第15話 調書
夕方頃。
ようやっと郵便物の仕分け作業を終えた弑流は、先程来たばかりの回覧を読んでいた。
それは少し前に終わった嘉月の取り調べ調書だ。五枚ほどの書類に多量の字で情報が詰め込まれている。
普段はこういった個人情報は回ってこないのだが、今回は調査部にも必要な情報ということで本人から許可を得たそうだ。
一枚目は正面からの顔写真と嘉月についての情報、来歴など。二枚目以降は喧嘩事件に関することの質問と回答が交互に並んでいる。
たくさん喋ったおかげで嘉月とは親しい雰囲気になれたが、考えてみれば会って数日の関係だ。彼の詳しいことについては何一つ知らない。よって、興味津々に読み始めたのだが。
一行目から早速、予想だにしなかった事実が飛び込んできた。心臓が嫌な感じに縮む。
しばらく硬直した後、レノの方にそそっと寄る。小声で話しかけた。
「レ、レノさん……あの方、女性だったんですね……。自分、てっきり男性だと思って話してしまったんですが」
「らしいね。僕もそこまで気にしてなかった。でも別に良いんじゃない? 向こうも訂正してこなかったんだから」
「そうですかね……そうかもしれません。次会った時、それとなく謝っておきます」
「うん……あー、いや、やめておいた方が良いと思う」
「えっ、そうですか?」
「僕はそういうの詳しくないけど、あの人は多分そのままが楽でそうしてるって感じ。気にしてないことで謝られるのは逆に嫌なんじゃない? そういう手合いは知らないフリしとくのが一番楽で面倒くさくない」
「うーん、そういうものでしょうか?」
「君、燐を最初に男だと間違えたんでしょ。その時、彼女は別に気にしてなかったんじゃないの」
「それは確かに。というか俺、二回も間違えちゃったんですね……。気を付けないと。分かりました。見なかったことにします」
「ま、視覚情報を鵜呑みにするのは良くあること。僕はそういうの嫌いだけど、性別に関しては気にしたことなかったから同罪。人を性別で見たことなんかないし」
レノは机の整理をしながら片手間に答えた。そこには何らかの思惑があるようには感じられない。本当にそう思っての助言のようだ。
彼の言う通り、目のある生き物はその目に映ったものを信じがちだ。しかも瞬時に脳で判別するため間違えやすい。弑流は見た目で性別を決めつけてしまったことを悪く思ったのだが、ありがちなことらしい。思えばフルム人だって肌の色でそうと決めつけているが、東極生まれ東極育ちの二世もいるかもしれない。今まではネガも嘉月もたまたま移住者だったから良かったものの、そうでなければ非常に失礼なことをすることになっていた。
「レノさんは恋人とか作らないんですか?」
「? いや、作らないっていうか、知らないっていうか」
性別で人を見ないということは恋人の性別も気にしないのだろうか。そう思って何気なく聞いてみるも、眉根を寄せながら首を振られた。
「あんまり興味ない感じですか?」
「まあ、うん、そう」
「レノは貰った恋文捨てちゃうタイプですよ~」
歯切れの悪くなったレノを、弑流の反対側からシャルルが茶化す。
「ええっ!? そうなんですか? というか貰ったことあるんですね、やっぱり」
「な、シャルルお前、言うな!」
ぶわっと顔を赤くしてぷいとそっぽを向いてしまう。
「みなまで言ってないでしょ~?」
その後、楽しそうなシャルルが何かを言っても、レノは完全に無視をして一切こちらを向かなくなった。余程恥ずかしかったらしい。
先輩達の様子を微笑ましく眺めながら、続きを読み進める。来歴には、東極に来た日とその後の職業などが淡々と書かれている。
中でも気になるのは今の職業だ。肩書きはいくつかあるが、最も最近のものには『高等教育・学問研究所 東極古典・歴史民族学専攻 特級講師』と書かれていた。長い肩書きだ。要は、学問の中の一分野をひたすら探求する職業で、その分野を特に極めた人ということか。
「講師」とは自分の生徒を持ち教鞭を取れる人だが、特級ともなれば最上級の立場だ。他とは桁違いに頭がいい、もしくは一分野に精通しているということになる。
(しかも先生だったのか……言われてみればそうかもしれない)
