第1話 序
『――では、次のニュースです。今日未明、中央区××の民家で、男性の遺体が発見されました。男性は体を鋭利な刃物で複数回に渡って刺されたと見られ、強い殺意を持った犯行として、容疑者の行方を捜索しています。発見したのは近所に住む男性で、発見当時――』
六畳ほどの小部屋に、壁に掛かったテレビから女性アナウンサーの無機質な声が流れる。アナウンサーはただ事実のみを淡々と読み上げ、住民への注意を促した後、次のニュースの報道へと移っていった。
テレビで報じられる内容とは裏腹に、薄い緑と焦げ茶色で構成された部屋には珈琲と菓子の香りが漂い、穏やかな空気が流れていた。同じ国の出来事であるはずなのに、まるで別世界の出来事であるかのようだ。
テレビの他には革張りのソファが三つ、ローテーブルを囲むように並んでいる。香りの出所はその机の上だった。カゴに入った菓子と3つの珈琲カップがそれぞれ置かれてあった。
「……いやあ、怖いですね~! 最近この手のニュース多くないですか?」
そのソファの一つに座り、テレビを眺めていた男が緊張感のない声で呟いた。象牙色でふわふわの癖毛を持つ、どこか大型犬のような男だ。顔をテレビのある左側に向けたまま、長い腕を伸ばして珈琲カップを持ち上げる。口に運んで一口含んだ。
彼が身に纏う紺を基調とした制服の胸には、金色に輝くバッチが付いている。”東極”とこの国の名前が刻まれていることから、何らかの要職に就いており、かつ服装からも仕事中のはずだが、今はただ座って珈琲を飲んでいるだけだった。
「多いね。私たちの所でも捜査できれば良いのだけど、今のところそういう話は貰っていないし」
象牙髪の男の呟きに答えたのは、テレビの正面に座っている別の人間だ。茶髪をオールバックにしたハンサムな男で、同じようにテレビを見ながら物憂げな顔をしている。その胸に輝くバッジは先の男よりも凝った造りになっており、役職が上であることを感じさせる。
「ですよねぇ。でも、正直なところ、グロテスクな現場はちょっと……。回ってきた捜査資料からしても『うげぇ』って感じだったじゃないですか。出来ることなら俺たちじゃない誰かが解決してくれると嬉しいんですけれど」
上司が真面目に言ったことに対して、部下の男は肩をすくめながら返した。不穏な事件に対してあまりにも後ろ向きな態度。そして楽観的な軽い態度に、上司は眉根を寄せてため息を吐く。とても要職に就いているとは思えない様子に、脱力しながら口を開いた。
「……シャルル……。私たちが何故、他部署から”問題児”と呼ばれているか知っているかい?」
「えー? あ、俺たちの経歴ですか?」
「うん、まあ、それもそうだけど。違うよ。……あのね、一応私たちは民間人を守る立場にあるんだ。筆記試験を受けた上で実技訓練もして、拳銃を持つ資格だってある。入局した以上、ちゃんとした態度を取ってくれないと。思っていても言っては駄目なことはあるんだよ」
「うっ! それはその、仰る通りなんですけど……人には向き不向きがあってですね。俺、嫌ですよう、グロテスクな現場。ていうか、誰でも無理でしょう、あんな滅多刺しの遺体なんて」
シャルルと呼ばれた部下は左にあった顔を右へと向けて上司の顔を見た。眉根の下がった情けない表情を浮かべている。上司の紺色の瞳が半眼になった。
「君は何の為に警察局に入ったんだい?」
「それは部長が一番ご存じでしょう? それにほら、レノを見てくださいよ。俺より酷くないですか?」
シャルルは講義するように自分の対面に座っているもう一人の男を指さした。三人目の男は座ってすらおらず、二人掛けのソファに寝そべって仮眠を取っている。青みがかった珍しい銀髪を持つ男で、組んだ手を腹に乗せて寝息を立てている。同じ制服を来ているが、やはり勤務中には見えなかった。
身だしなみも悪く、長過ぎる前髪が目や鼻柱を完全に隠している。下半分もマスクによって隠れているため、どんな表情をしているかはおろか、どんな顔を持っているかさえも分からない。寝るには最適かも知れないが、仕事中に前が見えているのかは疑問だ。
