らぬ由縁は無い。
我が身から伸びる魔力尾が熊の首を薙ぐ。
巨大がゆっくりと傾いで、僅かな地響きとともに地面に倒れ伏す。
後に残ったのは、頭蓋を粉砕された鹿の一頭と、魔晶石を内在した熊の死骸だ。
魔力尾を伸ばして、熊の体内の魔晶石を取り込む。
流れ込む飢餓と呪詛で視界の隅が赤く染まる。
それらを飲み下して、頭上に声を掛ける。
「………これが私のやり方だが、参考になったか?」
高さ5mを超える樹上で、幹に両手でしがみ付いていた春陽は、此方を見ながら激しく首を横に振った。
…………………………
…………………
……………
全身に纏った魔力膜を解く。
春陽と猟果が地面に落ちる。
「うげっ」
激しい揺れに足腰が立たないのか、春陽が尻餅をついて呻く。
青ざめた顔をしてそのまま寝そべった春陽を余所に、今日の獲物を解体していく。
皮を剥ぎ、肉を切り分ける。
それらを納屋に運び込むと、皮は鞣し用の甕の中に、切り分けた肉を燻製室の網に並べていく。
最後に桜の木の薪に火をつけて扉を閉める。
暫く待っていると、燻製室の天井に取り付けた煙突から薄い煙が立ち上るのが見えた。
ほんの5分程だった。
迂闊だった。
作業を終えて、さて昼餉にしようと春陽に向き直る。
仰向けになっていた春陽は、うつ伏せ、と言うよりも座ったまま頭だけを地面に擦り付けるような奇妙な格好をしていた。
常に無い荒い呼吸。上衣の胸の辺りを強く握り締めている。力の込められた指先が血の気を失って白い。
苦しげに眉根を寄せてる顔も、脂汗を浮かべて尚、蒼白である。
「春陽!」
飛ぶように駆け寄る。
感覚器官を総動員しての探査。
脈拍と呼吸が常よりもかなり高い。
末梢の血管が収縮して、極度の緊張状態にあることが読み取れる。
しかし。
その他の探査結果は「問題なし」だ。
冷めた部分が、生命維持に支障が無いことを示している。
その結果に安堵した。その時。
「…………ぐぇぇぇ、あぁぁ」
春陽の口から噴水の様に吐瀉物が吐き出され。私はそれに塗れた。
再三であるが、私は水を好かない。
それでも、春陽が泣きながら体を洗ってくれと、頼むから舐め取らないでくれと、そう言われては仕方が無かった。
水場の床を流れる水の上でゴロリゴロリと二転三転。これで満足か、と上がってきた私を捕まえた春陽は、流れ落ちる流水に私を押し込んで全身をくまなく洗った。
反射的に交戦回路が起動しそうになるのを、尋常ではない忍耐力で堪えた私を、自分で褒めてやりたいと、そう思った。