魚の解し方を分かりやすく教えてくれたことを思い出す。当然、専門外の指導のはずだが、言われたとおりにやるだけで面白いように解れた。教え上手な理由が職業だったとは。
ただ、全く縁のない仕事で、雲の上の話のためか肩書きの凄さがよく分からなかった。単に“なんか凄い”ということだけが理解出来る。
冷静で理性的な態度と「本が好き」「東極の気候や風土が好き」と言っていたことを考えれば、今の職業も納得だ。とはいえ、フルムからやってきて他国の文化を探求した上、それをその国の人間に教えられるまでになるのは少しやり過ぎだと思うが。いくら好きでも限度というものがあるだろう。正直なところ、高等教育・学問研究所まで学びに行く人は東極人でもほとんどいない。普通は小等学校、中等学校、高等学校ときて、高等教育所に行くかどうかといったところだ。高等学校までしかいかない人も多くいる。
だというのに、更に学問研究所の講師になり、特級まで上り詰めるとは。かなりの物好きだ。一体、この国の何をそんなに気に入ってくれたのか。
また、その立場で派手な入墨を入れるのは問題ないのだろうか。聞きたいことは山積みだが、それに回答できる人は今ここにはいない。
気になりすぎる経歴等々を押し込めて、ようやく次のページへ進む。
質問形式で書かれたそれらは、実際に身辺調査部が尋ねたことと、嘉月が答えた内容そのままだ。恐らく書記がメモしたことをパソコンで書き起こしたのだろう。個人情報はさすがに消されているが、質問には現在の生活から住んでいる場所、日々の行動など細かいことも載っていた。入墨を入れた店の名前まで載っている。
事件に関係ないと思われることも詳しく聞くらしい。そういった情報から別の何かが判明することもあるからだろう。
結局、事件関係の質問まで来るのに二、三ページ費やした。弑流と嘉月が出会った店のことも書かれており、どうやら店主の娘が嘉月の生徒らしい。懇意にするわけだ。とはいえ、あの性格の店主がそうするということは教師としての腕が良いに違いない。弑流の予想として、恐らく褒めて伸ばしてくれるタイプだ。
事件について、嘉月の回答は主に三つ。
一つ、仕掛けてきたのは東極人二人の方。
二つ、改造スタンガンは捨てた。
三つ、レノの追跡は隠れてやり過ごした。
一つ目は予想通り。例え自分が悪くても、易々と自分が悪いですとは言わないはずだ。
ただ今回は相手方と店の人間が「嘉月が悪い」と言っているようで、かなり不利である。連行された数人の取り巻き達は全員東極人の味方をした。ネガを刺した女性までも、「嘉月が怖かったせいでネガを刺してしまった」と証言している。多数決で言えば完全敗北も甚だしい。
二つ目も、まあ予想通りだ。医者の見立てに間違いはなく、威力の高い違法なスタンガンを持っていた。そして、使用後に捨てた。証拠隠蔽のためだろう。実際の所、捨てたのはそのスタンガンが使い捨てだったからのようだが、そうでなくともどのみち捨てたに違いない。持っていても不利なだけだ。
スタンガンについては一応弁明があった。いざというときの護身用で、確実に逃げるために一回きりで威力の高いものを選んだらしい。そして帰宅後、きちんと分別してゴミの日に出したとのこと。そこら辺に不法投棄したわけでもないし、事件から既に時間が経っているので回収は不可能だ。本人は不可抗力で正当防衛だったと述べている。
なお、所持していたスタンガンは一つだけで、最初に倒した男には使用していないそうだ。ではどうしたかというと、掴みかかられた勢いを利用してそのまま後ろに投げ飛ばしたらしい。帰り際の出来事だったため、東極人は開いていた入り口から外へ放り出され、頭を打って気絶。激怒した二人目が嘉月を外まで引きずり出して胸ぐらを掴んでいたところへ、弑流たちが出くわした。そんな流れだったようだ。実際、一人目の男は頭にこぶが出来ていたと補足が書いてある。
本当に相手の勢いを利用してそうなったなら、余程の勢いで掴みかかられたことが推測できる。嘉月は肉体的にそれほど屈強ではないからだ。
三つ目は謎のまま放置されていたことだった。逃げた嘉月をすぐに追いかけたレノは、角を曲がった先で何も見つけられなかった。忽然と姿を消していた。
