閑話 Ⅰ
東極警察局、最上階・局長室。
「どうしたんだい、急に改まって」
響いたのは軽い調子の男の声。
部屋に並ぶ重厚な調度品の数々と高級そうな絨毯から感じられるこの部屋の雰囲気は、かなり重苦しい。その調度品の一つである事務机に座る局長も、どちらかと言えば真面目な顔をしていた。そんな空間に響く男の声はそれらに全く似つかわしくない。
緊張感漂う場所に緊張感のない声を響かせる男は、簡素な私服のクローフィだった。
局長にこんな口を聞けるのは、この警察局において彼だけだろう。
「いやァ、ね? ちょっと気になることがあってねェ」
「おや、珍しい。キョウカくんが何かを気にするなんて」
「そりゃァ気になることもあるさ。よりにもよって中央区の区長が犯人で、しかも死んだとあれば、ね?」
「あー、追加の報告が欲しいってことかな?」
「その通り」
「報告書作るまで待って欲しいなぁ」
「きみはいつもいつも後回しにするだろう。そのせいで出来上がった報告書は情報過多。細かい字を何ページにも渡って読まなきゃならないこちらの身にもなって欲しいねェ」
局長である蘭堂キョウカはうんざりしたように首を振る。日頃傍らにいる秘書の女性は現在はいなかった。
「だって、忙しいんだもの。今日だって本当は別の予定があったんだけど、キョウカくんがどうしてもって言うから」
「はぁ、分かった。忙しいなら早くしよう。単刀直入に、まずは“ドール”のことから聞かせて欲しい。その後、進展はあったのかね?」
「あー、幽くんのこと。うーんとね……」
クローフィは部屋の隅にある椅子に遠慮なくどっこらせと座り、手持ちの中からファイルを取り出した。しばらく紙を捲る音が響く。
その後、『あ、あった』と呟いた。
「……燐ちゃんって案外、人に教える能力があるのかもしれないよ? 幽くんは読み書きどころか会話すら出来ないほど言語能力が低かった。それは前報告したよね。で、彼女と勉強し始めてからぐんぐん伸びてる」
「ほォ。具体的には?」
「単語の理解度はまだまだだけど、五十音は全部書けるようになってるし、簡単な会話ならできるようになった。自分で辞書も引き始めているみたいだよ」
それを聞いて、キョウカが片眉を跳ね上げる。
当該の人物は”人間”と呼べる知能が備わっていなかったはずだ。”機械”として命令の判別が出来る程度で、逆に命令がなければ何も出来ない。生命としてはそれほどまでに歪められた存在だった。それがたかだか一、二ヶ月程度でこうも変わるものなのか。
「キョウカくん、さては信じてない?」
「いや、そんなことはないよォ。ただ驚いただけさ」
「まあ気持ちは分かるけどね。簡単なことだよ。今まで碌に食べてなかったご飯を食べて、しっかり寝て、勉強しただけのこと。”普通の人間”と同じ生活を送れば、自ずとそうなる物だからね。ま、燐ちゃんの指導のおかげもあるかも」
「……ふぅん。何はともあれ、審議に参加出来そうであればそれでいい」
「そこは問題ないかな。でももうしばらく時間が欲しい」
「まァ、しょうがない」
キョウカが頷いたのを見て、クローフィが次のメモを探す。
次のメモは、幽の痛覚麻痺についてだった。全身を鋼鉄の糸で締め上げられるという拷問紛いの扱いを受けていたため、痛覚はかなり鈍っていた。そのことについては別の報告書で既に知らせているのだが。
「これについて、新しいことが分かった」
「ふむ。聞こう」
「麻痺してるのは痛覚だけじゃなかったんだ」
「…………。まァ、都合良く痛覚だけが消えるなんてことはないだろうからねェ」
クローフィは自身が行った実験について語った。
幽に目隠しをした状態で、その手を握る。最初は触れるだけに留め、徐々に握る力を強めていく。幽には、『握られた』と思ったら空いている手を上げてもらう。これによって、手の感覚がどの程度鋭いのか判断するというものだ。
