夢想家 1
ある日、僕が教室に入るとアンナさんは窓際の最前列の机の上に立って歌っていた。
「おはようアンナさん。机は上に立つものではないよ。」
「あっ、イオくんおはよう。
立つものじゃないなら、座っても良いよね。」
アンナさんはそう言うと、今まで立っていた机に座り込み、足をブラブラと揺らし始めた。
…机は座るものでもないし、足をブラブラとさせるのは行儀良くない。
けれど、それを指摘した所で、今のアンナさんは“本来の使い方”に改めないであろう事は予想できた。
「イオくん、お花は綺麗に咲いているよね。」
「…そうだね。」
アンナさんは窓際に置いてある花瓶を指差しながら、僕に話しかけてきた。
僕は花に興味があるわけでも無い。
だが、一般的に「花は綺麗なもの」と認識されているので同意した。
そんな僕の事を気にした風もなく、アンナさんは話を続けた。
「それぞれは違うお花達だけど、花壇のお花は皆伸び伸びとしていて、とても生命力に溢れている。
だけど、人がそれを切り取って花瓶に入れて飾ると、すぐに儚くなってしまう。
なのに、何で皆はお花を摘んでしまうのだろうね?」
「アンナさんがさっき言った様に、花が綺麗だからなんじゃ無いの。」
「綺麗だからって、ダメになる事がわかっていて摘むの?」
「…知らないよ。」
そう、僕は知らない。
どんなに周囲が「綺麗だ」と言った所で、僕は感動しない。
だから、花を摘む人間の心理を理解しようが無い。
ダメになるのが分かっているなら、花壇に生えたままにしておけば良いのだ。
何も摘み取る必要は無い。
「そっか。アンナはね、綺麗だから側に置いておきたいって思うの。
だから他の人達も、花を側に置きたくて摘んでしまうのかなと思ったの。」
「そう。なら、そうなんじゃ無い。」
「イオくん。アンナの話、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。」
アンナさんの話は、聞いている。
僕には理解ができない感覚だから、曖昧にしか返事できないのだ。
「ところでアンナさん、今日は何で自分の事を“アンナ”と呼んでいるの?
話し方も、普段はもっと落ち着いているよね。」
「アンナがアンナをどう呼ぶかは、自由でしょ?
それに、話し方だって“普段” は関係ない。
“今”アンナがどうしたいかだけだよ。」
とりあえず、今日のアンナさんは幼い印象が強いので、その事を指摘してみる事にした。
そうしたら、ぶっきらぼうは返事が返ってきた。
どうやら、普段のアンナさんとは違う気分の様だ。
「そうなんだ。なら、どうして今は“アンナ”呼びで、そんな話し方なのさ?」
「それはアンナの存在確立の為だよ。」
「…存在確立?」
「そう、アンナがアンナである為に。
何が好きで、何がしたいか。
それは、飾らないアンナの言葉から出てくるんだよ。」
僕には、アンナさんが何を言いたいのかわからなかった。
僕にとって、そこに在ると思えば在る、世界はそういうものだった。
だから、存在を確立する為に言葉が必要だなんて、考えた事もなかった。
「言葉が在る事で、それは確立するの?」
「そうだよ。アンナが考える事は、そのままだと誰にも伝わらない。言葉にして初めて他人に伝わって、そこに存在している事になるんだよ。」
「言葉にしなくても、思っている事は在るよね?」
「うん。けれど、それはまだ存在が確立していない不安定なものなんだ。アンナ自身にだってわからない。
それなら、その思っているものはまだ“在る”って事にはならないよ。」
まるで、禅問答みたいだ。
僕は「存在について」なんて哲学的な事を聞こうとしたわけではない。
それでも、アンナさんにとって自分の話し方は、そこに繋がるものなのだろう。
“アイデンティティの確立”
アンナさんが言いたかったのは、多分これだろう。
その為に、言葉を起点にしているのだ。
「イオくんは、好きな事はないの?」
「…急だね。僕は…わからない。
在ると思えば在る、無いものは無い。それだけだ。
そこに好きも嫌いも考えた事は無いよ。」
「なら、今考えて。
アンナは歌って踊るのが好き。
そうすると、とても楽しい気分になるんだ。」
「僕は、何かしたいとかは無いかな。
ただ、流れに身を任せてきて、それで問題無かった。
だから、これからもそれで良い。」
アンナさんは心から楽しい事が好きなのだろう。
鼻歌交じりに話す姿からは、喜びの花が散っている様だった。
彼女の姿は見ている者を感動させるのだろう。
僕は、それを見ているだけだった。
僕自身が何かしたい、好きだと思う事も無い。
ただ漠然と、見ているだけで良い、そう思った。