相模侵攻への準備
薩摩国では、1つのことで下級武士内でも議論がたえなかった。
そして、そのことでケンカまで起きていた。
「よさぬか、ケンカで何も変わらぬぞ」
「それは分かっている。しかしだな・・・」
ことの起こりは、数人の武士が訪れたことで始まった。
その武士は、将軍より書状を届けにきた者だった。
そして、書状を直に当主に渡すと返事も聞かずに帰ってしまった。
返事はいらぬ、行動で示せといっているように受止めるしかない。
「これは新たな将軍の言葉だ。相模侵攻が終わってから行っても、成敗の対象になりかねない」
「しかし、遠すぎる。お主はどれくらいかかると思っている」
「行かぬ訳にも行かぬ。お主は知らんのか、四国が1ヶ月も経たないのに滅んだことを。それだけの戦力と戦上手なのだ」
「まずは百人を送りましょう。少ないが急ぎ参ったといえばいい。もしもの時は後から来ると嘘でも付けばいい」
「それしかないのか・・・」
島津義久は、話がようやく決まったので目を見開き言い放った。
「島津義弘、わしの名代でゆけ。そちの言動で決まるのだ。こころしてゆくがよい」
「義弘、その大任を受けたまりました」
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将軍の名の下で、日本各地の大名に使者が書状を届けていた。
書状には相模侵攻が終わるまでに、はせ参じろときつい命令で書かれていた。
そして、北条に味方することもかたく禁じていた。
京を支配されて、将軍職に就くのもあっという間だった。
反今川を構築する暇も無かった。
足利幕府や石山本願寺が短い期間で、負けを認めたことがそうさせていた。
そして将軍は、ここで敵、味方をはっきりと決める時期と感じていた。
従わなければ、遠征してでも滅ぼす積もりだ。
そうすることで、ついたばかりの将軍職を全国へ知らしめた。
そればかりで無く、名ばかり将軍でなく実力を示したのだ。
そして、今川の方の支配下でも大慌てだった。
中国方面の侵攻で計画を立てていたのに、急に向かう方向が逆になったのだ。
播磨や四国では、再度仕度の変更を忙しくてんやわんやであった。
駿河の米蔵で、俺は静かに俵を吐き出していた。
24時間交代制で建てた真新しい蔵が、港近くにずらりと並んでいる。
紀伊や伊勢で大量に作った米を、駿河に持ち込んだ。
後は、ここから戦場へ運べばいいだろう。
陸路でも船でも運びやすいはずだ。
そして港には、洋式風の帆船が10隻も並んでいた。
基本は木造だが、胴体部には黒く塗られた鉄板が張られていた。
そして船の側面には、大砲が撃ち出される窓が開いている。
相模侵攻に向けての準備に、忙しく船乗りは働いていた。
「おーい!!このロープは切れ掛かっているぞ。早く交換しろ」
「こっちも忙しくて手が回らない、誰か助けてくれーー」
そんな光景を、町人や旅人は物珍しく見ていた。
「でかい船だな。あれはなんちゅう船だ」
「なんでも南蛮船といってたぞ」
「南蛮の船なのか?」
そんな見物相手に、屋台も出ていた。
その中で、エッチング法で印刷された南蛮船が、飛ぶように売れている。
「どうだい旦那、精巧に描かれたものだよ。ほかには売ってないよ」
「本当に細部まで描かれてるな。土産に買おう」
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