先に燐に試した結果、軽く握っただけですぐ手を上げた。これが正常な反応だ。
音が聞こえたら手を上げる、聴力の検査と同じようなものである。簡単な言葉が通じるようになったおかげで、様々なことを試せるようになった。
「で、結果なんだけど。相当強く握り締めてあげないと、彼は『握られた』と判断出来なかった」
「つまり、手足の感覚もほとんどないってことかね?」
「そう。例えるなら、こう……朝起きた時とかに、手が痺れすぎて感覚がないときがあるだろう? 自分の手とも思えないような、上手く動かせないときが」
「俺はあんまりないけどねェ。想像は出来るよ」
「人がせっかく頑張って説明してるのに、話の腰を折らないで欲しいなあ。……まあいいや。ともかく、そういう状態で四六時中活動してるってことだね」
説明に頷きつつ、キョウカは自分の顎を手で軽くなぞる。
「それ、何かデメリットはあるのかね?」
彼なりに考えながら、疑問は疑問として吐き出す。少し考えれば分かりそうなものだが、キョウカは小さく首を傾げてそう聞いた。
珍しいことに、クローフィが呆れてため息を吐いた。普段なら助手のレヴァンが散々やっていることだ。
「もー、あるに決まってるでしょ。これだからキョウカくんは。血ぃ抜き取るよ?」
「嫌だし時間の無駄だよォ。続きをどうぞ」
「はいはい。あのね、両手足の感覚がない状態でまともに歩けると思う? 普通は無理だよ。それこそ幽霊が彷徨い歩いているようなものだ。地面を踏んでいるかどうかも認識出来ないんだから」
「あァ、理屈は分かるよ」
「…………。前々から思ってたけど、君って人の痛みとか全っ然分かんないよね」
「きみには一番言われなくないなァ」
キョウカの秘書であるエリザに言わせれば同じ穴の狢だが、本人達は至って真面目に相手の頭がおかしいと考えていた。
「ともかく、これで左右の握力の差が激しい理由が判明したんだよ」
「……左右の握力?」
「え、もしかして報告書読んでない?」
「読んでるよォ。でもさあ、報告書なんて山ほど来るからいちいち覚えてられないんだよね」
『それならば、今話しても意味ないのでは?』とクローフィは思ったが、言うだけ無駄なので言わなかった。代わりに幽の握力について説明し直す。
彼の利き手である右手は握力が異常に強く、逆に左手は異常に弱かった。鉛筆を持たせた場合、右ならへし折る程の力を出せるが、左なら握ることも出来ない。
当初はその理由に関して、“省エネ”によるものだと考えていた。碌な食事を摂っていなかった幽は、使う体力を削減しなければならなかったからだ。常に無表情なのもその一環で、表情筋を動かす労力も必要もなかったとした。
「でも、感覚が鈍いならその握力の差も頷ける」
「つまり、武器をきちんと『握っている』と感じるまで握り込むから、右だけ強いってことかね? 左は握る必要すらないから弱い、と」
「…………。報告書の内容は覚えていないくせに理解は早いのムカつくなあ」
「ま、局長だからねェ。無能じゃ務まらないし」
「じゃあ、殺し方が全部同じだったことが何故か、は分かるかい? 有能なキョウカくん」
「殺し方……滅多刺しだったかな?」
「はぁ……それは違う事件。こっちは頸動脈を切り裂いて殺してる」
「ふぅん。殺し方なんぞに興味はないんだけどねェ。それは部下たちの領分だろう。……まァ、強いのは握力だけで腕力がないとかで、確実に殺せる首でも狙ったのでは?」
きちんと報告したところはほとんど覚えていないのに、軽い調子で正解を出してくるキョウカに対して、クローフィは黙ることしか出来なかった。
幽は、確かに腕力がなかった。そもそも体が骨と皮しかないようなものだったので、力がある方がおかしいのだが。