事件後、レノは地図を使って隠れられる場所や逃げられる通路を探していた。しかし、そこは本当に何の変哲もない路地で、見てもそれらしい情報は得られなかった。他にも調べたいことは多かったため、結局答えは出せなかったのだ。
調書によると、嘉月は曲がってすぐの角裏にあった窪みに隠れていたらしい。建物の構造的に言えば四つ角にある外柱の裏だ。
初歩的なことだが、効果的に撒ける方法を使われたようだ。早歩きで立ち去ることで、曲がった後も同じ速度で歩いているものと錯覚させる。脳は無意識に『この速度なら曲がった後でもまだ背中が見えるはず』と計算をしているので、その予想に反すると突然姿を消したように見えるという寸法である。後は追跡者が諦めて戻るか、更に追いかけていった後に機を見て逃げ出すだけだ。あの状況で咄嗟に出来るあたり、随分逃げ慣れている。
「レノさん、そういえば地図にはここって……?」
「……載ってない。建物は箱形でしか描かれてないから」
「あー、やっぱりそうなんですね……」
「上手いこと逃げられた。次は角の裏も確認する」
完全に不機嫌なレノはそれ以上答えない。
事件関係の質疑応答はそれほどなく、二ページ未満で終わった。本当はもっとあったのかもしれないが、渡されているのはここまでだ。残りは身辺調査部の所感や備考などが書かれている。
そこには事件当時、なぜ嘉月に護衛が付いていなかったのかについて触れられている。弑流たちは所在が確認されていないフルム人だからかと思っていたが、学問研究所の特級講師ならそれはない。そこまで地位のある人を把握していないはずがない。
では何故なのか。理由は簡単で、人手不足の警察局が嘉月の警護を後回しにしたからだ。というのは、学問研究所には既に警備員が手配されている。講師たちは基本的に自室を持っていてそこで生活しているため、研究所内にいる分には警護は必要ないのだ。食事も研究所内で摂れることもあり、しばらく警護はいらないと判断されたのだった。
運の悪いことに、嘉月が研究所の外まで食事を摂りに行く人だったというだけであった。その上、研究に没頭するあまり警察局からの注意喚起文にも目を通していないというおまけ付きである。
続いて、嘉月のことを直ぐに突き止められなかった理由も記載されている。これは簡単なことで、弑流たちが嘉月を男だと認識していたからだ。そして喧嘩していた東極人も現場にいた東極人も全員同じく「フルム人の男」と口にしており、報告書も当然「男」表記だった。よって、情報管理部でも照合が出来なかったのだ。
実際、弑流たちは局のデータベースで登録されているフルム人を調べた。調べたが、フルム人男性の情報ばかりを探して、女性の方はほとんど見ていなかった。そうして情報が照合できないうちに弑流と嘉月が出会ったため、調べる必要がなくなったのであった。
『人を見た目で判断するのはやめた方がいい。それで損をすることもある』。
これは嘉月に言われたことだが、全くもってその通りになった。
回覧を読み終えて、今回の事件は突発的に起こったことだとほぼ確定した。指示役がいたりだとか、フルム人差別の過激集団の一員だったりだとか、何らかの思惑が働いていたわけではないようだ。東極人二人は嘉月が店に入った段階であからさまに因縁を付け出し、絡んできたというが、凶器になるような持ち物は何も持っていなかったことから計画性は皆無。また、一人目が倒されたため二人目が攻撃しようとはしていたが、弑流たちが止めに入るまでに時間があったにもかかわらず、まだ手を出していなかった。胸ぐらを掴むのが精一杯の脅しだったのだろう。
よって、敵意はあったとしてもそこまでの度胸はなかったとみえる。
たまたま居合わせた東極人が噂に踊らされて手を出した、というのが最もそれっぽい。
「東極人お二人の事情聴取記録は見せていただけないんですかね?」
「今のところは。むやみやたらに個人情報を共有するのは良くないってことだろうけど、調査してんのはこっちなんだからさっさと寄越して欲しいよね。無駄が増える」
