39.電波猫と初夏
一月程も続いた雨が上がった。未だ雨雲が尾を引き摺り、ともすれば小雨が舞うこともあるけれど、厚い雲は随分と少なくなり、雲の随から陽光が降り注ぐことも多くなった。
特に今日は快晴だった。
久しぶりに雲一つない青空が広がっている。長い雨に洗われた為か、空の高いところまで澄み渡り、その青さが眩しく映る。
寝こける春陽を余所に、戸を開け放つ。澄んだ空気が、小屋の中を洗い流すように通っていく。夜の間に籠もった暖気と湿気が、カラリとした空気と入れ替わる。春陽がもぞもぞと寝返りを打って、蹴り飛ばした毛皮を体に巻き付ける。
小鳥の囀る声が森に響く。それまで雨に閉じ込められていた鬱憤を晴らすように、空を駆けていく。それに誘われるまま、戸外に降りる。軒先の空き地に未だ散乱する倒木。長雨が表皮に染みた為か、その表面に薄く苔類が張り付いている。薪にするにしても、建材とするにしても、樹皮を剥がして乾燥させなければならないだろうな、と思う。
気付いた時にやってしまう事が、大方の場合は楽である。尾を展開して、樹皮を剥いでは並べていく。単調な作業に、意識が余所に逸れる。
充分な水分を得た木々は、いよいよ猛々しいまでの精気に満ちている。陽光の透かして見える葉の一枚一枚が、厚く、濃い緑に輝いている。
見上げた空は青く、高い。風にも寒さより、心地の良い涼しさを感じ始めている。
初夏、と言っても良いのかも知れない。
小屋の周りに散らばっていた倒木を、処理しては並べていくと、その空き地が思った以上に広いことを悟る。この幾月かで、再び背を伸ばした草の類が、倒木のあった場所だけ禿げている。まるで大きな子供が泥遊びをした後に、板張りの廊下を駆けたような、点々と伸びる足跡のようにも見える。
ふと、此処に越してきたときの春陽を思い出す。腹が減ったと言えば泣き、肌が痒いと言えば泣き、親が居なくて寂しいと言えば泣き。自分の感情や考えを表現する方法が、泣くこと、そして稀に笑うこと、その2つしか無かったように、今になってみれば感じられる。
天手古舞いだったな、と自嘲めいた考えが浮かぶ。子供の成長は早い、と人は言う。猫の子程では無いにしろ、春陽の成長は早いと思う。たったの二月ほどである。それでも最近では、言葉を巧みに操って、思いがけずドキリとするような、核心めいた事を口にすることも、稀にある。子供じみて地団太を踏んでいたかと思えば、ひどく大人びた事を口にする事もある。その緩急が激しすぎて、春陽を子供と見做せば良いのか、それとも独立した個性として扱うべきか、迷うことも多い。
その変化の原因に思いを馳せると、複雑な気持ちになる。親元から離されて、妙な獣と生活していること。名を与えられた、いや、返却された、と私は言いたいが、それによる自己認識の変化。また、恐らくだが、ルイオディウとして、ある種、特殊な扱いをされてきたことによる、これまでの経験の少なさ。それの反動のように、変化の多い最近の日々。それらが一挙にに彼女を呑み込んで、そして今になってやっと、春陽自身がそれを咀嚼し始めている、そういう事では無いだろうか。
開け放たれた雨戸越しに、春陽を見る。少し、背が伸びた。栄養状態が良くなった為か、それとも毎日毎日、暴れ回っているからか。
血色の良い、赤味の差した頬。差し込む陽光に照らされて、産毛が輝いている。口は随分と達者になったが、あどけない寝顔は、まだまだ幼い。尾を伸ばして、少しだけ頬をつつく。柔らかい頬に先端が沈む。未だに奥歯は小さいままだ。
ついついやり過ぎた。くすぐったいのか、眉をしかめて、寝返りを打つ。その拍子にはだけた毛皮を、静かに掛け直す。まだ、寝ていても良いのだ、と聞こえないほどの小声で呟く。
そんな悪戯をしている間に、庭先も随分と片付いた。こうして見れば、小屋を増築するにしても、菜園のようなものを作るにしても、足掛かりとしては十分だろう。小屋の裏手にも散乱する倒木を片付けながら、ボンヤリと青写真を描いていく。陽当たりのよい南側に、なにか畑の様なものを作ってみようか。春陽が便所を欲しがっていたし、北側に新しい小屋を建ててみようか、いっそのこと、今の小屋をバラして一から作り直しても良い。貯まってきた春陽の服を、仕舞っておく部屋があって良いかも知れない。
そんなことを考えながら、小屋の周りをぐるりと回って小川に向かう。視界の端に小屋を建てた時に樹皮を剥がして置いた木材が映る。こちらは陽光に当たる部分が艶めいて、腐食などは見当たらない。長く雨に打たれていたためか、汚れが落ちている。露わになった木肌が輝き、頼もしく見えた。
小川への小径。その入口があった場所に立つ。雨後の筍、という言葉があるが、雨で活気づくのは筍に限らない。それを身をもって知る。私と春陽が時間を掛けて踏み跡を残した小径は、繁茂した藪の中に埋もれてしまって、その入口も分からなくなってしまった。それらの植物の中に、食える物、或いは何かに使える物を見いだす。
