一、白い雪に暴食
浮世に蔓延る妖しき影を、人は決して許さない。
深々と雪が降り積もる江戸の街を、一人の少年が駆け抜ける。防寒の一つもせず、着るものは襤褸の継ぎ接ぎで足は裸足。いかにも貧相な格好で頬骨が浮き上がっている。肌には寒さで赤くなってしまい、箇所によっては紫色で痣のようだ。そして、最も目に止まるのは彼の手だ。何かの入った袋を力強く握りしめる右手。そして反対、恐らく切断したのだろう。左手の薬指は第一間接までしかなく、小指は付け根までなくなっている。痛々しいと言うより、不思議な生き物の手みたいで、まるで欠けた手だ。少年は無表情のまま雪の中をザクザクと音をたて、足跡を残しながら走り続けた。そして遂に、ある荒屋の前で止まった。風が吹けば飛びそうな木造のおんぼろ小屋。屋根に積もる雪の重さが心配になる。少年は左手の人差し指で小屋の戸をコンコンと二度、突っついて
「戌の守りし」
と小屋に向かって小声で言った。すると戸の向こうから声が返ってくる。女の声だ。
「菊の花、百鬼が目指すは」
「菊の元」
少年はそれに、間髪入れずに答えた。暗号だったのだろう。戸がスーッと開いて、中から可憐な少女が現れる。綺麗な黒髪と長い睫毛。銀色の花びらを模した耳飾りは見る人に大人びた印象を与える。丸みを帯びた整った顔が微笑む。少年を見上げる彼女の笑顔は美しい。白粉でも塗ったかのような白い肌に、深緋の潤んだ瞳。まるで兎のような少女だ。だがそんな彼女も少年と同じく痩せこけていて、継いで接いだだけの襤褸に加え、毛布のようなものを纏っている。彼女もまた、良い暮らしをしている様にはとても見えない。
「ただいま」
「うん。外は冷えるでしょ、ギン。それに夜は妖も出るかもしんない」
「妖が出たら中も外も関係ないよ。あと寒さには馴れた。キクノこそ大丈夫?」
「私は大丈夫」
ギンは小屋の中に入り、左手を背後に回して器用に戸を閉めた。そして右手に握っていた袋をキクノに投げる。キクノはそれを「おっとと」と言いながらギリギリでキャッチする。二人は土間から裸足のまま居間へ上がった。そこにあるのは薪がパチパチと音を立てる囲炉裏だけで他に部屋はない。質素な小屋だ。ギンは囲炉裏の前で胡座をかいて、火に手を翳す。その反対にはキクノが膝を抱えて座る。キクノは足を抱えた手に持った袋の中身を前のめりになって覗いていた。
「今日は多いね、これだけあれば一ヶ月は持つ。いつもありがとう」
キクノが袋の中身を少し手の平に出す。中身は米だった。量は拳一つ分もない。普通は一ヶ月も持たないのだろう。
「もっと喜ぶかと思った。普段と比べればかなりの大漁なんだけどね」
「いつもが少なすぎるの。それに喜ぶと疲れる」
「そっか」
キクノは慎重に米を袋に戻している。その姿に見惚れるギン。やはりキクノは綺麗だ。この想いを告白したら彼女は喜ぶだろうか。いや、「喜ぶと疲れる」とか言うんだろうな。ギンは溜め息を吐いた。
「叶わないな」
「ん、何か言った?」
「なんもないよ」
キクノとここに住み始めて四年。体の弱いキクノは基本的に小屋の中にいて、ギンが外で食料調達をする。そんな代わり映えのない日常が、何もないまま四年続いた。何もないまま。そうか、何もないのか。この先、一年二年じゃ利かない。一生はまだ長い。その間ずっと、何もない。なら何のために、キクノを連れて故郷の村から逃げたんだ。
「ただいま」
「うん。今日も寒いね」
「うん」
「収穫は?」
「今日は金、掏った奴が貧乏すぎてたった十文しかなかった」
「あら、そう」