「一番大きいソファ取って、しかも部長に足向けて寝るなんてメンタル化け物過ぎません?」
「そうだね。そこは私も尊敬するよ」
態度の悪いレノという男の胸には、シャルルと同じバッジが付いている。
二人は彼を見ながら聞こえるように言ったものの、起きる気配はまるでない。
「ただ、態度はそうでも、レノは仕事はちゃんとしてくれる。だから大目に見ているんだ。そもそも、ウチに来た理由だって特殊だからね。はあ、自分の仕事しかしないのはぜひ改善して欲しいところだけど」
「えー、俺だって仕事はしてますよぅ……そういう現場に行きたくないだけじゃないですか」
「君たちがそういう態度だから、大きな事件を任せてもらえないんだろう。新入署員が誰も入らないのは知名度も原因だと思うんだ、私はね」
「あー、それはそうかも知れませんけど……俺は少数精鋭でもいいと思います」
謎の頷きと共に菓子を口に入れるシャルル。上司――リチャードはそれ以上何かを言うのはやめて、手に持っていた珈琲カップを置いた。呆れというよりは諦めだった。時計を見ると、既に休憩時間は終わる頃だった。
勤務中の休憩時間がたまたま被ったため小言を言ったものの、やる気があるのかないのか分からない相手に何か言い続けるのは時間の無駄だ。……毎回のやり取りで分かっていたことだったが、毎回これをやってしまう。呆れた表情のままやれやれと立ち上がり、軽く伸びをしながら呟く。
「仕事は出来るんだけどねえ……」
仕事が出来るようには全く見えない、だらけた二人を見下ろす。しゃんとしていればもっと周囲の評価も変わるだろうに、と惜しく思いながらもそれを口にすることはない。パンパンと手を叩いて自分に注目させる。
「さあさあ、休憩時間は終わりだよ。仕事に戻ろう二人とも」
シャルルは『はあい』と間延びした返事をして、最後に一口とばかりに菓子を口に詰め込む。
寝ているレノはそれでは起きなかったため揺さぶると、微かに顔を動かして、面倒くさそうに欠伸をした。のっそり上半身を起こし、凝り固まった体を解す。
「……はあ。僕はもう仕事終わってるんですけど。クソみたいに暇……失礼、とても時間が余ったので一応ここにいただけで」
態度は最悪だが仕事は最も出来るレノは、とっくに仕事を終わらせていた。しかしだからといってシャルルとリチャードの仕事を手伝う気はないようだ。勤務時間が固定されていなければすぐに帰宅していただろう。いつものことながらシャルルが抗議の声を上げる。
「ええー、終わってるなら俺の仕事手伝ってよー」
「え、なんでお前の仕事手伝わなきゃいけないの?」
当然の様に仕事を手伝わせようとするシャルルと、当然の様に自分の仕事だけをやればいいと思っているレノ。二人の言い分はあってもいて、間違ってもいた。
「ねええレ~ノぉ~! 手伝ってよ~」
眠そうでやる気なさげなレノの肩を掴み、シャルルはデカい図体をふんだんに使って自分より頭一つ分ほど小さい彼を激しく揺さぶる。
「い・や・だ。お前の仕事くらいお前がやれ! 僕に頼るな」
レノは揺さぶられながらも断固拒否し、平行線のやり取りがいつまでも終わらない。それほど広くない部屋でバタバタと暴れている。
このようなやり取りは今に始まったものではなく、彼らが一緒に仕事をし出してからずっと続いている日常的な光景だった。毎度、最終的にはリチャードに全てのしわ寄せが来るのである。彼が常日頃胃痛を訴えているのは無関係ではないだろう。
「……もうちょっと部下、欲しいなあ」
ギャーギャーと騒ぐ二人の横で、上司は遠い目で呟く。新設されたばかりの自分の部署と、若干心許ない部下と、新設故の人手不足。痛み始める胃。
休憩時間は終わっているのに未だに言い争っている二人の部下を眺めながら、リチャードは明日行われる予定の入局式に思いを馳せた。一縷の望みを込めて。
§―――§―――§
同時刻。
中央区内某所。
「今日外に出したのは他でもありません。あなたにやって貰いたいことがあります」
