38.電波猫と梅雨の過ごし方
空には厚い雲が立ち込め、粒の大きな雨が続いていた。太陽の位置すら定かでないなか、止むことのない雨が、若葉に、或いは地面に打ち付ける。一寸先も見通せぬような水の帳。春の陽気に緑を増した地衣類が、あまりの激しさによって剥ぎ取られ、束の間の小川と化した溝に沿って流れていく。
増水した小川では砂泥が巻き上げられ、褐色の泥流となっている。これでは飲み水にすることも出来ぬと、軒先に水瓶を据えておけば、アレよという間に雨水でいっぱいになる。
梅雨が始まった。
体表から少し離して魔力膜を展開する。薄紫の膜に弾かれた雨粒が散乱し、視界は殆どない。音響、電、磁、そして熱。全てが雨によってジャミングされて、真面な値を返してこない。感覚器の殆どが使い物にならない中、限られた視界の中で、何とか食い物を集める。そんな日々が続いていた。
怪我の功名と言うべきか、魔力探査はかつて無いほどに精度が高い。恐らく、魔晶石を持つ程では無い小動物の殆どが、塒で雨を凌いでいるからだろう。故に、いま動き回る反応を返すのは、本能の髄まで魔力に侵された獣。里の者の言葉に直せば、ワディエツヤ ドゥイグと呼ばれるモノたちだけだ。狩り獲ることに寸分の迷いも無い。
巨木の枝から見下ろし、対象が下を通ったタイミングで跳躍。落下エネルギーを魔力爪越しに頸椎に叩き込む。それだけで、春陽の腰ほどもある、熊の首は断たれた。
勢い余って切り飛ばした頭部に魔力の帯を巻き付けて回収する。胴体と合わせて、地面に引き摺りながら小屋に戻った。
「トラ!おそいよー」
籠いっぱいに野草を穫り、熊の死骸まで担いだ私に、何という言い草であろうか。どんな仕置きをしてやろうかと、考えることも億劫である。春陽の言葉に頷きを返し、恐らくは見えていないと思うが、小屋の玄関をくぐる。
魔力膜を解除。その表面に張り付いていた水滴が、剥き出しの土に落ちる。綺麗な円形に濡れた部分を避けて、今日の猟果を置く。
見事な雄熊だった。身の丈は2mを僅かに超える。何歳ほどだろうか、平時であれば、あれほど簡単に仕留められる獲物では無い。雨天での狩りも一長一短である。今回はその幸運が私の待ち伏せに傾いてくれた。
しげしげと検分していたが、視界の端で春陽がご立腹である。手早く解体し、足の早い肝を中心に鍋に放り込む。籠から山菜を適当に選んで雨水で洗う。そちらも魔力尾で切り刻み、鍋の中に放り込んだ。
長雨が始まってから、2週間と少し。気温も低下してきていることもあり、付けっぱなしにしている囲炉裏の火に鍋を掛ける。熾火になっていた所に薪を追加すると、湿気ていたのか、白い煙が立ち込める。
鍋の中身が煮えるのを今か今かと春陽が待ちわびる。それを横目に、生の肝を齧り、魔晶石を噛み砕く。ガツガツと食べていると、春陽が物欲しげな視線を送ってくる。
「ダメだ。春陽の体は生ものを食べられるようには出来ていないのだ」
先んじて釘を刺す。本人は隠しているつもりの様だが、私に隠れて生肝を食い、盛大に腹を下したことを、私は知っている。小屋の近くの藪に走るまでも我慢出来なかったのか、小屋のあちこちに茶色の染みが出来ていたのを、毛皮の端材で拭って燃やした。気付かぬふりをしているのは武士の情けである。
寝ている春陽に探査を掛けて、寄生虫の類がいない事は調べた。少なくとも私の探査では一過性のものだと考えられるが、内心はヒヤヒヤしている。流石に懲りたのか、それ以来は生ものを食べていないようだが、春陽の好奇心は旺盛である。いつ気が変わるか、その時も無事で済むのか、私の心配の種は尽きぬ。
