第20話 秘密
帰りの車の中で、燐がレノに聞く。
「おい、本当に言わなくて良いのか? あの女たちに襲われたこと」
「…………良いって言ってるじゃん」
聞かれたレノは掠れた声で返した。開けられた胸元から覗く首には赤黒い跡がくっきり残り、一目で首を絞められたと分かる。
「その首、治療受けた方がいいんじゃないか?」
「別にいい。ほっとけば治るでしょ」
「シャルルとか心配しそうだけどな」
「だから言わないの」
「へー、なるほど」
「…………何笑ってんの」
「別に」
不機嫌そうなレノの舌打ちを乗せた車はゆっくりと警察局に戻っていく。
§―――§―――§
数刻前のこと。
見知らぬ男女の襲撃により、二人は窮地へと陥っていた。レノは気絶したまま目を覚ます気配はなく、燐は呪術の陣に囚われたことで身動きが取れない状態。打開策も特になく、まさに絶体絶命という言葉がぴったりだ。
身構えることも出来ないままただ睨み付けた彼女に、呪術師の男が近付いた。
”呪いを刻まれる”という行為について、実のところ彼女の記憶にはない。記憶の一部が欠けた際に、その記憶も一緒に失われてしまったのだろう。刻まれたことそのものの記憶は微かにあるものの、それがどうだったか、どういう行為だったかを忘れている。そのため、これから行われることが痛いのか、苦しいのか、それともなんともないのか全く分からない。それが逆に恐怖心を駆り立てた。
男の指が、首を触る。呪術的な文字が体を這い回る気持ち悪さと併せて、一層肌が粟立った。
……しかし、覚悟したような負の感覚は訪れない。男の指は首から離れ、彼女の服の襟を掴むと首元を捲った。鎖骨辺りが見えるまで捲ると、イライラしたように顔を歪めた。
「チッ。こっちは外れか。”印付き”の方だ」
印付き、とは”あの男”の呪いを指しての名称だろうか。
男は血の付いた親指の腹で燐に刻まれた呪いを撫ぜる。
「しかも上書き出来そうもねぇな、クソが。……おい、お前。お前の呪術師はどこにいる? そこの男か?」
顎でレノを指し示した。襟を掴む手に力が入り、彼女の表情を苦しそうに歪ませる。
「違う、そいつはただの人間だ」
「なら何処だ? さっさと答えろ」
「……前は、中央区に近い南区に住んでいたが、その後のことは知らないんだ。僕はこうして警察局に捕まって働いている身だしな」
「使えねぇやつ。じゃあ、容姿は。そんくらいなら分かるだろ」
「金髪にピンクの瞳で眼鏡をかけてる。多分見たらすぐ分かる。…………こんなこと聞いてどうするんだ?」
「殺すに決まってんだろ。上書き出来ねぇなら術者を殺せば良い。お前にはそれまで地下にでもいて貰う」
「そこの女じゃ不満なのか?」
「お前には関係ない」
男は自分の言いたいことだけ言うと、乱暴に手を離して陣から出た。時間を稼ぐため、そして相手の情報を探るために片端から質問を投げかけるが、男はもう答えない。彼女には目もくれず、レノに銃口を向け続ける女に近寄った。
「おい、もう一匹を探しに行くぞ。そっちは印がないはずだからな。先に手駒にする」
「分かりました」
女だけでは足りないと、新たな手駒を探しに来たことは燐に呪いを刻もうとした時点で明白だった。しかし、この様子だとどうやら澪の方も手に入れるつもりらしい。主人のいない、呪いのない式神は珍しく、誰より先に手に入れたいという気持ちも分からなくはないが。それならば欲張らずに燐を解放して欲しいものである。
勿論そんな彼女の望みは叶うはずもなく、男と女はここを去ろうとしている。
女は男の言葉に感情の薄い声で答えると、レノに向けていた銃口を下げた。
「ああ、その男は殺せ。用済みだ」
が、下げられた拳銃のグリップを横から男の手が支え、持ち上げさせる。
「っ! おい、やめろ。僕はもう抵抗できないんだから殺す必要ないだろ」
燐が男の発言に抗議するが、男は鬱陶しそうに一瞥しただけだった。もう一度女を見ると、指示を待っている彼女を急かすような手振りをした。
「あれの言葉は無視しろ。さっさと殺して――」
ここを出るぞ、という言葉の続きは、男の口をついて出なかった。突然黙ると、何が起こったか分からないような顔つきで目を見開いた。みるみる蒼白になっていく顔面と比例して、冷や汗もかき始める。見開かれた目は激しく泳いで、男が酷く動揺していることを周知させた。
「どうかなさいましたか?」
先程までの余裕からあまりの変化に女も訝しむ。
「……有り得ない。有り得ないぞ、そんなの!」
「え?」
「アイツらの中に呪術師が? いや、そんなはずは無い! そんなはずは……!」
女の言葉は聞こえていないようだ。焦った様子で言葉を口走り、頭を掻き毟ってウロウロと建物内を往復する。
「クソっ、あの木偶人形、死んでもないくせに……! 何故、何故だ? どうして主導権が奪われた?」
「!」
男の言葉に女もハッとする。
“主導権が奪われた”。呪術師が口にした場合にこの言葉が意味するところはただ一つ、所有する式神が別の呪術師に奪われたということだ。
呪術という繋がりは感覚的なところで術者の体に干渉する。故に、その繋がりが切れた場合、“主人”である呪術師には自ずと分かるのである。
(どういうことだ?)
