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電波猫のお仕事  作者: おばば
鉄器時代編
113/128

113.神獣と秋の夜長

 悩んでいた。

 春陽も寝た深夜のことである。戸外からは鈴虫の声が涼やかに響いている。魔力糸越しに確認する春陽の論文の山。それらに不備を見付けて、朱墨を取り上げ。

 止めた。

 魔力糸の接続を切る。

 広くは無い家の中を足音を消して移動する。音も無く襖を開けて、春陽の部屋に忍び込む。僅かな月明かりの下、感度を上げた視覚には、涙の痕の残る目尻。 

 軽く舐め上げる。春陽が擽ったそうに寝返りを打つ。

 どうしたものかのぅ。


 戸外に出る。

 秋の夜は、空気が澄んでいる。家の周囲には稲刈りを終えた田園が広がり、涼やかに風が吹き抜ける。畦に残る薄がゆらりゆらりと、月明かりの下で揺れている。

 頭上に目をやれば、真円に近い白い月。

 彼処に至る、か。春陽の涙を呑んでも、それは行う価値があるのだろうか、とそんなことを考えてしまう。

 一旦、動き出した思考が惰性で流れていく。

 学院に合格者が出た事は喜ばしい。しかし、それが春陽であることが、私には辛い。研究者とは、茫漠な原野を拓く、修行者のような者だ。その薄い踏み跡を多くの人が歩き、道が作られ、街となって初めて、先人の業績が認められる。それまでは、ただひたすらに孤独と苦痛に耐えつづけ、己を叱咤激励し、前に進まなくては行けない。誰も理解などしてくれない、褒めてもくれない。人は自分の理解できないモノを褒められる様には出来ていない。

 そこにあるのは、未知のモノに対する畏怖と畏敬である。

 それはまるで、一種の化け物に向けられるような。


 頭を振る。

 それでも思考が止まってくれない。今の春陽に向けられる、幼子が背負うには大きすぎる期待と尊敬。それに押し潰されて泣いている春陽。それを労うことも出来ない自分。だって、一番近くで春陽の仕事に赤を入れているのは私なのだ。春陽の論文の不備を指摘する度に、まるで肉を叩くような感触がする。その涙を見れば、血の臭いすら感じられるようだ。

 これが、春陽でさえなかったら。

 どうして春陽なのだ。せめて、支えてくれる家族がいれば良いのに。査読者がバカなのだ、と愚痴を零せる相手がいれば良いのに。或いは、生の酸いも甘いもかみ分けた者であれば、私のどんな叱責も幾分かは受け止められただろうに。

 選ばれてしまった。選んでしまった。その行く末を想像すらしない内に。

 泣きながら眠る春陽に、神代の巫女を幻視する。あの春陽も、父母を思っては泣いていた。自分ではどうしようも無いことで、重荷を背負っていることすら、重なって見えてしまう。

 胸が潰れそうだ。

 どうして、私は私の愛し子を幸せにしてやれないのだろうか。何故、自らの手で我が子を傷つけなくてはいけないのか。

 

『それが、我らに必要だからだろう』

 私の循環する思考を読んだのか、紫月が答える。

 反駁する余地も無い。明確な理由だ。

 だが。

 私の中の魔晶石から、溜め息を付く気配。呆れた様な紫月の声が脳裏に響く。

『………お前は肝心な時に阿呆だな。あの春陽を助けられる存在が自分しかいないと思い込んでいるから迷うのだ。そうでは無いだろう。今回はお前の順番では無い、それだけのように俺には見えるがな』

 それは、一体どういうことだ。

『良く思い返せ。あの娘の襁褓を取り替えていたのは、お前だけか?』

 その一言は雷撃の様に私を貫いた。


 翌日。

 言葉少なく春陽と朝食を摂る。食事を終えた春陽が小さく、行ってきます、と言って出て行った。

 その後ろ姿を、祈るような気持ちで見送った。

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