そんな私の危惧を余所に、漸く煮えた鍋の中身に塩を振って椀に取る。取った端から口に流し込む。椀が空になれば、またよそう。その繰り返しである。よく口中や舌を火傷しないものだと感心する。とりあえず本人が平気そうなので、窘める事はしない。こんな暮らしをしておいて、食事のマナーに言及するなど、野暮も良いところだ、と割り切っている。
まだ食べている春陽を余所に、私は手早く食事を終える。あまりに長い雨に、薪の備蓄も尽きそうになっている。玄関先に立ち、近くにあった倒木を雑に切り刻む。玄関の隅、もはや薪置き場として定着してしまった、に積み上げる。表皮に近い部分から水が滴って地面を濡らす。これでは、薪として使えるまでどれ程掛かるか、頭が痛い。いっそ、纏めて真空乾燥した方か早いだろうか、否や、あれは薪と一緒に取り込む空気が多いほど効率が落ちる。この量となれば、自然乾燥が一番効率的である。仕方ない、使う分だけちまちまと乾燥させるより他に手は無いようだ。
薪の備蓄が済んだら、先ずは居間と玄関を境する戸を閉める。そして同じく玄関の隅に並べてある甕の中身を確かめる。甕は春陽の身の丈よりも更に大きい。私など摑まり立ちでも上が見えないので、魔力尾の感覚が頼りである。兎に角と、蓋を開けると、途端に腐敗臭が広がる。その中に、先程の熊から切り出した毛皮を浸す。それとは別に、付け置いてあった中身を、魔力尾で確かめる。
感触から良い頃合いであろうという毛皮の一枚を取り出す。投げつけるように玄関先、雨の打ち付ける中に放り出す。そこには厚さ2cmほど、広さは畳2畳分ほどの、平らな岩が据えてある。そこに広げた毛皮を河から拾ってきた丸石で擦り上げる。毛の混じった赤黒い汁が何とも禍々しい。根気よく擦り上げていくと、毛の部分がごっそりと落ち抜けて、手触りの良い革のみが残る。打ち付ける雨水が洗ってくれるので、むしろ手間が省けて良い。毛の殆どが取れたことを確認し、もう一度雨水で良く洗う。玄関の中でバサバサと振って水気を飛ばす。飛んでいった水滴が薪に落ちて、少し悲しくなる。玄関を拡張するか、納屋でも作るべきだろうか。
そうした毛皮を居間の隅、囲炉裏から離れた位置で乾燥させる。梁から伸ばした綱で吊した竿には、何日か前に干した革が掛かっている。それらの中で充分に水気が抜けた物と交換する。
取り込んだ革を撫でてみれば、充分に柔らかく、僅かに油分を含んでしっとりとしている。これならば良い着物になりそうだ。
若葉のくれた助言は、我々の生活を変えた。何と言えば良いか、日々の生活が地に足が付いた、といえば良いのかも知れない。毎日毎日の食い物を集めて、食っては寝るだけであった生活に、どうすればより快適に過ごせるだろうか、と言った新しい観点が付け加わった。
ただ剥いだのみの毛皮を纏っていた春陽も、鞣した革で作った服を着るようになり、洗い替えが出来たため、清潔になった。床擦れの痕も今は綺麗に治り、気のせいかも知れぬが、発疹の類も減ったように見える。
今までは食えぬからと無視してきた様々な野草が、意味を持って知覚されるようになった。今日、穫ってきた籠の中にもある黄色に朱が差し込む花を持つ、背の高い草。葉の裏が白く、そうと区別しようと思えば容易く見付かる。これが紐を作るのに大層優れているのだ。先だってそれから縒っておいた紐と、熊の牙から削り出した針をもつ。革を魔力爪で裁断し、春陽の為の新しい服を仕立てる。上衣はやや大きめに作り、腰の辺りを帯で縛れるようにする。下衣は、最近になって足も伸び始めたので、踝に掛かるくらい、少し大きめに作る。
居間の隅で、チクチクとやっていると食事を終えた春陽が寄ってきた。
「トラー、今度は何を作るの?」
