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電波猫のお仕事  作者: おばば
石器時代編
19/128

19.電波猫と紫色の月

 なにも見えない、なにも聞こえない。

 真に暗黒というものがあるとすれば、このような所をそう呼ぶのだろう。

 常ならば有象無象のノイズを拾う感覚器官の総てが、何の信号をも受け取れていなかった。

 

 我が身が無限に拡散していくような感覚がする。

 他の何者の実在も感じられないこの場所では、自分の領域すらも規定出来ない。

 そのまま、水に落とした一滴の墨が、淡く消えていくように、自分も消えていく。

 微睡むように、どこまでも希薄になって、やがて自分では無くなってしまう。

 

 これが、死というものか。


 存外に悪くない心地であった。

 否か、総てが遠く色褪せて、あらゆる由縁が解かれた先にあるのは、束縛も解放も無い空虚な自分だった。

 悪くは無い、だが良くも無い。

 ただひたすらに凪いでいる。


 ………おい………


 凪いだ水面に一粒の砂が落ちたようだった。

 呼ぶ声がする。いや、これは声ですらない。ここには私しかいないのだから。


 ………おい………


 呼ばれている。近くからか、遠くからか、それすらも分からないこの淵で。


 気が付けば、己の体が見えた。

 暗い地の上に、四肢を持って立っている。

 遥か頭上、暗闇に紫色の月が輝いている。

 何者か、他者の存在が私を縁取っている。


 それは、暖かい寝床から抜け落ちたような、不安を伴っている。


 ………おい、こっちだ………


 見れば足下の深淵は、浅い湖面の様だった。踝を濡らす確かな湖水。遠く頭上に輝く紫色の月が、僅かに揺らめく水面を淡く映し出す。

 その幻影たる月光の下、一匹の猫が我を呼ぶ。


 月下にも明るい金毛。頭頂から腰に至るまで、横に入る黒い縞。ゆるりと浮かせた長尾が宙に描くは弦月の有り様。

 鏡に映す我の様だと、私は思った。

 ただ、その瞳の紫色を除けば。


 盃に似た岩の上、ゆるりと横たわるその体。

 暗闇に輝く紫色の瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「よう、またあったな」


 そう言い放つ猫は、瞳を僅かに細める。何が面白いのか、豊かな毛並みの尾がゆっくりと左右に振れる。


 自然と前脚に力が入る。尾が逆立って、前傾姿勢をとる。

 意識の外でグルグルと喉が鳴る。


 私の姿に喉の奥を鳴らすように笑うと、尾を一振り。紫瞳の猫の向かい、丁度、我らの体長程の間をおいて地面が盛り上がる。

 乗れ、と視線で促される。

 精一杯の虚勢を張って、それに乗る。

 どのような原理やら、湖面から迫り上がったそれは、露ほども濡れていない。

 つるりとした岩肌に横になり、相手の瞳と真っ直ぐに目を合わせる。


 後ろ毛が逆立つのを感じる。意識しないように、蓋をするように、それを宥めながら、それでも尚、圧倒されている自分を自覚する。未知のモノに対する好奇心を上回る、これは畏怖とでも呼べば良いのだろうか。

 それは今までに感じたことのない、畏れだった。


「そう、カッカするなよ。少なくとも俺はお前をどうこうするつもりは無い。というよりもどうにも出来ない」


 一拍置いて、まずはそこから始めようか、と独りごちる。


「あの月を見ろ」


 頭上に向かう視線につられて、視線を上げる。そこには真円を描く紫色の月。その周りには一つの星も無い。その事が、ここが条理の埒外に属していると、そう唆すようだった。


「美しい色をしている」


 怖気すら感じている私を置いて、彼は陶酔するようにそう言った。

 私はただじっと、その言葉の続きを待つ。

 なんだ、これは。


「あの月は、お前が魔晶石と呼ぶものだ」


 猫は語る。

 神託を授ける古の神の如く。


「あれほど美しい色は、なかなかない。獣どもに取り込まれたあれは、程度の差さえあれ、血と肉に混じり合って赤味を帯びるものだから」


 彼は頤を下げ、再び私をみる。

 脳裏に、かつて見た魔晶石が蘇る。

 熊の肉より取り出したアレは、熟れた石榴より尚深い血紫色をしていた。


「余程、お前の使い方が上手いのか、もしくはお前がアレを嫌っているか、どちらなのだろうな」

 

 思考が上滑りしている。

 魔晶石、私の使い方。アレが私の魔晶石と言うことか。命を賭して灼いた、その筈だ。何故。

 こちらをみる猫の瞳が細められる。

 余計な事を考えるな、と言外に命じられる。

 猫の瞳が下を向く。一言も無く、しかし明確にそちらを見よ、と言っている。

 下がる視線が水面を捕らえる。

 月明かりをボンヤリと反射する水面が、俄に波立つ。

 再び凪いだそこには、焦げた毛玉を抱いた若葉の姿。

 いや、アレは私だ。


「アレが今のお前だ。単刀直入に言うが、このままだと私もお前も共倒れだ」


 全身の穴という穴から血を垂れ流し、体表は黒く焼き焦げている。半ばまで閉じた瞳はただ虚空を見つめ、口腔から垂れ下がった舌から、血が伝っている。


 そうだ、私は死んだ、

 自らの意思で、生あるものの総てを喰らおうとするナニカと共に。

 これ以上、差し出せるものなど何も残ってはいない。


 御しきれぬ。


 そう思うと同時に、目の前に現れる鉄格子。

 再び、身に宿した禁忌を起動する。

 否や、起動しようとした。

 コマンドが反応しない。


 初めての経験だった。

 改めれば、感覚器官の総てが無反応だった。

 サスペントですらない。その存在自体が消失したかのような無反応。

 脳裏に焼いた簡易催眠に狂ったようにコマンドしながら、否や、ソレすらも反応が無かった。


 恐怖が虚勢の殻を剥く。

 四肢がもがれたにも等しい無力感。

 この目が捕らえているものの総てが信頼出来ない、底の無い畏れ。


 分からない。ここは何なのか、これは何なのか。

 分からないモノは恐ろしい。

 自分の命を対価にしても、止まらぬナニカが悍ましい。


 恐怖が雷撃のように身を貫いた。

 強すぎる感情を抑制してくれる簡易催眠は、既に無い。

 剥き出しの感情、その奔流。

 

「やめろ、其方に行くな」


 偽りの月と同じ色の瞳。その主が言う。


「言っただろう、このままだと共倒れだと!しっかりしろ。制御を手放せば、本当に死ぬ」


 分からない。

 言葉が、その意味が。

 真っ黒な恐怖に塗り潰されて、なにも理解が及ばない。


「くそっ、イキモノとはなんと面倒な」


 焦り。

 どこかでせせら笑う自分がいる。

 自分と同じ、恐怖に身を竦めるだれかを見て、安心している醜悪な自分。

 ソレすらも呑み込んで、意識が落ちていく。

 暗い穴。暖かく、そして二度と戻れぬ底無しの。


 直感する。

 これが、これこそが死だ。


「契約は後回しだ、今すぐ戻れ。くそっ、しっかりしろ!」


 紫瞳の猫が叫ぶ。

 その足を私に伸ばす。

 恐怖に取り憑かれた私は寸分ほども動けない。


 お互いの金毛が重なり合う。

 スルリと体に潜り込む。

 

 紫色の月が落ちてくる。

 その輝きが、私の前に広がる暗い穴を照らし出す。

 そして、視界が埋め尽くされる。



 それは、確かに美しい月の光だ。



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