キクノはいつも無関心だ。囲炉裏ではパチパチと火花が舞う。外ではゆらゆらと雪が降る。何故かギンは、小屋の中に入ってもまだ、寒かった。
「私ばっかり暖かい小屋の中にいて、ごめんね」
キクノから何か言うのは珍しいのに、ギンにはそれが嫌味に聞こえた。
「いいんだよ。俺は馬鹿で、馬鹿は風邪ひかないから。それより体は大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。死が近い。もうすぐ私はこの病に殺される」
「うん、え?」
突然告げられたその言葉はギンの脳内を掻き乱す。
「は?え、ちょっと待って。冗談だよね」
「だからギン。その後はさ、旅をするといいよ」
キクノは冗談を言わない。それはギンの動揺にも顕著に現れていた。ギンはキクノの言うことが何か根拠があり、本当なのだろうと悟る。だがそれと同時にギンの中では更なる混乱が起きていた。
「いや、なっ何、なんで」
「私は旅をしたいから、代わりにギンにしてほしいの」
「そうじゃなくて、何で死ぬって。それに俺は」
「ギン、私はあなたの」
目を疑った。一瞬思考が止まる。キクノが何かを言おうとした瞬間、それを遮るように吐血したのだ。それも量が尋常ではない。
「キクノっ!」
キクノは床に右手を着き、左手で口を押さえている。だが指の隙間から絶えず血が溢れだし、キクノは巨大な血溜まりの上に跪く。囲炉裏の中に血が流れ、火が弱まった。
「キクノ、キクノっ!」
側に駆け寄り背中を擦るが、血が止まる様子はない。焦るギン。全身から汗が溢れる。
「クソッ、待ってろ。俺が何とかするから」
ギンは小屋を飛び出し、街を駆けた。
極寒と雪の中、ギンは走りながら助けを求める。一瞬一瞬が死を刻むように感じて、それから逃げるように全速力で走った。
「誰かっ、誰か。人が死にそうなんだ。助けてくれ」
あまりにも無力な自分に、今にも泣き出しそうになりながら走った。キクノの死がギンにとってはそれほどまでに受け入れ難いことなのだ。
「誰か、何でもするから」
ドサッ、という音。足が痺れ、痛み、立ち止まりかけたその時、頭が何かにぶつかった。人だ。
「おいガキ、慌ててどうした」
何歩か後ずさりをして見ると、それは提灯をぶら下げ、刀を携えた男。どうやら同心のようだ。細身の中年男で、白髪交じりの頭と深いしわの刻まれた顔は年相応のものだろう。防寒と言えば襟巻きくらい。頬には刀傷の跡がある。
「人が死にそうなんだ。いきなり血を吐いて」
「何、そいつはどこだ。あといくつだ」
「こっち。そんで俺は十歳」
「お前じゃねぇよ」
「ああっと、キクノも同い年だ」
ギンは足に鞭打ち走る。この緊張感で全身が熱かったり寒かったりした。小屋にはすぐ着いた。
「おい、待て」
ギンが戸に手を掛けようとすると、男が止めた。男は刀に手を掛けている。
「何だよ」
「妖の気配だ。それもかなり強力な」
「嘘だろ」
化け物がキクノの血の匂いに誘われやって来たのか。理性を失った妖は簡単に人を殺してしまう。小屋の中だろうが外だろうが関係ない。ギンの視界が絶望に眩んだ。
「ガキ、俺の後ろに隠れてろよ。じゃないと守れない」
男は警告と同時に自分のギンの服を掴み、引っ張る。ギンはよろけ、男の背後で尻餅をついた。積もった雪に身が沈む。男はゆっくりと戸を開け、静かに小屋の中へ入っていく。
「っ、こいつは」
男の刀を握る手に力が込められる。小屋の中にはキクノが一人、大量の血の上に伏していた。囲炉裏の火は消え、うっすらと煙が立ち上っている。
「キクノっ!」
男の警告を無視したギンが小屋に勢いよく飛び込み、意識を失ったキクノを見つけるとそれを抱き抱える。