「ですよね。両方分かった方が色々助かりやすいのに……」
東極人は全面的に嘉月のせいにして詳しく話さなかったようなので、共有できる情報がなかったのかもしれない。
「嘉月さんを捕まえれば事件がちょっと見えてくるかな、と思いましたけど、全貌に関しては何も分からず、ですね」
「うん。正直、全部こんな感じだと思うけどね。連続殺傷事件じゃなくて単発があちこちで起こってるだけ。とっとと噂をなくすのが最善じゃない?」
「それが一番効果ありそうですね。まあその、調査部だけでは厳しそうですが……」
言いながら、回覧をシャルルへと回す。機嫌が落ち着いてきたレノを見て、先程から会話に入りたそうにそわそわしていた彼は、受け取るなり熱心に読み始めた。
「そういうのは上が考えることだ。どうせ計画考えたって許可出すのは上なんだから」
嘉月の調書は上にも勿論共有されているはずで、今後どういう対応が取られるのかは上次第だ。調査部は連絡待ちになる。
当初はネガの護衛だけのはずだったのだ。ここまでやっただけでも大分貢献できたと言えよう。
§―――§―――§
次の日の業務終わり。
弑流は局内図書館へと足を向けた。入館許可証を渡した相手がいるのではと期待したからだ。
果たして、深く探すまでもなくその人は見つかった。集めた本の山に囲まれ、手元にメモ帳を置きながら読み漁っている。
普通、事件の関係者はここまで自由ではない。牢屋に入ることはないが、基本監視付きで行動が制限される。嘉月が自由にさせてもらっているのは恐らく事情聴取の内容のせいだろう。
身辺調査部の所感には『質問回答に協力的で、内容も齟齬がなくはっきりしている。他の被疑者と比べても信憑性が高い』とあった。よって警戒値は低いらしい。
近付いていくと、気配に気付いたようで顔を上げた。いつもと同じ、眉間に深いシワを刻んだまま、
「ああ、君か。早速使わせてもらっている。ここは素晴らしいな」
「こんにちは。お気に召したようで何よりです」
顔とは裏腹に、読書を楽しんでいる様子が目に見えて伝わってくる。改めて見ても、寡黙な男性にしか見えない。まじまじと顔を見つめる弑流に対して、嘉月もしばらく見返した。その間、弑流はその薄い紫の瞳と、毛先だけ黒い白髪を眺めていた。
「君は本ではなく私に用があるようだな」
「……あっ、すみません、じっと見てしまって。会えるかなと思って来てみたら、やっぱりいらっしゃったものですから」
「そうか。生徒以外で会いに来てくれる人というのが新鮮なものだから、不思議に思ってしまった」
「そうなんですか。いや、実は大した用はないんですが。調書を読みまして、講師をやってらっしゃると知ったもので。少しお話したいなと思った次第でして」
「成る程。そういうことなら移動しよう。ここでは迷惑になる」
控えめな声で話していた嘉月は、納得したように頷くと手早く本をまとめた。一旦席を外して何処かへ行き、図書館貸し出しの台車を持ってくる。机にあった本と手帳を全て乗せて、着いてくるよう促した。どこへ向かうのかと思えば、行き先は図書会議室だった。入り口の扉を閉めれば、利用者がいない限り個室になるし、会話も気兼ねなく出来る。まだ利用し始めて二日目だと思うが、既に色々把握しているらしい。
誰も使っていなかった『図書会議室I』に入り、扉を閉めて机へと向う。これもかなり手慣れていて、二日の間に長時間来ていることが窺える。
「そっちに座ってくれ。私は反対側へ座る」
「ありがとうございます。なんかすみません……お邪魔してしまって」
「いや、気にしないでくれ。例え少しでも、ああいう静かなところでは存外響く。誰が耳を傾けているとも知れない場所で小声で話すのは、些か窮屈だ。それに私も読んでばかりいては気が塞ぐからな」
「お気遣い感謝します」
「いい。それで、何か聞きたいことは?」
「えー、そのー、実は話題もあまり考えていなくて。ふらっと来てしまったというか」
本当は無意識に嘉月の見た目を見に来たのだが、弑流が意識した訳ではないため、脳裏には浮かばない。話題もなく遊びに来て、読書の時間を邪魔してしまったのが少し罪悪感を生んだ。
調書に書いてあったことで、何か話題になるものはないか。