踵を返して小屋に戻り、籠を取ってくる。アイツの残した籠。若葉に教えて貰った今となっては、それが藤の枝を編んで作られた物だと分かる。ふと、この籠を持って若葉を訪ねた時のことを思い出す。
「これは藤を使っていますね。しかし、まぁ、相変わらず要以外は手を抜くことが上手いこと」
雲が陽光でボンヤリと照らされて、薄明るい夜だった。手に取った籠をしげしげと見て、若葉は微笑みを浮かべながらも、呆れた調子でそう言った。
木材を編んで籠や笊を作る方法を教えて貰っている最中も、ふとした拍子に若葉の顔には微笑が浮かんでいた。アイツのことを直接、話すことはない。それは出来ないのだと、分かっている。でも何時の日か、若葉とアイツの思い出話が出来るようになれば良いなと、そう思う。
まだ記憶に新しい思い出から浮かび上がる。小川への小径の入口。繁った藪の中から食える物、有用な物を摘み取っていく。背中の籠に重みを感じる。成長著しい植物たちからすれば、摘み取られた分など、たかが知れているのだろうか。しばらくの内であれば充分な量を採取しても、藪が減ったようにはまるで見えない。
勿体ない気もするが、魔力爪を振るう。小川までの道を、藪を切り払って行く。驚いて飛び出す虫たち。未だに息苦しさを感じるほど、湿った空気。いつかは来ると思っていたが、蚊の類も随分と多い。春陽が蚊に食われるのは可哀想だ。大人二人が並んで歩けるほどの幅を持たせて、刈り込んでいく。
狩り獲った草の類を小屋の南側に置く。また戻って刈り取る。それをまた小屋まで持ち帰る。チマチマとそんなことをしていたら、春陽が起きてきた。
細い笹を編んで作った草履をペタペタと鳴らしながら、近付いてくる。
「おはよう、トラ。何してるの?」
起きてから、ちゃんと顔を洗ったのか、頬が僅かに濡れている。寝癖も手感覚で直したようだ。鏡があれば良いのにな、と、ついつい思ってしまう。
「もうそろそろ、小川までの道を直しておこうと思ってな。水瓶にはどれ程、残っていた?」
トラは働き者だねー、と遠い目をして呟く。いや、違う。お前とお前の兄が無精過ぎるのだ、と言いたい。
「まだ水はあったよ。今日の分は十分じゃないかな」
「そうか、ありがとう」
そう、礼を言って作業に戻る。
藪を切り払い、払った草を運ぶ。その繰り返しだ。なぜか軒先に佇んだままの春陽。その前を幾度も往復して、少しずつ道を伐開していく。
10分ほどそうしていただろうか。道はせいぜい15mほどの区間が整備された。あと半分ほどかな、と当たりを付ける。あちこちが蚊に食われて痒い。ついつい前脚や後ろ足で掻きむしってしまう。
さて、頑張るか、と塊にした草を置いた時である。なぜか軒先に佇んだままだった春陽が、少し怒った様な口調で問い掛ける。
「トラはさぁ、なんでこういう時に私を手伝わせないの?」
不思議な問いであった。少なくとも、私はそう感じた。一人で出来るから、と安直に答えようとして、春陽を見る。
春陽は。そうか。
開きかけていた口を閉じる。
真意を尋ねるように、春陽の目を真っ直ぐに見詰める。
「ああ、疲れた。ワシのような可愛い猫には、こんな重労働は堪える。誰か若くて、親切心のある心根の真っ直ぐな子が手伝ってくれると助かるのだがなぁ」
大仰にそう言う。春陽から視線を外す。さも疲れたように四肢を伸ばす。ついでに大きく欠伸を打つ。
春陽は毒気を抜かれたような、ポカンとした表情。チラリと、一瞥をくれてやれば、やっと得心がいったようで、喜色を浮かべてこう言った。
「仕方ないなぁ。じゃ、私が草を運ぶのを手伝ってあげるよ」
駆けるように藪に向かう春陽。その背中に、虫が居るから長袖に着替えておいで、棘のある草もあるから手袋も忘れずに、と声をかける。
トラはうるさいなぁ、とブツクサ言いながらも小屋に着替えに戻る。
その間に、切り拓いた小径の先に立ち、藪を刈り払う。春陽が持てる大きさに纏めて、背後に置いておく。
戻ってきた春陽が、それらを運んでくれる。ヨイショ、ヨイショと掛け声が弾む。足取りも軽やかに、私と小屋とを往復する。
気にしないように、なるべく前方の藪に集中する。切っては丸め、切っては丸めである。
あの時の春陽。目を開いて、眉を上げて、精一杯、私は怒っている、という表情を作っていた。でも、眉根は下がり、肩はすぼめられ、左手の手首を、右手で掴んでいた。
不安なときに、そうする癖があることを、今の私は知っている。知っていることを伝えた事は無い。
きっと、一緒に何かしたいのだろう。お姫様のように、或いは大切な贄のように、どこか腫れ物のように扱われるのではなく、軽口を飛ばし合い、それでも仲良く何か同じ事をする。そんな経験をしてみたい、そう思ったのでは無いだろうか。恐らく、ルイオディウではない、普通の子らが、親に文句を言いながらも、楽しげに働くように。
しかしまぁ。
楽しげに働く春陽から隠れてため息をつく。
この素直で無いところは、誰に似たのやら。