私の手元、とはいっても動かしているのは尾であって、手は動かしていない、を覗き込んでこう尋ねる。
「お前の新しい服を作っている」
私の返事に春陽は、なんとも名状し難い妙な顔をする。強いて擬音を付けるとすれば、ウゲッ、と言った所であろうか。眉と目尻は上がる反面、瞳はやや細められ、口は妙な角度で開かれている。
どうも好意的で無い様子である。
「どうした?嬉しくないのか?」
不思議に思って問い返す。
「嬉しいよー、そりゃトラが私のためにセッセと作ってくれるんだもの、嬉しいけどさー」
言葉とは裏腹に、後ろ手を組んでゆっくりと回りながら小屋のあちこちに視線をおくる。
「でも、いくらなんでも作りすぎだと思うよ」
はて。先ほど春陽が見ていた居間の壁を見る。壁材が見えなくなるほどに、梁に掛けられた無数の服。その一着一着が、異なるコンセプト、例えば動きやすい半袖であるとか、あえて毛を残した暖かい上着であるとか、である。同じ物を作っている訳でも無かろうに、作りすぎなどあるだろうか。
春陽の真意が読み取れず。とりあえず手を止めて、いや、実際は尾であるが。春陽を見る。
「そんなに作りすぎかな?」
私の言葉に春陽が頭を抱える。
「どーーみたって作りすぎ!何着あるのよ、全部来てる間に体型が変わるよ!」
「大丈夫だ、成長を見越して大きめに作ってある」
だから、安心して良いぞ、と言おうとしたのを遮られる。
「何年先まで作ってるの!?もう家の中が服でいっぱいだよ!」
何年先かと問われれば、春陽の嫁入りまでが目標である。女たるもの、輿入れには服と相場が決まっておる。その為には先々を見据えて準備が肝要だ。
そう言い返そうと口を開く直前。
「………トラはさぁ、裁縫が好きでしょ?」
やけに低い声で問い掛けられる。
意識の埒外からの質問であった。好き?私が?
困惑している私に春陽は更に続ける。
「だってトラは基本的に必要な事しかしないよね、獲物を獲り過ぎたりもしないし、山菜とかも余らせて腐らせたりしない。家だって簡単に増築できるのに、そのままだし」
便所も家に無くて不便だし、と小声で続ける。
「だからさ、服だけが異常だと思うの。なんでこんな何年も先の分まで用意してるの!?」
それって好きだからじゃん、じゃーん、ぁんん、ん。
狭い部屋の中で春陽の声が木霊する。この雨音にも負けぬ大音量である。
好き、そうか私は裁縫が好きなのであろうか。春陽の言葉を反芻する。なるほど、確かに私は必要な事しかしない、かも知れない。必要以上に凝ったモノはなにかあっただろうか。
アイツに見せた、獣の模型、虎の一文字が思い浮かぶ。意識せず見上げていた小屋の天井。竪穴式住居が主流のこの時代に礎石作りである。何百年先行しているのか。それに、軒先に樹皮を剥がれて置かれた木材を思い浮かべる。杉で普請したこの小屋も、そろそろ建て替えても良いとは思っている。先程、春陽が便所が欲しいと思っている事も知れたし、梅雨が明けて木材が乾いたら取り組むのも良い。後は栽培である。紐の材料となる草、名はカラムシと言うらしい。これと麻、それに毎年、実が収穫出来るという橅や水楢なども秋から冬の保存食として確保しておきたい。もっと言えば、いつかアイツと話したように、保存が利いて、連作障害がない、それでいて主食たり得るような作物を育てたい。その為には、治水も必要だろう。
考えに沈んだ私を見かねてか、春陽が問い掛ける。
「トラは裁縫が好きなんでしょ?」
その言葉に頭を振る。
「違う、裁縫以外にもしたいことが沢山、見付かった。梅雨が明けたら忙しくなるぞ。覚悟しろ」
その時の春陽の顔は、この上ないほと愉快であり、それからしばらくの間、私は思い出し笑いの種に困らなかった。




