35.電波猫と塩作り
小屋に暁光が差し込む。杉の木で普請された高い屋根から斜めに陽光が入ってきて、それが真新しい壁を明るく照らしていく。まだ生々しい年輪の浮かぶ板戸を、洗うように光りが舐めていく。熾火から登る、灰の混じった暖気が、光の中に仄めく影を燻らせながら、上部の吹き抜けに吸い込まれていく。
暖かい。
囲炉裏の熱が、或いは春陽の熱が、まだ籠もっているのか、夜陰の寒さを押し込むように、小屋の中は暖かった。傍らの春陽を見る。被っていた毛皮を蹴り上げたのか、板張りの床の上で大の字になって寝こけている。
前脚で、そっと毛皮を掛けてやる。
静かに戸を開いて縁側に出る。居間への戸を閉めた後で、雨戸を開け放つ。少し湿った、冷たい空気が流れ込んでくる。森の中の空き地にまだ朱さの残る日が注いでいる。朝露に濡れた草から、ゆらりと靄が立っている。気の早い野鳥が、遠く、近く、そこらここらで囀る。彼等は彼等なりの言葉で話しているのだろうか。
遠く南に山が見える。アイツの住処から少しだけ離れたここからでも、変わらぬ程に大きく見える。冠雪した山頂から、少し低い位置に虎の縞の様な黒地が見えた。恐らく、溶岩皺の浮き出た部分だけが、春の陽気で溶け出して、下が見えているのだろう。季節の移り変わりが、目で見える形で現れていた。
僅かに霞んだ春の空気のなかで、頂きを飾る雪原が柔らかく陽光を反射していた。
茂みの奥で草を踏む乾いた音がした。
どうしてなのかは分からない。何故か咄嗟にアイツが水瓶を担いで来たような気がした。その考えの愚かさに気付かずに視線を向ける。
そこにいたのは一匹の鹿だった。
栗色の毛並み。目元に黒い縞。こちらの様子を窺っているのか、耳は立てられて、毛に覆われた耳孔が覗いている。白い腹の毛が朝露に濡れて、僅かに茶色味を帯びている。黒曜石をはめ込んだ様な、艶やかな黒目に射抜かれる。
美しい獣だった。
思わず、見惚れてしまった。
新緑の、匂い立つ様な森の中。ぽっかりと空いた地の叢中に佇む、一頭の鹿。斜めに差し込む朝日に照らされて、陰影も鮮やかに立っている。春草を食っているのか、張りのある体つきは正に精悍と言うほか無い。
ほぅ、と吐息が漏れた。
常ならば、獲物の一つとしか数えぬ命。それが、神々しいまでの輝きの中でそこに居た。
しばらく、互いに見つめ合う。
黒き瞳は濡れたような色のまま、こちらをじっと見つめている。
私もまた、その瞳を見据えたまま、微動だにせぬ。
意識の外で稼働していた索敵系が結果を記す。全ての値がグリーン。ただの獣だ。魔力すら纏っていない。
それでも、目を離せない。
餌として必要という訳でもない。
害獣として追い払う必要も無い。
何ら交差することない、ただの偶然だ。
それでも、朝日に照らされた、その獣は美しかった。
どれ程、見つめ合っていただろうか。
やがて、その鹿はカンカンと甲高い音を鳴らして、森の中に去って行った。
私の備える全ての感覚器が、アレをただの獣と見做していた。
なれば、何故に目を離せなかったのか。その一挙手一投足に思わず目を奪われる。
或いは。あのような獣をこそ、山の神と呼ぶのかも知れぬ。益体もない考えが、脳裏を過った。
小屋の中から春陽の泣き声がする。朝飯の支度をせねばならぬ。私は縁側から小屋に戻る。
「今日は海に行こう」
朝餉の最中のことだ。開け放した戸から光りが入る囲炉裏の傍。与えられた椀の中身を掻き込む春陽に、そう切り出した。
流し込む様に一杯目を平らげると、自分で鍋から次を盛る。それに匙を突き立てながら、春陽は答える。
「いいよ」
一言、答えた後はまたしても掻き込むように飯を食っている。昨日の教訓から多めに作ってみたのだが、この調子ではまだまだ食い足りないのかも知れない。