痛いほどの沈黙が流れる部屋に、穏やかな声が響く。それはそっと撫でるような優しい声だったが、暗くて冷たい空気に満ちた場所では異様に聞こえた。
声の主は薄い金髪の男。
纏う雰囲気こそ柔らかいものの、その眼鏡の奥では桃色の瞳が怪しい光を放っており、顔には含んだような微笑が浮かんでいた。弧を描く唇が開く。
「明日、この場所に行ってこの男に会ってください。時刻は写真の裏に書いてあります。家の鍵は開いているはずです。勝手に入って構いません。その後のことは成るようにしか成りませんから、ご心配なく。…………良いですね?」
差し出された男の手には何者かの上半身が写された写真と一枚の地図が握られていた。目を細めて笑う先には、子供の様に小さな人影。
何を言うでもなく、無表情で写真を受け取った。
彼らのいる場所は質素ながら決して貧相ではない家の一室。絨毯の敷かれた洋室だった。ソファと本棚以外何もない部屋だったが、男も子供もソファには座らず、立ったままであった。
子供は黙って写真を見つめた後、何か言いたげに男の顔を見上げた。
「おや、どうかしましたか?」
男は微笑を浮かべたまま問う。
「……どういう風の吹き回しだ?」
子供が高くもなく低くもない声で答えた。
「どう、とは?」
「今まで僕を閉じ込めていたくせに、急に任務だなんて」
チラリと横を向いた視線の先は、この子供が先程までいた部屋だった。――部屋と呼ぶには異様なそれは、二つ空いた小窓が鉄格子で閉じられ、まるで牢獄のようだった。現在いる部屋の隣室らしいが、一目でただの部屋ではないと分かる。分厚い壁に一カ所空いた長方形には重々しい鉄の扉が付いていた。
子供は怒っているような恨んでいるような、しかし何処か冷めた態度のまま立ち尽くす。対照的に、男はくつくつと笑って子供を見つめ返した。
「ああ、そういうことですか。……深い意味はありません。適材適所、と言うやつです。私では力不足ですから、ね。不満ですか?」
「…………別に。拒否権なんてないだろうし」
最初から最後まで投げやりで、諦めたような表情の子供。
ずっと笑顔の男。
それは部屋の空気も相まって酷く不気味な光景だった。男のただただ優しい笑顔も、むしろ底冷えするような冷たさがある。笑顔を浮かべた人形が朝も昼も夜も、何があってもずっとそのままの笑顔でそこにいる。例えるなら、そのような不気味さだった。
「拒否権がないなんてそんな。あなたが望むのでしたら、ここにいても構いませんよ? 部屋には戻って貰うことになりますが」
「…………」
くすっとおかしそうに笑う男を見て小さく首を振り、子供は黙って男の言うことに従った。
彼の言ったことに、実質選択肢はなかった。言うことを聞くか監禁生活に戻るか。その二択しかないのであれば、子供が選ぶ選択肢は一つしかなかった。いつまでもこんな生活は御免だった。
「良い子ですね」
男は自分に従うその小さな頭をぽんぽんと撫でると、今いる部屋から出て玄関に向かった。ハンガーポールに掛かっている茶色のローブを手に取って頭から被せ、
「護身用です」
とシースに入った小刀を渡した。
「…………」
これを今この場で目の前の男に突き立てれば、自分は自由になれる。それは分かりきったことだったが、子供にはその度胸も経験もなかった。手の中の重い金属の塊を腰の後ろに身につけると、ローブのフードを被る。
ここから先は、知らない世界だ。地図の読み方も小刀の扱い方も、習ったことしかない。実践で使うには心許ないが、猶予は明日まである。
「いってらっしゃい」
男が似合わない見送り文句を口にして、
「…………」
子供はそれを無視した。
暗くなり始めた世界に足を踏み出し、目的地に向かって走り出す。振り返ることもなくがむしゃらに。
一刻も早く男から離れたかった。自由な世界に行きたかった。目的は決められているけれど、それでも鉄格子に囲まれた部屋の中とは比べものにならない自由な”世界”。男に使われることを疎みながらも、今だけは未知の世界に心を躍らせた。