男の発言を聞いた燐も何が起こったかは粗方理解したが、代わりに別の疑問が浮上する。
(こいつの式神はそこの女じゃなかったのか?)
目の前にいる者との繋がりが切れたのであれば、感ずる前にすぐ分かるはずだ。であれば、繋がりが切れたのはまた別の式神に違いない。既に二人も使役しているくせに、さらに二人増やそうとしていたということになる。
(ああ、いや。そうじゃないか)
『あの木偶人形、死んでもないくせに』と、確かに男はそう言った。別の呪術師に奪われたことそのものよりも、死ぬ前に奪われたことが問題だとでも言いたげだ。呪術師がいないと思っていた相手の陣営に想定外があり、不都合が起こったとすれば、元々は複数人の人間の相手をさせるつもりだったはずである。
直接指揮しておらず、その式神を“木偶人形”呼ばわりするあたり、何かの捨て駒として配置した可能性が高い。その損失への補填プラス、一増加を期待して燐たちに目をつけたというところだろう。
呪いによる支配が続く内は、呪いの効力にも寄るが主人である呪術師に逆らうことは出来ない。だが、別の呪術師に使役されることで支配を逃れた場合、元の主人の命令など聞く必要はなくなる。
恐らくは命の危機がある任務を命令していたところ、奪われたことでパアになったとみえる。
(にしても、”人形”か……。もし万が一”ドール”がこいつの式神だとして、奪われたってのは何処での話だ? そもそも予想通りにここの付近を通ったのか?)
無線を受けた際に戦闘に巻き込まれていたこともあり、燐とレノは聖と澪が既に”ドール”と交戦したことを知らなかった。そのため、あちらの状況は全く把握しておらず、計画がどうなっているかも知る由がなかった。
燐が黙って考察している間、男は挙動不審のまま右往左往していた。女も主のそんな姿に何も出来ず固まる。
「貸せ!」
ひとしきり狼狽えた後、何とか落ち着きを取り戻したらしい男は女から自分の拳銃をひったくった。
「俺はアレを殺しに行く。お前はこいつらを見ておけ。逃がすなよ。お前の心臓なんかいつでも握り潰せるってことを忘れるな」
喚くように言い捨てて建物を出て行った。
男が走り去って、建物が急激な沈黙に包まれる。シン……という静寂の音が聞こえてきそうだった。
無音に支配された建物に、小さなため息が一つ響く。
「ああ、本当に不愉快な男ね。自分が神にでもなったつもりかしら。私達がいないと何にも出来ないくせに偉そうに」
それは女の吐き捨てるような言葉だった。燐が何か言う前に、顔を彼女の方に向ける。
「ねえ、そこのあなた。もし私に同情してくれるなら、何でも良いから武器を貸してくれない?」
「え、あ、ああ。僕らを攻撃しないならそれは勿論構わないが……。僕はここから動けないぞ」
「ありがとう。ああ、さっきそこの子が落とした拳銃、丁度良いから借りるわね」
「何するつもりだ?」
「あの男を殺すの。今までこんなチャンス巡ってこなかったもの、逃すわけにはいかないわ。私がアイツを殺せば、あなたを捕らえるその忌々しい陣も解けるはずよ」
「…………そうか」
顔を隠している女の表情を伺うことは出来ないが、揺るがない決意のようなものを感じ取った燐は、それ以上聞くことはしなかった。
「あの子を解放した呪術師にもし心当たりがあるのなら、お礼を言っておいてちょうだい。無茶させないで、とも」
「僕の知っている呪術師はさっき言った奴だけだ。心当たりはない。が、もし出会うことがあったらな」