つなぎ言葉を多用して間を持たせつつ、話題を探してみる。しかしこういう時というのは焦った脳が無駄な回転を続けるために、全く何も浮かんでこないのであった。
目を左右に振りながら困っている弑流を、嘉月はしばらく眺めた。一分ほど待って、
「ではそうだな、私が何故このような紛らわしい格好をしているか、という話題は?」
相手の無意識を表へ引っ張り出した。来て直ぐに自分を観察していた相手の意図など、嘉月には手に取るように分かる。
「え……それは……聞きたいですけど、良いんですか?」
「まあ、人によってはデリケートな問題だろう。ただ、私は別に気にしていないし、君や他の人が私を男だと勘違いしていても、特に問題はない」
核心を突かれてどきりと心臓を縮ませながら、弑流は謝罪の言葉を飲み込んだ。気にしていないというのなら、謝るのは逆に良くない。レノの言葉を思い出した。
何か言う前に、嘉月は『それに、』と続けた。
「私の生徒たちも皆、初めの講義で聞いてくる。君は生徒ではないが、初めの話題としてはちょうどいいはずだ」
「そうなんですか。……分かりました。実を言うと、とても興味があります。嘉月さんは女性ものの服も似合いそうですから、どうしてあえて男性的な格好なのかなと。もちろん好みだから、ってことはあると思いますけれど」
「好みか。それは確かに間違っていない。私は何もかも父似なんだ。顔も性格もしゃべり方も、だ。母も男性的な人だったからどちらを継いでも同じだったかもしれないが、その二人の子供だからこうなるのは必然だ。服も、可愛らしいものよりはこうした実用的でシンプルなものが好みだな」
嘉月は今日もシャツにベストにスラックスだった。食事の時はラフだったが、普段はこっちの格好なのだろうか。
「俺から見ても――いえ、自分から見てもとても良く似合ってらっしゃいます」
「そうか。ありがとう。うん、そうだな、一つ目の理由はこれだ。単に私が男性的な性格で趣味もそうというだけだ」
一番簡単で納得出来る理由だ。人の格好なんて正直なところどうでもいいわけだが、あえてその格好なのは何故かといえば、『趣味だから』だ。
頷きかけて、そのまま首を捻る。
「ん? 一つ目? 二つ目があるんですか?」
「ああ、ある。講義で話をするときは、ここからが本題だ。君は生物学には興味はあるか?」
「う、うーん? すみません、自分はそれほど学問が出来るわけでもなく。ただ、動物は凄く好きです」
「成る程。十分だ。まず、生物には雌が強いタイプと雄が強いタイプがいる。それは知っているか?」
「それなら何となく。あ! もしかして人間は雄が強いタイプ、ですか?」
「ああ、その通りだ。察しが良い。結論から言えば、男性だと思われた方が色々と有利だから、こういう形をしている」
嘉月は満足そうに頷きながら、本の山から一冊を取り出した。それは簡単な生き物図鑑で、虫や魚が載っている。
「例えばこの蟷螂という虫。これは雌が強いタイプで、体の大きさは雌の方が大きい。しかも雌は雄を”他の虫”としか認識していない。よって、雄が不用意に近付いた場合、餌と間違えて食べてしまう。子孫を残そうと近付いた結果、下手をすればただの食事となるわけだ。世知辛いな」
「うえぇ……そんなことがあるんですね。その、動物は好きなんですけど、虫はちょっと苦手で。あんまり詳しくないです」
「ああ、そういえばそうだった」
はたと思い出したように瞬きをして、おもむろに左手を突き出してきた。そこには黒々と脚を伸ばす蜘蛛が張り付いている。
「うわっ、ちょっと嘉月さん!」
思わず仰け反った弑流を見て、嘉月の口の端が微かに上がる。『ニヤリと笑う』という言葉がぴったりな、意地悪な笑み。厳しそうな雰囲気とは裏腹に悪戯好きなのだろうか。
「すまない。君は面白いな。……ああ、本題に戻ろう」
「もう、次はやめてくださいね? 偽物だって言っても、苦手な人にとっては本当に無理なんですから」
ぷんぷんと腹を立てている様子の弑流を愉快そうに見る。
「理解している。少し魔が差しただけだ。それでまあ、蟷螂の話は極端な例だが、自然界では雌が強いタイプが多い。何故かと言えば、子孫を残すためには彼女たちが必要不可欠だからだ。鳥なんかも雌に気に入られない雄は子孫を残せない。よって、必死でアピールする」