そんな彼が人を確実に殺すためには、頸動脈を狙うしかなかったのだ。首だってもちろん硬いが、内臓を刺して殺すよりはいくらかマシで、確実性もある。
クローフィとしては『犯人のこだわり』という誤答をして欲しかったのだが、あっさり当てられてしまった。頑張って書いた報告書を軽く扱われた腹いせはあえなく失敗した。
「……うん、まあ、正解。『そうした』んじゃなくて、『そうするしかなかった』ってこと。当初はわざと同じ殺し方にしたとか、同一犯に見せかけるためにとか、色んな憶測があったけどね。実際は単純な話だった」
「ふむ。殺し方は今更議論したところでって話だがね。色々と事実が分かるのは良い事だ」
「正論だけど、もうちょっと言い方をどうにかして欲しいなあ」
「善処はするよ」
そう言ったところでどうせしないだろうが、わざわざ追求する気にはなれなかった。面倒くさくなるだけだ。
医者としての立場ではないためか、弑流たちと話す時に比べて不満さを隠さない。
若干むくれているクローフィを見ながら、キョウカは一度座り直した。組んだ手の上に顎を乗せ、改まった口調で切り出す。
「時に、クローフィ」
「ん? 何かな」
「きみ、“呪術師の方の区長”の遺体、何処にやったんだい?」
しん……と局長室に静寂が流れる。むくれていたクローフィは、目を丸くしてキョウカを見つめた。
「何処って……もう埋めたけど?」
「埋めた? 何処に?」
「病院の裏手にある共同墓地だけど……急にどうしたの?」
「……いやァ、別に。ああ、あと、一緒に検死した女性もそこに?」
「うん。そうだよ」
「……へぇ」
「もしかして、何か疑ってる?」
「まァね。きみが検死した後の遺体を誰も見てないって言うから……ね? 区長に恨みのある人間にでも、遺体を譲り渡したんじゃないかと疑ってしまったけど。まさか、そんなわけないよねェ」
キョウカの瞳が蛇のように細められる。獲物を狙っているかのような目付きだが、口元には笑みも浮かべている。一見すると、ただ微笑んでいるようにも見えた。
聞かれたクローフィは可笑しそうに笑う。
「やだなあ、そんなわけないじゃないか。呪術師の遺体は貴重なんだよ? 勿体なくてそんなこと出来ないよ」
「それは、不死身の式神の生き血よりも、かい?」
「不死身の式神? 何言ってるか分かんないけど……キョウカくん、頭でも打った?」
「まさか。ただちょっと、事実確認をしているだけさ」
「ふーん。……ああ、そういえば、キョウカくんって局長の割に若いよね」
突然話題が切り替わって、キョウカが首を傾げる。
「……うん?」
「局に入るなりどんどん出世したらしいって聞いたよ。まるで皆が自分から道を開けたみたいに、ってね。さすが有能なキョウカくんは違うなぁ」
「…………」
互いに笑顔ながら、周囲の温度だけが冷えきっていく。顔は笑っているのに、腹の底では笑っていない。そんな雰囲気だった。
そして、唐突に空気が柔らかくなる。今の一瞬が嘘だったのでは思えるほど、張り詰めていた空気が元に戻った。
「で、本当に聞きたいことは聞けたのかな? 僕に散々説明させておいて、なかなか本題に入ってくれなかったみたいだけど」
「あァ、単に俺の勘違いだったみたいだねェ」
「そりゃあ良かった。ありもしないことで問い詰められても、時間の無駄だからね。お互いに」
「そうだな。……ま、残りの話は次の報告書を大人しく待つことにするよ」
「これからも是非そうして欲しいかな」
二人とも笑顔で話を切り上げた。もう話したいことは話し終えたのか、どちらもそれ以上は何も言わない。自然な流れで解散となった。
またね、と行って背を向けたクローフィを、キョウカは引き止めなかった。その背が部屋を出て、閉まった扉で見えなくなるまで見送った。