それを見ながら、傷みやすい腸に齧り付く。居間の天井に拵えた乾燥棚にも載せられぬ内蔵の類が、私の朝食だ。最近の魔力消費から考えれば、昨日の獲物を全て食っても足りぬのだが、春陽の食いっぷりを見ていると、それだけで満腹になったように感じる。それでも、まだ張りのある肝に齧り付く。ガツガツと貪るように食事を終える。鍋の中身を全て胃に収めた春陽が満足そうに背を伸ばす。そのまま、倒れるように仰向けに寝そべる。
「なんで海に行くの?」
視線を天井に向けたまま、気怠げな口調でそう尋ねる。恐らく、腹が満たされて眠気を感じているのだろう。二度寝させても良いのだが、だらしない姿がアイツを彷彿とさせて、何だか嫌な気持ちになった。強い理由はないが、面倒を見ると決めた以上、春陽にはしっかりと育って欲しいのだ。少なくとも、昼まで寝癖を付けている様にはなって欲しくない。
「塩を作りたいのだ。塩で味付けが出来れば飯も旨くなる。それに、少し確かめたいこともあるのでな」
「ご飯が美味しくなるの!」
ガバリと起き上がってこちらを真っ直ぐに見つめる。眠たげだった目元を見開いて、瞳の中に燦々とした光が見える。
釣れたな。と思った。
背中に春陽を乗せて、河原に降りる。春陽が不思議そうな顔をしている。
「なんで河に来たの?河の水は塩っぱくないよ?」
良い質問である。目的も分かっているし、ただ連れ回されている訳では無く、自分の頭で考えている。この子は本当に賢い、と思った。
「春陽は塩の作り方を知っているか?」
それくらいは知っていると言わんばかりに胸を張る。
「海の水から作るんだよ!だって海の水は塩っぱいから!」
元気いっぱいである。頼もしい限りだ。
「春陽は物知りだな、その通りだ。それでな、海水を汲むための器が必要なのだよ」
そこまでは考えていなかったのか、少しキョトンとした表情を浮かべている。その間に尾を展開、適当な石を切り出して、甕を4つ程つくる。その様を見ていた春陽は、やっと得心がいった様で、その目を輝かせる。
「トラは壺を作りに来たんだね!家にはないから」
そうだよ、と答えてやりながら、切り出した甕を確かめる。水漏れもないし、火に掛けても大丈夫そうである。
得意げな春陽はそのままに、作り立ての甕を尾で掴んで走る。今度こそは海に向かうのだ。
「うわぁーーーー」
滑空している。春陽があまりにねだるので、河川敷から小屋に戻った後、近くの巨木から西の海に向かって飛んだ。地表までは凡そ30m。巨木の梢が顔に掛かる所もあるが、モコモコとした森の緑の随に、広く海が見える。
僅かに霞んだ春の青空の下、深い青を湛えた海が見える。まだ昼にもなっていない。太陽が背中を照らす中、視界の中心に海からの光の反射が綺麗に見える。耳元で逆巻く風、春陽の歓声、背中に感じる重み。その全てが心地よい。
事前に強固に形成した魔力膜の翼は、以前の様に剥がれ落ちる事も無く、確かに私たちを支えてくれる。春陽が喜ぶだろうか、と不必要な旋回を幾度か重ねながら、海岸に着地する。白に、少しだけ褐色の混じる砂が満ちた、美しい浜辺だった。風も弱いためか、波も高くは無い。透き通るような海水が、春陽の踝くらいの高さの波となって、打ち寄せていた。
予想していたよりも遙かに広い砂浜が広がっていた。飛んできた方向、東に目をやると20mはあろうかという高い海岸段丘を成している。考えなしに飛んで来てしまったが、戻るのには難儀しそうだ。
地面に降ろした春陽が歓声を上げる。海など見慣れていたかと思ったが、どうなのだろうか。或いは、先ほどまでの興奮に浮かれているだけなのかも知れない。波打ち際で足を海に浸けながら、パタパタと走り回っている。しばらく見ていると、砂に足を取られたのか、盛大に転ぶ。全身をずぶ濡れにしながら、私を呼ぶ。