「大丈夫だ、大人が来てくれた。何とかなる。だからまだ死ぬなっ」
涙ながらキクノを仰向けにし、口元に手を近付ける。まだ息がある。
「おっさんっ、キクノはまだ生きて」
ギンが後ろを振り返ると、何故か男はギンのすぐ背後で刀をキクノに向かって振り上げていた。
「なんっ」
思考する余裕などないまま、ギンはキクノを力一杯男の刀から逃すように押し退ける。
「ぇあ」
見える世界が赤に染まる。全身が凍り付くような寒気に襲われる。そして電撃のような痛みが全身に走った。狭まった視野に男は入らない。
「い゛っ」
何とか声を圧し殺す。キクノを男から遠ざけ、ギン自身も何とか致命傷は免れたものの、刀が左目を抉った。目は川の流れのように血を吐き出し続ける。視界の左半分は真っ暗だ。キクノは壁に寄り掛かり、まだ失神したままだ。顔は普段に増して青白い。キクノの少し濁った血の池にギンの左目から溢れる鮮血が混ざり合う。ギンは男を視界に捉えると睨み付けた。
「その女は妖だ。百人単位で人を殺してる。いや、もっとだな。庇うならお前も殺すぞ」
男の声はこれまでにないほど圧を纏っていた。憎悪、憤怒、恐怖。沢山の感情が宿っているのに、それでいて冷徹だ。
「キクノが妖?そんな訳ないだろ。俺は四年間キクノと一緒に生活してきた。それにもしキクノが妖だとしても殺すのは許せない」
「チッ、こんなガキが妖憑人かよ」
後頭部に衝撃が走る。男が刀の柄で殴ったのだ。
「がっ」
ギンの意識は深く沈んでいく。
暗い世界。ただ不快感だけに満たされていく。痛覚、吐気、倦怠、そして空腹。
(腹、減ったな)
食料はキクノに食べさせて、ギンは一月以上断食していたのだ。無理はない。
(美味いもん、喰いてぇ)
美味しいものの記憶は、頭の奥底にほんの一握り程度しかない。赤ん坊の頃、母に食べさせてもらった林檎飴。顔は覚えていないが、優しい母だった。故郷の村から出て祭に行った時、母におぶられながら林檎飴を食べていた。パリッと飴が割れて、中から瑞々しい林檎がやって来る。口で交ざり合う果汁と飴。
(美味っ)
もっと食べたい。もっと、もっと。バリッ、メキッ、ジュワー。食べ進めると空腹は消え、いつぶりだろうか。満腹感がやって来た。
目覚めるとそこは小屋の中だった。だが誰もいない。小屋の床にはまだ乾ききっていない血と男の刀が放置されている。なのに同心の男も、キクノもいない。
「誰か」
そう言って辺りを見回し、気付く。左目が見えている。確かに同心の斬撃が掠り失明したはずなのに、視野は広いままだ。しかしまだ少し視界の左側が赤い気もする。左目にそっと手を当てた。出血はしていないが、確かに左目を覆うように抉られた傷跡の感触がある。刀傷と言うより皮を縦に剥いだような傷跡だ。男の仕業ではないのか。何もわからない。一体何があった。夢か、それとも。
「キクノ?どこだ」
尋ねるように声を出すが返事はない。
「何で、誰も」
ギンはおもむろに小屋の外に出る。雪は止んでいた。静寂も相まってまるで時間が止まったみたいだった。
「ヴっ」
急に吐き気が襲う。意味不明な状況に混乱して気付かなかったが、腹が膨れている。ずっと空腹だったのだ。悪い気分じゃない。だが、それが逆に不気味だった。
「気持ち悪、あ゛ああ゛」
大袈裟に唸り声をあげてみる。だがそれは静寂に消えてしまう。大きな声を出すと、気持ち悪いのは本当なので吐きそうになる。
「あ゛ヴうぇえ゛オぶぇ」
込み上げる胃酸に耐えきれず、ギンは満腹感を雪の上に撒き散らした。赤黒い吐瀉物が雪を溶かし、地面に広がっていく。
