52.電波猫と春陽の喧嘩
背骨から肩、肘から指先までを大きく振る。
日に焼けて褐色になった指先。
その先に掴んだ木椀が、狭い室内を切り裂く様に放たれる。
茶色に褐色の縞の入る、木目も鮮やかな椀が、指先で弾かれる。
クルクルと独楽の様に回転し、斑な褐色の球の様になりながら、直線を描いて私に迫る。
魔力尾を展開。
椀の縁に引っ掛ける様にして、それを宙に押し止める。
まだ湯気の立つ汁が、無数の飛沫となって私に降り掛かる。
体毛の濡れる嫌な感触。
振り抜いた右腕を強引に引き戻して、辺りを手探る。
手近にあった匙が、脱ぎ放した上着が、投げられる。
傾いだ上体。
不安定な体勢からの投擲は、最初の椀の精度とは比べるにも値しない。
室内を乱舞するそれらを、無視し、或いは柔らかく受け止める。
開け放した戸越しに、斜めに入る朝日。
明暗の交錯する室中に埃が舞う。
空中にフワリと広がった上着が、空気を孕んでゆっくりと墜ちる。
荒い呼吸音。
紅潮した頬に涙が流れ落ちる。
「………騙したんだ………」
荒く掠れた低い声。
つり上がる目尻から涙を流す。
充血した瞳は瞋恚を宿して燃える烈火の様だ。
違う、と言いたかった。
しかし、それは言わないと決めていた。
騙したのでは無い、隠していた訳でもない。
ただそれをそうと伝えなかっただけだ。
殊の外、冷静な自分がそう返す。
自分の詭弁に吐き気がした。
「母様と父様をどこにやったの!?」
血を吐くように、問い掛ける。
怒声だ。
愚図っているのでは無い。此方の興味を惹くために泣いている訳でもない。
恐らくは初めて、春陽は私に対して明確な怒りを露わにしている。
その成長に感嘆する。
「………里に帰した。それが春菜と夏海との約束だったから」
「嘘だ!だって母様と父様が私を独りで置いていく訳ない!」
私の言葉を遮って、そう叫ぶ。
「それは違う。春菜も夏海も、お前を置いていったのではない。むしろ、独りになったお前に会いに来たのだ」
蝉の声が木霊する。
まだ薄暗い室内に、噎せ返るような夏の精気。
じっとりと湿った空気に、目眩すら感じるよう。
どこか、薄膜を通したような非現実を錯視する。
ゼイゼイと掠れて喘ぐ春陽の呼吸音が、何故か遠く感じる。
逃避している。
予想していた。想定していた。
それでも、春陽の激情を受け止めきれない。
無意識下で、この場から逃げ出す手段を演算している。
それにリソースを取られた結果が、この茫漠とした思考なのだろう。
何という不覚悟か。
春陽が何かを言い放つ。
それは、私を詰る声。
物が飛ぶ。手近なものだけでは無い。
薪が、或いは鍋釜が。
激情に任せて投擲される。
柔らかく受け止める。既に背後にはこの家のあらゆる物が山積している。
それでも止まらない。
止められないのだ、と思考の上澄みが応答する。
春陽の目から、怒りの色は薄れている。
親を再び失った哀しみが、涙となって流れ落ちる。
それでも、やり場のない悲哀を物に当たる事で、自分の心情を整理し始めている。
怒りに曇った眼が、理性の光を取り戻し始めていた。
「トラの馬鹿ぁぁぁぁ!」
半時も暴れ回った後、春陽はそう叫びながら家を飛び出していった。
春陽のいなくなった室内にボンヤリと佇む。
髭の先から雫が垂れて、床の水たまりにポチャリ、と落ちた。
そうだった。濡れているのだった。
春陽の投げつけた品々の中から、まだ縫製していない革を見付ける。
それを魔力尾で操って、床の水気を取っていく。
刻んだ山菜や肉片が纏わり付いて、革はすぐに汚くなる。
何度となく、水場を往復して、漸く床が綺麗になった。
日光を反射して艶めく床。そこに点々と残る猫の足跡。
自分の肉球を舐めあげる。
爪の間から始めて、後ろ脚、腰と、順に舐め取っていく。
傍らに置いたままだった、革が目に付く。
秋に向けて重ね着が出来る様にと、大きな熊の毛皮を鞣した革だ。
もう汚れてしまったし、捨てた方が良いかも知れない。
それに。
それに、作った所で春陽が着てくれる未来が、今の私にはどうにも想像出来なかった。