「あー、言われると鳥はそうですね。求愛して雌が気に入ればカップル成立、みたいな」
「そうだ。で、さっきの話に戻るのだが、人間は何故か雄が強い。これは古代の狩猟生活が原因で、子孫繁栄よりさらに根本的な『食事』を確保出来る、肉体的に強い男性が有利になったのではと考えている。ただ残念ながら、私の専攻ではないので折り紙は無しだ。話半分で聞いてくれ」
嘉月は淡々と、でもどこか楽しそうに話す。
それを見るだけでも彼女の、いや彼の学問好きがよく分かる。知識を追い求めることが楽しくて仕方がないのだろう。
弑流が彼の職業に納得している間も、彼の口は止まらない。
「群れの中で強い雄個体がリーダーとなり、数匹の雌を引き連れることが自然界ではある」
これにも二種類あり、雌の群れに雄が“居させてもらっている”タイプと、雄が雌たちを完全に支配しているタイプがある。例えば繁殖の時期などであれば、前者は雄がアピールして雌が選ぶ。後者は雄が選び、雌にあまり拒否権がない。
嘉月の考えとして、人間は恐らく後者である。現在では女性から選ぶことも多いし、必ずしも男性優位ではない。しかし、潜在意識的な根っこの部分で過去の習性が残っているのではないか。と、嘉月は言った。
「とにかく人間の場合、多くの事柄において”男性”の方が生きやすい。勿論例外はあるが」
「なるほど。だいぶ分かってきました」
「それは良かった。ただ、この格好が好きで楽だから、という前提は付く」
嘉月によれば、学問の分野では特に女性軽視傾向が強いらしい。
「ここに本がある。君ならどちらを読む?」
弑流に向けて机へと並べたのは、厚さがほぼ同じ二冊の本。先程読み漁っていたものから取り出したものだからか、タイトルが小難しい。だがほとんど同じ内容が書かれた本のようだ。明確に違うのは作者の名前のみ。
何かを試されていることは分かるが、このどちらを選ぶのが正解なのかは全く分からない。とりあえず、タイトルが読みやすい左を選んだ。
「こっち、ですかね」
「ほう、成る程」
「あれ、違いましたか?」
「いいや。正解なんてない。どちらを選んでも問題ない。ただ、君が選んだ方は女性が書いた学術書だ。右は男性が書いている」
「? つまり?」
「ああ、君はやはりそういうタイプではないようだ」
「と、言いますと……」
「学問の世界には『女性が書いた』というだけで拒否反応を示す学者がそれなりにいる。今の場合、君は左を選んだが、その後にそれを女性が書いたと知るや、右を選び直す人間が多くいる」
「えっ、そうなんですか」
わざわざそのようなことをする意味が分からない。
「そうだ。これも先程の習性の名残では、と思うのだが、男性が書いたものの方が信憑性が高いとか、尊敬できるとか思い込んでいる傾向が見受けられる」
理由として、先程の狩猟生活が原因だとする説をもう一度挙げた。
肉体的に力の弱い女性は専ら子供や家庭を守ることが多かった。よって戦略を練って獲物を仕留めようとする男性の方が知能が高い、頼れる、などと、すり込まれているのではないか。嘉月はそう推察している。
「それと関連してなのか、女性が書いたものを下に見る傾向も強い。これは評価者の性別限らずだ」
「女性でも、女性の研究とかを下に見ることってあるんですか? 同性なのに」
「非常に不思議なことだが、ある。やはり男性の方が頼れるのだろうか? この謎は私には解明できないな。知りたいことが多すぎてとてもじゃないが知りきれない。……まあ、そのような理由でこの姿の方が楽だ。せっかく研究した内容を、性別などというどうでも良いものが原因で見てももらえないなんていうことは、非常に不利益だ」
「なるほど、とてもよく分かりました」
「ああ。とはいえ先程言ったように、元来このような性格なので、妙に演技しているということはない。自然体でいるだけで相手は勝手に勘違いをしてくれる。お得だな」
「自分も見事に勘違いしましたからね」
