53.電波猫と春陽の昼食
昼になっても春陽は帰って来なかった。
魔力探査のログを辿る。
春陽の魔晶石に紐付けた反応は、家を飛び出した後、付近の森へと移動している。
あちこちを走り回った後、今は家の北に向かって2kmほどの地点に留まっている。
その位置が、春陽と春菜がよく山菜採りをしていた場所だと、私は知っている。
そして、恐らくは春陽の知る中で、最も里に近い場所であることも。
木の枝から枝へ、跳躍を繰り返す。
春陽の元に向かって。
柔らかな躍動が、しなやかな体躯が、僅かな葉擦れ以外の痕跡を消してくれる。
だから、私が春陽の姿を捉えても、春陽は私に気が付かない。
梢に座って春陽を見る。
藪を払っていない森中を駆けたためか、朝に着ていた服には小枝や葉が纏わり付いている。剥き出しの両腕のあちこちに真新しい傷が幾つも見える。下衣に泥が付いているのは、幾度となく転んだためためだろうか。
泣いていた。
怒りの色はすっかりと消えている。
木漏れ日の中で、大樹に背を預け、遙か北にある里を森の向こうに見透かすように視線を上げたまま。
涙と鼻水で顔中をカピカピにさせながら。
強い意志を宿した眼をして、顔を上げて、泣いていた。
その姿を美しいと思った。
だから、春陽が背を預ける木の枝の一本の上に座り、春陽が泣き止むのをじっと待っていた。
「………トラ、いるんでしょ?」
どれ程そうしていただろうか。太陽は既に中天を過ぎ、東に向かって延び始めた森の影が、河縁の平野に届き始めていた。
春陽の呼び掛けに、梢を降りる。
春陽の歩幅で5歩の距離を置いた所に着地すれば、落ち葉の腐った柔らかな腐葉土が私を柔らかく受け止めてくれる。
音も無く現れた私に、春陽はさして驚いた様にも見えない。
私がそこにいると、分かっていたかのように。
「………春陽」
ずっと考えていた。
春陽に掛ける言葉を探していた。
でも、見付からなかった。
謝ればいいのか、叱ればいいのか、諭せばいいのか、それすらも分からない。
結局、私の口から零れたのは、着地点を見失った曖昧な呼び掛けだった。
居心地の悪さを感じながら、それでも春陽を独りにはさせておけない。
優柔不断だな、と自嘲めいた考えが脳裏をよぎる。
自分の不甲斐なさに、沈んで行きそうになったその時、私を呼び止めたのは春陽だった。
「トラ!私は怒っているの!」
その言葉にハッと顔を上げる。
紅潮した頬、涙と鼻水に塗れた顔。
それを上衣の袖で乱暴に拭い取る。
「でも、ずっと考えたの。何でトラがあんな意地悪したのか。意地悪なのに、どうして私の傍にいてくれるのか」
春陽は早口にそうまくし立てて、そして大きく息を吸い込んだ。
「母様が昨日の夜に言っていたの。トラの言うことを良く聞くようにって。それに父様も、トラは凄くて、それで優しい神様だって。でも、私の知ってるトラは、確かに凄いけど、暑い日は日陰でゴロゴロしてるし、意地悪ばっかりするし、穴も掘れないし、父様みたいに力持ちじゃないし、母様みたいに何でも知ってる訳じゃないんだもん。全然すごい神様には見えないよ」
すごい神様だったら、今すぐ私を母様と父様の所に帰してよ、と漏れ出た最後の言葉は、か細く掠れている。再び溢れた涙が流れ落ち、また頬を濡らしていく。
「………春陽、私は神様なんかではないよ。春陽の言うとおりだ」
「だから!それは知ってるの!」
再びの大声に圧倒される。
「だから、だから。トラは私の傍に居てくれるんでしょ!?」
分からない。
分からないが、分かった様な気がする。
春陽は、たぶん。
「トラは鹿とか狼とかもすぐに捕ってこられて、父様でも作れないような家もすぐに作っちゃって、もしかしたら母様よりも物知りで」
そこまで言い放って、また大きく、大きく息を吸い込む。
「でも、どうしようも無いこともあって。きっと私が母様達の所に戻るのは、そういうどうしようも無いことで。でもトラは優しいから私の傍に居て、ご飯もくれるし、服も作ってくれるんでしょ!」
怒鳴られた。
しかし、こんなに心地の良い怒声を浴びせられたのは初めてだった。
「だから、私は怒っているの!」
やはり分からない。
春陽の言っていることは、脈絡の大事な部分が抜けていて、どの様な理屈でその様な結論になるのか、全然わからない。
だけど、良いのだ。
紅潮した頬に、もう涙は伝っていない。
怒りを宿していた眼は、今はもう木漏れ日を反射して煌めいている。
目尻を上げて、声を荒げて、私は怒っていると、繰り返す春陽が、実は怒りでは無く、照れに塗れていることも、分かっている。
それも理屈では無い。
なんだ。理性的でないのは、春陽だけでは無いようだった。
ふと、可笑しさが込み上げた。
猫も笑う。
人とは違い、声は出さぬ。身を捩りもせぬ。
ただ、いつもより目を細めて、喉の奥をコロコロとさせる。
それは人の所作とは違う。きっと春陽も気付かない。
そう思っていた。
「なんで笑うの!?私は怒っているって言ってるでしょ!」
バレた。
何故わかったのか。それも分からない。
でも、私の気持ちが春陽に伝わった事が嬉しくて、可笑しくて、喉が鳴るのを抑えられない。
ギャーギャーと喚く春陽を見遣りながら、暫くそうしていた。
春陽の腹が鳴る。
ピタリと静かになった春陽に、家に戻って昼餉にしよう、と言う。
照れくさそうに俯きながら、コクリと頷く春陽を連れて、家に戻った。