「トラー!一緒に遊ぼー!」
「いや、私は水は好かない。それよりも塩を作る準備がある」
浜辺からヒタヒタと陸を目指す。小高い砂丘の上には、松の木が多く自生しているようだ。それらを魔力爪で刈り取って、薪を作る。
しまった。五徳がない。小屋に戻る途中で持ち出そうと思っていて忘れていた。
はぁ、とため息をつく。
春陽のせいではないが、春陽のせいである。海に行くなら飛べと、激しく急かされた事を思い出す。この所、春陽に振り回されっぱなしで、ちょっとしたことでの物忘れが多い。
人の親という者たちは、いつもこの様に子に追われているのであろうか。猫とは比較にならぬ。春陽に比べれば我が子らは何と手の掛からぬものであったか。
ともあれ、何か甕を固定する物を探さねばならぬ。段丘崖の構成物でなにか使えそうな物は無いだろうか。
藪と崖錐で覆われた崖の表面を、魔力爪で切り飛ばす。
露わになった地層。薄い褐色に所々、白く縞が入っている。少し近付く。日に照らされて陰影の強調されたそれを仔細に観察する。かなり細粒な粒子が細かく成層している。それは極小さい長石や石英であろうか、僅かに赤味を帯びているのは若干の瑪瑙が混じっているからか。
改めて全体を見渡す。所々、水平方向に亀裂が走っている。その部分をみれば、そこは回りと比べても僅かに大きな砂が多い部分の様だ。
なるほど、層理面に沿って亀裂が入っているのか。カリカリと爪で引っ掻く。岩の表面に白い筋が描かれる。しかし、これ程に硬ければ、即席の五徳としては十分であろう。先ほど切り崩した崖錐から適当な大きさの物を幾つか選ぶ。乱雑破に組み合わせて、即席の囲炉裏を作る。
囲炉裏の中に、松の木の薪を放り込む。最早、お馴染みとなった真空乾燥と断熱圧縮で火を付ける。
伸ばした尾で甕の1つを持ち上げ、海水を汲む。組み上げた囲炉裏の上に甕を置いて、一息つく。もう、後は海水が煮え立つまで待つのみである。改めて囲炉裏の材とした石を見る。どこかで見たと思っていたが、これは春陽の村の広場にあった泥岩と同じものに見える。層理も明瞭な褐色の泥岩は、大きさこそ違えど村で見たものと同じに見えた。なれば、ここから集落まで似たような地層が分布しているのか。
南に位置する山を思い出す。足繁く通った溶岩があの山を給原とするならば、その基盤を成すのはこれらの泥岩ということだろうか。大凡の分布から南北系の走行だろうと当たりを付ける。そうなれば、もしくは。
考えに耽る随、背後、音響探査に異常。あまりにも対象が近い。僅かに音源から身を捻り、その対象を目視する。
水球だ。
詳しく言えば、水遊びに飽きた春陽がこちらに放った海水の塊である。身を捩って躱す。
「水は好かぬ、と言ったと思うが」
我ながら低い声が出た。
春陽は満面の笑みである。
膝まで海水に浸かり、両手を浸してこちらに水を掛ける気が満ち満ちている。
予告なしの水の投擲。
躱す。
砂地に肉球の跡が深く穿たれる。
ほぅー。そういうつもりであるか。
魔力膜を形成する。
展開した魔力膜は春陽の目前。砂と海水が入り交じる深度まで。
一気に巻き返す。
砂と海水が春陽を襲う。
察していたのか、上半身を低く倒し、それをやり過ごす春陽。既に着物はずぶ濡れである。
全く気にする様子はない。
誰がそれを洗うと思っているのだ、と怒りが湧きたつ。そもそも替えの着物も無いのだ。塩の浮いたザラつく着物で寝るつもりなのか。この阿呆が。
思わず滾った激情が魔力膜の操作にも顕れたのか、続く2撃目は思った以上の規模になる。春陽はずぶ濡れの砂まみれになり、浜辺に薙ぎ倒された。顔から足まで、海水と砂粒に塗れている所に、波が掛かり、目鼻に海水が入る。