「そう、残念ね。お願いするわ。……じゃあ、私はそろそろ行くけれど。あなたのご主人サマ、私のと比べたらマシだと思うの。希望は持っておいた方が良いわ」
女は建物の入り口付近に落ちていたレノの拳銃を拾う。レノに撃たれた際に銃口に付着した、自分の血を拭った。
「殺した後はどうするんだ?」
「……私も死ぬわ。そういう呪いだもの。でも良いの。もう決めたことだから」
「…………」
黙った燐を背にして、女は建物を出て行った。
(主人を殺したら自分も死ぬ呪い、か。そういうものもあるとはな。……結局、僕のは何なんだ)
彼女の疑問に答えられるものはいない。
程なくして、燐の体から紋様が消えた。あの女が成し遂げたのだろう。
赤黒い光を放っていたそれはどす黒く変色し、バラバラと崩れるように消えていく。陣も同じように変色し、ただのチョークで書かれた円へと戻った。体も自由になる。
やっと動かせるようになった体を解しながら、安堵のため息を吐いた。立ち上がってレノの元へ向かい、心音を確認する。
異常がないと分かると、マスクを外して呼吸しやすいようにしてやる。前髪も上げて、シャツの首元も開けた。何となく風通しを良くしてやった方がいい気がしたからだ。
(相変わらず綺麗な顔してるな)
妓楼の時と同じ顔がオリジナルの配色で目の前にあるので、またしても目の色が気になり出す。このまま目を開けてくれれば、それが見られるだろうか。
「おい、レノ。いつまで寝てるんだ。もう全部終わったぞ」
しばらく待ってみたが起きないので、肩を叩いたり体を揺すったりを試みる。
「ん」
何回か繰り返す内に、ピクッと瞼が動いた。顔を顰めて喉に手をやると、青銀の繊細な睫毛に縁取られた目がさっと開いた。
その瞳は、鮮血のような赤だった。透明感のある鮮紅色。睫毛の色とのコントラストでより一層映えて見える。
思惑通りにはなったが、少し拍子抜けする。
(隠すような事なんてないじゃないか)
『上司に気持ち悪いと言われた』という位だから、さぞや奇妙な色なのだろうと思ったのだが、全く綺麗である。そう思いつつも、それを言うことはしない。
「!」
しばしぼうっとしていたレノは、我に返ったようにガバッと上半身を起こした。腰に手をやって、拳銃がないことに焦る。
「レノ、大丈夫だ。もう終わった」
「……どういうこと?」
寝起きの今何時状態になっていた彼はピタリと動きを止めて、咳をしながら掠れた声で問うた。そんな彼に、彼が気絶している間に起きたことを説明する。
「――という訳だ。よく分からないが、あちらも一枚岩ではなかったようだな」
燐の話をレノは不機嫌そうな顔で黙って聞いていた。
「体調は大丈夫か?」
「大丈夫なわけない。喉ガサガサだし、頭痛いし。君は全然何にもなさそうだけど」
「まあ、僕は何かされそうになっただけでされてはないからな」
「はあ、これだから式神と一緒の任務は嫌だって言ったんだ」
真っ赤な瞳を細めながら文句を垂れる。しばらく座ったまま眉間を抑えたり発声を確認したりした。
それから、自分の視界が妙にクリアなことにようやく気付く。
§―――§―――§
「……もう本当最悪」
「何がだ。急にどうした」
「人の秘密を勝手に見るとかさぁ……」
「ああ、悪かったよ。でも気になって仕方がなかったんだ。結果、別に何てことなく綺麗だってことが分かったし、僕としては良かったと思ってるが」
「君は良いだろうけどさ」
行きと違ってサングラスをかけずに運転するレノは、諦めたように頭を振った。




