熊野信仰と曼荼羅
何故だか知らないが、あの花火を見てから天皇は、熊野信仰に目覚めたようだ。
急に熊野三山へお参りがしたいと言い出した。
そして、公家も反対をしないまま、一緒に付いて行くと言い出した。
初めに行ったのが、崇神天皇が65年に熊野川の中洲の、大斎原に建てたと言われる熊野本宮大社であった。
そして2番目に熊野速玉大社は海に近い大社であった。
最後は那智の滝で有名で、ほとんど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅13メートル、滝つぼまでの落差は133メートルに達した。
そんな景色が見える熊野那智大社であった。
そんな三山を詣でた。
険しい山を歩いていたのは昔で、今は違ってさま変わりしてしまった。
もう熊野古道を歩く人は少なくなっていた。
修行僧ぐらいしか、歩く姿を見かけなくなった。
京駅と白浜駅を結ぶ京浜線には、本宮駅があった。
本宮駅を降りると熊野本宮大社は目の前だ。
歩いても数分の距離だ。
そして南下して海沿いの新宮駅を降りると、歩いて20分の所に熊野速玉大社があった。
ここは十二の社殿が建てられ、神仏習合も進んで熊野十二所権現と呼ばれている。
神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合した信仰で、日本風にアレンジされたものだった。
そして海沿いの勝浦駅で乗り換えて、特別那智線(電車・ロープウェイ)で行くと那智駅で降りると、熊野那智大社があった。
なので三山参りも楽になった。
天皇御一行は、貸切電車で旅を楽しんだ。
その後、天皇御一行は曼荼羅寺にやって来てきていた。
その一行は公家衆をともにして女性や子供も、長い行列を作って歩いていた。
「ここが曼荼羅寺なのか?」
「まだまだ入口で御座います」
しばらく歩いて行く。
「これが噂の曼荼羅模様なのか・・・美しい神秘な模様だ・・・」
「いえいえ、これは信者が模倣して描いたものです。本物は、まだ奥の奥に御座います」
又もや一行は歩く羽目になった。
「なんとそれ程に広い寺であったのか・・・」と驚いている。
「母さま、足が疲れました」
「もう少しの辛抱です。わたしも辛いのです」
そして本物を見た。
「きれい、キラキラしている」と子供は無邪気にはしゃいでいる。
母親は、はしゃぐ子供をなだめていた。
「なんとこの世のものではない。ああ、こころが癒されるではないか・・・」
天皇は涙して拝んでいた。
凄く感銘を受けた天皇は、1ヶ月間も逗留した。
温泉に浸かって体を癒した。
そして温泉の効能は、慢性関節リウマチ・痛風・神経痛・火傷であった。
そして毎日を精進料理を満喫した。
仏教の戒に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理。
1つは肉・魚・卵等の動物性の食材は、一切使われていない。
もう1つは煩悩を刺激する五葷と呼ばれるニラ・ニンニク・ネギ・たまねぎ・らっきょうも、一切使われていない。
しかし、時間と手間をかけて料理人が美味しい料理に仕上げていた。
そして漢方医がいて、患者を診たてて漢方薬を配合したものを飲んでいた。
ここの漢方医も有名で、その為に通う者もいる。
昼は曼荼羅寺で信者と混ざって、お経を唱えて1日を過ごした。
女性陣は、化粧水によって肌に張りが戻ったことに驚き、リンスによって髪がサラサラになったことにも満足して、大量にお土産として買っていた。
子供は万華鏡を買ってもらい、いつまでも覗き込んでいた。
天皇は、心身ともに清められて十分に満足して京へと帰った。
そうなのだ。
俺の知らない間に曼荼羅寺は、檀家や詣でた信者の寄進によって拡大に拡大を重ねていた。
東京ディズニーランドの2倍の広さになっていた。
信者が泊まる専用の宿舎も点在していて、温泉も完備されていたれりつくせりの宿舎だ。
信者の数も名簿に書かれているだけで20万人は下らない。
熱心な信者は近くに住み着いて、働いて曼荼羅寺にお参りしている。
それなのに俺には知らせなかった。誰1人、俺に知らせてこなかった。
大きくなったものは仕方ない。和尚を呼び出して問いただした。
「和尚、久しぶりだな」
「ご無沙汰しております。副将軍さま」
「信者に良からぬことを言って、あのように大きくしたのか?」
「滅相もありません。わたくしも困っております」
少なくなった忍者隊の報告も同じようなものだった。
和尚と話して、鑑定もしてウソは言っていない。それでようやく安心することが出来た。
昔のような事はしたくはなかった。
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