「ゴホッ、コホッ」
少し噎せてしまう。喉が不快感で満たされている。まだ続く吐き気を堪えながら、ちらりとだけ吐瀉物を見ると、そこには輝く何かが沈んでいる。一体、何を食べた。食べ物なんて何もなかっただろう。徐々に下がる水位。輝く何かの正体を少しずつ露にしていく。口元を手で拭って吐瀉物を覗く。そこにあったのは銀色の花びらの耳飾りだった。キクノが身に付けていたものだ。
「ぇ、、あ」
眠っている間、何を食べたのか。答えはすぐにわかった。俺は、キクノを。視界が揺らぎ、沢山の感情が渦巻く。まさか、そんな。本当に食べたのか。何故、こうなった。どうすれば良かったんだ。息が上がって、地面が崩れ落ちるような錯覚に陥る。
『全部、あなたが村から逃げたせい』
キクノの声が聞こえる。耳元で囁くような小さな声は、とても煩い。声は耳鳴りとなって頭の中を駆け巡る。
『あなたが余計なことをしなければ、まだ生きていたかも』
「俺は、キクノの為に」
『余計なお世話よ』
「待ってよ。じゃあ何で俺はここにいるんだよ。キクノの為にならないなら、俺は」
『それはね』
キクノの幻影が胸の辺りを強く押す。
『私を殺す為でしょ』
ギンは体勢を崩し、街を流れる川へと落ちた。浅いとは言え、真冬の川だ。全身が刺されるような痛みに襲われる。だが今は気にならない。冷静に立ち上がる。水面は腹の辺りでゆらゆら揺れている。ギンは天を仰いだ。雲は流れ、綺麗な星空が広がっている。
「俺はキクノを救う為に村から逃げた。殺す為じゃ」
今度は俯く。徐々に波が消え、凪いだ水面にはギンの顔が写る。やはり左目には刀傷ではない、皮を剥いだような傷跡があり、左目は右目と比べ色が変化してしまっている。彼女の瞳、深緋の瞳だ。
「キクノ?」
ギンは泣きそうな声で自分の顔が写る水面に左手を突っ込んだ。顔は揺れて消えてしまう。それと同時に左手の薬指からブクブクと泡が沸き上がる。丁度欠けている部分だ。
「何だ、これ」
指がみるみる再生していく。薬指が生えてくる。一体どういうことだ。薬指は数秒で再生し、同時に泡は消えた。手を握ってみたりしても支障はない。川から出しても、どこからどう見ても完全に本物。感触もある。
「妖術、なのか」
妖が使う術には傷を癒すものもあると聞く。キクノの術なのか。もしかして目もその力で治ったのか。男の言うとおりキクノは本当に妖なのか。本当に食べたのか。
「はは、そっか」
ギンの乾いた笑い。それには絶望はなく、諦めが籠る。
「気付かなかった」
キクノと村を出て四年。キクノと初めて会ったのは、九年前か。結局ずっとキクノのことを知らないままだった。名前以外は何も知らない。どこから来たのか。家族はいるのか。何が好きで、何が嫌いか。全部、聞いときゃ良かった。残ったのは沢山の後悔と叶わない想い。前にもこんなことがあった。確か四年前、キクノを連れて村を出た時。遠い故郷の記憶を思い起こす。
ちゃちな木製の門の前で三人はいつも集まった。ギンと、イブキと、ツツジ。いつもの三人だ。そして三人は毎日何かをして遊んでいた。鬼ごっこだったり、かくれんぼだったり。何をするにも始まりはその門だった。そんな思い出の詰まった門から、キクノの手を引き、逃げだ。それを止めるように諭す二人を無視して、逃げた。
「帰りたい」
今更。そんな言葉が頭を過る。どこから間違えた。何が違った。
「そうか、キクノさえ」
言いかけて口をつぐむ。言ってしまえばあの時と同じだ。ギンは左の瞼をそっと撫でた。
ギンはまだ、知らない。キクノの真意を。キクノの思いを。