「何よりだ。……そういえば、小説分野でも作者が女性だと知ってがっかりする、という話をたまに聞く。専門外だからその理由は私には分からないが」
特級講師になるには相当な努力がいるはずだ。嘉月の場合、フルム人でありさらに女性であるというハンデが付いており、並大抵の努力では済まないだろう。二つ目のハンデが軽減されるだけでもかなり楽になりそうだ。
それにしても、彼の話は弑流にとって非常に面白いものだった。小難しい話も挟んでくるが、例もあるし分かりやすい。
「嘉月さんの専門分野はどんな内容なんですか?」
「簡単に言うと、古い東極のことを調べている。今の東極人がどこから来たのか? とか、東極語がどんな言語だったのか? とかだ」
「それは、何故その分野に?」
「大変興味をそそられたからだ。道中のシグルドリーヴァでは長居が出来なかった。華宮にも寄ったが、あの国は閉鎖的かつ堅苦しくて研究には向かなくてな。比べて、その次のここ東極は住み心地が良く、長居をするうちに本というものに取り憑かれてしまった」
「へえー……そう言われると、何だか嬉しいです。他のフルムの方もそういう理由で留まってくださっているなら、嬉しい限りですね。そうなると昨今の事件が大変申し訳ないのですが」
「君が気にすることではない。ここが東極でなくても同様の事件は起こりうるのだから」
「それも少し悲しいですね。もう少し理解が広まればよいのですが」
「人の考えはそれぞれ違う。仕方のないことだろう」
諦めでも何でもなく、しっかりと事実として受け止めているようだ。
「……話は戻りますが、本ってフルム人にとっては珍しかったりするんですか?」
「実を言うと、フルムには”文字”がない」
「えっ! そうなんですか?」
「ああ。というのも、あの環境下では文字は必要ない。言葉だけで事足りるし、そもそも字を書く場所がほとんどない。書くなら植物の葉などだが、あれはフルム人にとって重要な食料の一つでもある。何日も水のみで過ごすこともあるからな。耐えきれずに道中で死んだ仲間をいただくこともある」
「…………」
「よって、初めて本を目にしたときの胸の高まりは言葉では言い表せない。何とか読み解きたくて、文字の勉強をする内にどんどんハマってしまったというわけだ」
「何というか、自分が如何に恵まれた環境で生まれたかというのがよく分かりました」
「良かったじゃないか。どこで産まれるかは自分で決められるものじゃない。ここで生まれたことを素直に喜ぶべきだ。ただ、それをどう活かすかは君次第だがね」
嘉月の瞳がじっとこちらを見る。黒い肌の中にある薄い色の瞳は、夜に浮かぶ月のように静かだった。
ただ瞳を見つめ返すだけの弑流に、彼は『最後に』と前置きして話を続ける。
「東極の先住民を君は知っているか?」
「ん……ああ、はい。鬼、ですか?」
「そうだ。だが、彼らが本当に”鬼”という名前なのかどうかは、考えたことはあるか?」
「いや、ないですね……というか、疑ったことがないです」
「だろうな。実は、フルムにも”オニ”という言葉がある。ほとんど使われないので詳細は不明だが、大きな化け物、と言う意味だ」
「フルムにも?」
「ああ。そこから考える結果として、鬼を”鬼”と呼んだのは、移住してきた人間ではないかと思うんだ。彼らの本当の名前は別にあるのではないかと」
「なるほど、確かに。となると、本当はどんな名前なんでしょう?」
「ほら、興味をそそられるだろう? 私もまだ研究途中だ。もしも君が鬼に会うことがあれば、すぐ私に知らせて欲しい。本当にいるなら是非直接聞きたいからね」
そんな嘉月の提案に二つ返事で了承した。尤も、そんな機会などないだろうが。
話も一段落したところで、弑流はお暇することにした。嘉月の話は面白く、いつまででも聞いていたいくらいであったが、これ以上邪魔するのは気が引けた。毎日ここに来るなら今後いくらでも話が出来るだろう。
明日はネガの見舞いに行く予定だ。多少であれ、元気になっていると良いが。
そんな気持ちのまま、嘉月に別れを告げた。
tips:
高等教育・学問研究所=大学院
特級講師=教授
高等教育所=大学
・階級
特級講師
上級講師=准教授
講師=講師
准講師=助教
助手=助手