後から思い返せば、の話である。齢にして十にも満たぬ童相手に、やり過ぎたとは思うのだ。いやなに、言い訳では無いが、いくら何でも悪戯が過ぎたと言うべきか、或いは私が疲れていたと言うべきか、もしくは、やはりアイツの命を奪った春陽に、未だに名状し難い感情を抱いていたのかも知れぬ。
結果ほど雄弁なものは無い。春陽は砂と塩水に塗れて、ギャン泣きである。私は陽光に洗われて、自慢の金毛が浮き立つようであった。
我ながら大人気ないと思った次第である。
囲炉裏の傍に春陽を座らせる。海水で洗われて、砂の大部分は落ちているが、細かい砂があちこちに付いている。それを尻尾で叩き落としてやる。
まだ半べそをかいている春陽を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
甕の中でコポコポと海水が沸く音と潮騒、悲しげにも聞こえる風の音、メソメソとしている春陽の泣き声。天気はこれ以上無いほど良く、浜辺は涼しく過ごしやすい。だと言うのに、なにやら途方も無く惨めな気持ちであった。
しばらく焚き火に当たっていると、春陽の服も乾いてきた。海水を煮ている甕の様子を見る。半分ほどが蒸発していて、底の方に透明な結晶が出来はじめている。これは、まだまだ時間が掛かりそうである。傍らに置いてあった予備の甕に海水を汲んで、火に掛けてある甕に足す。薪も追加してくべていく。
やることが無くなってしまった。
傍らの春陽の様子を盗み見る。
なにやら思い詰めたような様にも見える。悲しみか、寂しさか、どちらとも取れるような、兎角、哀愁を誘う表情である。
どうしようか、と考える。謝るべきだろうか。しかし、私は水に濡れるのは好かぬ。そこを犯したのは春陽である。誰かの嫌がることをすれば、しっぺ返しを食らう。これは生きていく上でも重要であろう。
では、やはりやり過ぎたことが問題であろうか。ただ水を跳ねた子供に、転ぶ程の大水を当てたことはやり過ぎたかも知れない。どうすれば良かったのであろうか。
我が子らを思い出す。私の尻尾に噛み付いた時や、「家」の食料を盗み食いしたとき。
問答無用である。首根っこを噛んで放り投げ、顔面に爪を立てた。ミャウミャウと泣いた後に舐めてやることはあったが、謝るなどしたことがない。親離れした後は、他の船で猟師となったと聞いている。それ以上は無い。
それに比べて人の子は何と面倒であろうか。
はぁ、と重いため息が出た。
勝手に逝ってしまったアイツに悪態の一つもつきたくなる。
生にエンドロールはない。何か障害を乗り越えても、生きていく限り、何かしらは起こる。それに大小はあるとは言え、これが終わったからあとはめでたしめでたし、とはなかなか行かない。こんな調子で、春陽を里に帰せる日は来るのだろうか。もしそれが成ったとしても、その後はどうするのか。あの里の食料事情の改善もしなくては、里に帰った春陽が直ぐに餓死しました、ではアイツも浮かばれまい。
思考の裏で魔晶石が瞬く。紫瞳の猫がオレを忘れてくれるなよ、と念押ししてくる。
「うがああああ」
思わず前脚で頭を抱えた。
そのまま砂浜をゴロゴロと転がる。
それを春陽が驚いた表情で見ている。
当たり前である。私だって春陽が急に奇声を上げながら、転がり出したら同じような顔をするだろう。
それでも止められぬ。
ゴロゴロと全身に砂を巻き上げて転がる。
日の光に洗われて暖かな砂の上で全身を伸ばす。
春陽と、海と、砂浜と、空がコロコロと視界を流れていく。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
どれ程そうして転がっていただろうか。新しい遊びと勘違いしたのか、春陽まで私の傍で転がり始めた。
春陽の着物がまた汚れていく。
もう知ったことか、とそう思った。




