15.電波猫と早春
厳しく冬もようやく明けたのか、雪ではなく小雨がパラつく季節になった。遠く見える山脈にも、残雪が縞のように残るものの、晴れた日には山腹の溶岩の黒さと冠雪の白さがはっきりと分かれて、人界と神世を分かつ境界の様にも感じられる。
生きる物にとっては、最も厳しく季節とも言えた。春の恵にはまだ遠く、越冬出来ずに数を減らした獣を追うにも、雪解けの泥濘に足を取られる。ようやっと捕まえた獲物であっても、冬の間に脂肪の殆どを使い果たした骨と皮、食べる所など、骨の中の髄しかない、そんなこともままあることだ。
それでも、雑食の狸や草食の鹿などはまだましな方で、狐や狼などの肉食性の獣たちは見るからに痩せていて、いっそ気の毒な程だ。
雪割草が芽吹くころ、その手の知識があれば、雪中に埋もれた山菜を採って食いつなぐことも出来ようが。そういうものは得てして、より高度な採集者によって採られ尽くすのが関の山である。
「ルイオディウ、トラ」
最早、日課となった挨拶をして、しばし。またしても、寝癖を付けた彼が出てくる。
「おお、トラか。今日の獲物はデカいな」
「雄鹿の大きなものが獲れた。解体を頼みたい」
任せろと言い残して、彼は塒に入る。再び出てきた時には手に石器を持っていた。ガラス質の溶岩をたたき割ったときに生ずる破片から、手に馴染む物を持ってきたのであろう。切れ味は大した物だが、あっさりと欠けるので、頻繁に交換している様だ。磨製石器の作り方でも教えた方が良いのだろうか、いや獣の肉を裂くならばアレの方が幾分かはマシかも知れない。
そうなると、鉄器や青銅器になるが、鉄はともかく青銅の作り方など私でも分からない。つまりはどうしようもない、ということだ。
彼が獲物を解体する様をボンヤリと見つつ、しばらく考えていた事を尋ねてみることにした。
「私はそろそろ出掛けようと思う」
彼は作業の手を止めずに問い返した。
「なんだ、今日は臓物はいらんのか?お前が喰わないなら俺が貰ってしまうが」
その背中を肉球でポスリと叩いて言う。
「違う。もっと人が多いところに移るという話だ」
石器が皮を裂くザラついた音が一瞬止まった。丸まった背中は、最初に出合った秋の頃から、幾分かは肉が付いてきていた。
「正直、お前さんには感謝してるよ。最初に襲われたときはエラい化け物に出くわしたと思ったが、その後はせっせと飯を運んで来てくれたしな」
ほれっ、取り出したばかりの肝をこちらに放る。私はそれを口で受け止めて、まだ微かに体温が残る肉に食らいつく。
「お前さんが居なければ、俺は冬を越すことも出来ずに野垂れ死んでいただろう。そろそろこの足でも、野草やなにかを採れる時期だ、世話になったな」
「いや、私もルイオディウのお陰でなんとか話せるようになった。感謝している」
私の答えに彼はケタケタと笑いながら、あの質問攻めから解放されるのか、と独りごちた。
しばし、一人で笑っていたが、ふと真剣な表情に戻ると、寒さにかじかんだ指に呼気を当てながら、独り言のようにこう言った。
「東の尾根からみえる河を下っていくと良い。海辺に俺が産まれた集落があるはずだ。悪いが俺のことは話さないでおいてくれ」
その後は寒い寒いといいながら、手早く内蔵を選り分けていき、後は俺の分だと言わんばかりに、解体途中の鹿を小屋にしまってしまった。
「改めて礼をいう、トラは恩義を忘れない。また獲物が獲れない冬には戻る」
「いいんだよ、生きていくのに誰かの手が必要になったら、それが死に際というやつさ。そんな俺がお前さんに何かを授けることが出来たことは幸せなことだったと思う」
お陰で美味い肉にもありつけたしな、と冗談めかして彼は言った。
「ではまた会おう、あと、土産を小屋の裏に置いておいた、腐る前に処理しておいてくれ、では」
私はそう言い残して彼の塒を去った。去り際に、山と積まれた獲物を見た彼の驚く声がして、なんだか奇妙なほどに心が暖かくなった。きっと私に魚をくれていたボースンもこんな気持ちだったのだろうか。誰かに何かしてあげられるのは、それだけで幸せなことだと、そう思った。
ルイオディウの言っていた通り、東の尾根を登った所からは、北に流れる河が見えた。川べりは天然の河川堤防が出来ているが、雪解けの水量に押し流されたか、あちらこちらで堤が切れていて、雪原に黒い泥地を作っている。
これは尾根沿いを辿った方が速いだろうか、幸いと歩みを遮る下生えの類は残雪の下である。雪上に足跡を残し、時に跳ね上がる笹竹の類に驚かせられながら、海岸線が見える頃には既に日は傾いていた。




