111.神獣と二人の春陽
角の一つが直角である三角形に於いて、直角を構成する二つの辺の二乗の総和は、直角を構成しない長辺の二乗に等しいことを証明せよ。
以上が、入試として出された問題の一つであり、春陽が証明した三平方の定理である。入試にはその他にも、9つの証明問題が出題された。それらは選択制であり、受験者は全十問の内の一つ以上を選択し、証明することが求められる。逆に言えば、一つでも解くことが出来れば、合格となる。そして、創立から3年を経て、初の合格者が春陽である。
「厳正なる審査の結果、飽つ海の春陽を碩学と認め、本院への入所を認める」
藍を基調とした厳かな衣装に身を包んだ朝雲が、春陽に入所許可証を手渡す。緊張故か、手足をぎこちなく動かしながら春陽がそれを受け取る。その瞬間。
割れんばかりの拍手が講堂に轟いた。
その余りの音量に春陽が驚き、飛び上がる。着地の際に、なにか踏み付けたか、そのまま蹈鞴を踏むようにして。
転んだ。
見事な程の転倒である。頭から床に落ちる。
思わず、来賓らが手を止める。
唐突に訪れる静寂。それを貫く様に。
「………ぅぅ、うえええええええ!!!」
春陽の泣き声が木霊した。
「………まぁ、なんだ。あまり気にするな………」
田園の中を通る道を、春陽を背負ってゆっくりと歩いて行く。石畳が敷かれた道は、線路の傍を通るように真っ直ぐに進む。昼前には終わった式典の後、泣きついて来た春陽をあやしながら、ゆっくりと家を目指して帰路についた。
未だにぐずぐずと泣いている春陽の頬を一舐めする。涙と鼻水で微かに塩の味がする。
「………何というか、周りの期待は大きいのだが、春陽は入試を解いた事が凄いのであって、ああ言った式典で上手く振る舞う事を期待されている訳でもない。だから、最初は上手くいかないこともあるだろう」
何であろうか。自分の言っている事がグルグルと循環している気がする。何度と無く、泣く子をあやしてきた。それなのに、いつもいつも、どんな言葉を掛ければ良いのか分からなくなる。
子を育てると言うことは、本当に難しい。
言葉の継ぎ穂を失って、ふと押し黙る。
既に日暮れ間際になった、夕焼けの空をカラスが飛んでいく。
カァカァ、と姦しく飛んでいく様をボンヤリと見上げながら、歩いていると、ふと、背中の春陽が動いた。
モゾモゾと毛皮の中に顔を埋めたまま、頭を動かす。これは顔を拭っているのかな、魔力膜なので汚れはしないが、心情としては止めて欲しい所である。
遥か昔、まだ人が獣を追う生活をしていた頃。背に負った子と同じ名前の女の子を、今と同じ様に背に負っていた。そんなことを思い出す。
「………春陽が産まれるずっと前だ………」
感傷が、口をついて転び出る。
「今は田畑が広がるここは、狼や熊、狐や狸などの様々な獣が住む、それはそれは鬱蒼とした森だったのだ」
目を瞑る。記憶を辿れば、あの噎せ返るような森の精気すらも思い出せる。
「そこで人は獣を追って生きていた。毎年、毎日の様に人が死んだ。獣に食われる者、山野に入って怪我をする者。そして何より、食い物が無くて餓死する者。特に冬は食い物が無くてな。老人や赤子が何人も死んでいった」
目を開く。脳裏に浮かんだ森は、現実の田畑に塗り潰される。近くの集落から、子供たちの遊ぶ声が届いてくる。この拓かれた土地では、子供たちだけで出歩いていても、獣を恐れる必要が無い。
「………私はそれを何とかしたいと思った。飢えて死なずに済むように、弱い者でも生きていけるように。そんな風にしたいと思った」
二人の春陽の顔を思い出す。そして何より、あの雪化粧が施された小屋の中。左足を引き摺りながらも穏やかに暮らしていたアイツ。それでも、最後まで家族を、里を思っていたアイツを。
「私がこの地に来たばかり頃にな、助けてくれたヤツがいたのだ。私に言葉を教えてくれて、人が食える物を教えてくれて、子供のあやし方を教えてくれて。色んなことを教えてくれた」
癖のある黒髪、烏の濡れ羽色の瞳。里からは忌み子とされ、排斥されながら、それでも誰かの為に生きられたアイツ。
「私が今こうして、人の為にとアレコレとしているのは、もしかしたらアイツへの恩返しなのかも知れない」
ポツリと、そんな言葉を呟いていた。
気が付けば、足が止まっていた。空を眺めていたはずの視線は、いつの間にか地を捉えている。
全く、私も変わらないな。思わず脳裏に、かつての春陽の声が。
「………トラはさ。落ち込んだときに地面をジッと見るよね」
驚きに振り返る。
その声は記憶の中では無く、確かに背中から聞こえた。
振り返った私の視線と、まだ潤んだ春陽の視線が至近で噛み合う。春陽が驚いている。
「………えっと、どうしたの?私なにか変なことを言ったかな?」
いいや、と頭を振る。
止まっていた足を、再び動かす。私たちの家に向かって。
真っ直ぐに伸びる道の、遥か先を見据えながら、春陽に問い掛ける。
「なぁ、春陽。この道は真っ直ぐに伸びているだろう。どうやってこの様に道を拓けたか分かるか?」
唐突な私の問いに、春陽から戸惑いの気配。
暫くの沈黙の後に、春陽が答える。
「………木を切ったり、石を敷いたり、と言った事じゃ無いよね。直線をどう引いたか、と言うこと?」
そうだ、と答える。やはりこの子は賢い。私の問いに込めた真意に気付いたようだ。
「ねぇ、トラ?もしかして褒めてくれてるの?」
そうだよ、と返す。
「春陽が解いた三平方の定理だが、あれはもともとは距離を測ることで直角を求めるためのモノだ。だから、今の春陽なら、物差しさえあれば、真っ直ぐな道を敷くことができる」
少しだけ、逡巡する。いや、これは照れているだけなのかも知れない。
「………だからね、春陽。そうやって、少しずつ私に追いついてくれないかな。きっと春陽ならそれが出来る」
うん、と小さな声と共に、春陽は私の首裏に少しだけ強く顔を埋めた。




