30.電波猫と涙の代わり
娘、否や、春陽を引き摺る。
凄惨な血溜まりから、陽光の輝く中へ。
脱力した体をズリズリと摺ると、粗末な着物が土で汚れる。
先ほどまでの狂騒を微塵も感じさせない無垢な寝顔と相まって、外遊びに疲れた童のようにも見えた。
木陰まで移動させる。目を覚ましても、眼前にはただ、閑かな林のみが映るように。
崩れた小屋を漁る。
屋根や壁の残骸を、それ以上は傷つけないように分けていく。
土器の破片が見つかる。水瓶を手に、足を引き摺りながら川に降りていくルイオディウを思い出す。
粗い造りの椀を見付ける。薄暗い小屋の中、静かに湯を飲むルイオディウを思い出す。
狼の模型を見付ける。アレは何か、これは何かと質問責めに会い、辟易していたルイオディウを思い出す。
透かし彫りの欠片を見付ける。呆れた、寝ぼけた、静かな。様々な声音で、私をトラと呼んだルイオディウを思い出す。
灰塗れになった毛皮を見付ける。ルイオディウが寝床にしていたものだ。
口に咥える。
春陽の傍らに戻り、背中に敷いてやる。
毛皮から、ルイオディウの匂いがする。
涙が溢れ出た。
アイツは馬鹿だと思った。
速く走れないクセに、手足がもげても治せないクセに、春陽を抱き締めて、どうしようと思っていたのだ。
私は泣く。
きっと普通の猫は泣かないだろう。
まるで人のように、涙を零して、仔猫のようにミャウミャウと泣く。
もっとちゃんと話しておけば良かった。魔力膜を張れていたら、あんな血溜まりにならなくても済んだのかも知れないのに。
人の子があんな風に暴れるなんて思わなかった。泣きグズる子供が振り回すには、魔力は大きすぎる力だった。
悲しかった。彼がもういないことが、どうしようもなく悲しかった。
「家」が沈んだ時よりも、ボースンに会えなくなったときよりも、蛇と別れてこの地に着いたときも。
そのどれもが、今ほど悲しくは無かった。
きっと私はおかしくなってしまったのだ。
定命ならば誰だっていずれ死ぬ。
形あるものはいずれは朽ちる。
そんなことは知っている。
知っているはずだった。
守れると思っていた。
あの小さな小屋で、そのうち自然に春陽が目を覚まして、ちょっとずつ生活を豊かにしていって。
そんな事を勝手に期待していたんだ。
涙が溢れて止まらない。
泣き声もだんだん大きくなって、どうしようもない。
背後で春陽が起きる気配がした。
もうどうでも良かった。
アイツに頼まれた。春陽のことを。
でもそれを思い出すと、アイツの最後の顔も一緒に浮かんできて、更に悲しくなった。
春陽がキョロキョロと辺りを見渡す。
魔力の気配は感じない。
泣き喚く私を見ている。背中に視線を感じる。
いっそ私も挽肉にしてくれれば良いのに。
そんなことを思って、でもそしたら春陽が一人になってしまって、きっとアイツが悲しむだろうと思って。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな気持ちが全部、涙になって出て行ってしまうようで。
頭を撫でられた。
傍らに春陽がいた。
至近で見た春陽の瞳は、アイツによく似た黒色をしていた。
アイツを殺したクセに、無垢な笑顔で私を撫でる。
細めた目がアイツに似ていて、どうしようもなく悔しかった。
抱き締められた。
四肢をバタバタさせても逃げられない。
こんなに嫌がっているのに、あどけなく笑っている。
背中から春陽の温もりが伝わってきた。
それは、どこかで感じた誰かの体温によく似ている。
涙の分だけ空いてしまった隙間に、その暖かさが染み込んで、微睡むような心地になった。
唐突に分かった。
アイツがどうして春陽から逃げなかったのか。
きっと、泣いている誰かを抱き締めることに、理由なんて要らないのだ。
その誰かが、大切であればあるほど。
自分の血を流しても。
その涙の代わりに、何かを伝えてあげたいから。