電波猫と家
こんなに長い文章を書くのは産まれて初めて。
腐った油の匂いが鼻についた。
揺れる寝床の中で、ゆっくりと背を伸ばし、微睡みの一瞬を十全に味わおうとする。
夜更けだ。
辺りに飛ばした電波の戻り値は、家が低速巡航であって、ついでに同室の野郎どもが泥より深い睡眠深度にあることを示している。つまりは私の仕事の時間が来たわけだ。
瞼を開けてみれば、薄らと赤い夜灯に照らされて、潮の匂いが染みついた毛布に包まる同居人達の姿が見えた。
彼等の短い休息を邪魔せぬよう、これは三代前からの慣わしと先代が言っていたが、兎角、彼等の体を不用意に踏まぬように、部屋を出た。
仕事は簡単だ、いつも通り、普段通り。
埃と垢と油、人が生きているだけで溜まっていく有象無象の中には、どうにも虫や鼠の類を引き寄せる何かがある。それらから、彼等と、彼等の食事を守ること、それだけが私の仕事。
配管の隙間から頭を出した油虫の頭を潰してやって、犬歯で腸を食い破りながら、今日の順路を考える。
否や、考える振りと言うべきか。闇夜にあって尚騒がしい彼等の足跡は、見つけた端から追っているだけで、容易く夜が明ける程度には多いのだから。
食事には頓着しないとの自負はあるものの、薄羽が喉に張り付く虫よりも、丸々とした鼠の方が美味いと思う程度の感性は有している。とは言え、鼠を肥やす為にお仕事をサボるなど、そんな器用なことも出来ないのだけど。
幾つかの部屋を回り、あるいは部屋の隅、あるいは愛すべき同居人達の鼻先をうろつく不届き者をせっせと刈り取っていく。
この時点での時刻は、どう遅く見積もっても夜半二時過ぎであったとは、ことが済んでからの体内時計から逆算した。レート計算の為に獲物を仕留めるごとに確認している時刻は、最後に狩った鼠の呼吸が止まった時刻が1:53'24''であることを示していたし、それを銜えたままに、3層から4層に向かう階段を降りる途中だったことは、覚えている。
最初に感じたことは、肉球から伝わる振動の僅かな変化だった。動力変化とも違う、どこか重い周波数の振動が、かなりの深度から届いていた。
反射的に電、熱、磁の反応に注意が逸れて、その瞬きのような間に、とんでもない大質量が家のほぼ直下から向かって来た。
電波の戻り値は希薄、熱、磁は検出限界以下という結果から、私はそれを家とは違う生体由来の物と見做し、そこで自身の正気を疑った。少なくとも、家と同程度か、最大で倍にも及ぶ質量の生命など、これまで聞いてきたどの先達の話にも出ては来なかった。
反射的に掛けていた再走査を途中でキックし、視野の範囲にあって最も頑丈な制御盤の扉にPINを入力、すかさず飛び込んで、四肢を丸めて衝撃に備える。
余りに短く、苛立つ程に長い数瞬が過ぎて、狭い制御盤の中で、ミキサーも斯くの如しかと思うほどに攪拌される。
走査範囲に家が入ったことで吐き出される無数のエラーを無意識下に半永久的に葬り去って得た空容量に、非常警報がけたたましく投げ込まれる。
銜えていた鼠の体が、傷口からもげる様に、自分の未来を重ねながら、慣性を計算。上方への運動エネルギーが尽きた瞬間に合わせて、制御盤から転がり出る。
あとは思考に回す余裕など1mgとてなく、警報の示す避難経路をひたすらに辿る。普段は仕事の始まるギリギリまで寝こけている同居人達が、油虫もなんのそのと一斉に駆けていく。
当たり前だ。足を止めれば、こちらからは空かない水密扉の前で溺死までの短い間に、新しい素数を探すくらいしかやることがなく、よしんばそこを抜けたとて命の保証はどこにもないのだ。