逃亡の先で
日が落ち周囲が次第に夕闇に飲まれていく中、アラタは必死に森の中を走っていた。
現在自分がどこに連れてこられたのかは全く分からなかったが、あのまま意味不明な話をする紳士及びメイドと一緒にいるよりは遥かにマシだと考えていた。
一般庶民の自分にこの世界を救えと言ったり、あまつさえ魔王と呼んだりしたのだ。アラタはあの2人を危険人物と認識し、何かしら面倒ごとに巻き込まれる前に逃げて人里に出たいと考えていた。
だが、あの屋敷から周囲を見たとき近くに民家らしきものはなく、只今心細い逃避行中なのである。
「くそっ! ここは一体どこなんだよ! 群馬の山の中あたりか?」
屋敷を飛び出してから森の中を走り通し、息も絶え絶えになっていたアラタは近くにあった巨木の下で一度休憩を取ることにした。一息ついた瞬間に空腹を知らせる音が鳴り始める。
「そう言えばずっと何も食べてなかったな。屋敷で紅茶を飲んだくらいか。……カツカレー食いたかったなぁー」
鳴りやまない腹の音と自らの溜息で、より鬱屈した気分になっていく。
屋敷を飛び出す前に何かしら胃に収めてくれば良かったと思ったが、後悔先に立たずとはよく言ったものだとアラタは漠然と考えていた。
「どうやらお腹が空いているようですね。とりあえず軽食を用意してきて良かったです。紅茶も用意してありますのでどうぞ召し上がってください」
アラタの左斜め後方からいきなり女性の声が聞こえ、アラタは驚きのあまりに木の幹に足をつっかえて派手に転んでしまう。
「いてて……君はさっきのメイドさん!? 一体いつの間にここに来たんだ?」
「魔王様が屋敷を飛び出してからすぐに追いかけて、そのままずっと一定の距離を保ちながら今に至りますが、それがどうかなさいましたか?」
どうやらこのメイドは、屋敷からここまでアラタを見失うことなく追いかけてきたらしい。
しかも軽食のサンドイッチと紅茶のセットを持ったままで。おまけに依然呼吸の整わないアラタに対し彼女は平然としているありさまである。
身体能力に雲泥の差があることが分かり、彼女から逃げ切ることは不可能だとアラタは実感した。
そのように頭では深刻なことを考えていても、グゥ~と腹はなり続き、頭の中は次第に眼前に並ぶご馳走のことで一杯になっていく。もはやこれ以上、この空腹感を我慢することは不可能だった。
「これ、本当に食べていいの?」
「そのために用意しました。さあ、どうぞ。おしぼりも用意してありますので、まずはこれで手を拭いてくださいね」
あまりの準備の良さに驚嘆しつつ、アラタは彼女の用意したサンドイッチをものすごい勢いで頬張り始めた。急いで口の中に押し込んだために、案の定喉につかえてしまい紅茶で流し込む。
「あぶ……なかったぁ~。死ぬかと思った」
「余程お腹が空いていたんですね。誰も取ったりしませんしゆっくり食べてください、紅茶もどうぞ」
危険人物だと思っている女性が作った料理をがっついて食べている自分。改めて現状を整理すると、アラタは段々と恥ずかしさと情けなさが込みあがってくるのを感じていた。
「サンドイッチありがとう。すごく美味しいよ。それに紅茶も……でも君はその、怒ってないのか? 俺は逃げたんだよ、君達から。最後まで話をちゃんと聞かないで、びびって逃げたんだ」
アラタが深刻な面持ちで切り出す中、アンジェは表情を崩すことなく紅茶を淹れながらその問いに答えていく。
「それは当然だと思います。いきなり異世界や戦いとか言われても、すんなりと理解できるものではないと思います。だから魔王様が混乱したり怒ったりしてしまうのも分かっているつもりです。ですが、それでも私達が魔王様を必要としていることを知っていただきたいのです」
「うん、あー、ちょっと待ってくれる? あのさ、何で魔王なの? 普通、世界を救うって言ったら勇者とかの仕事でしょ? 魔王は世界を支配したり滅ぼしたりする方だよね。おかしくない? この世界では魔王って善人なの? 悪人なの?」
空腹感が紛れたおかげか、アラタは冷静になって疑問であった〝魔王〟の定義についてアンジェに問いかけた。
そもそも『魔王はラスボス』というイメージはRPGや漫画等による媒体によって刷り込まれたものだ。このソルシエルという異世界では違った意味合いを持つのかもしれない。
「そうですね、確かに大事なことです……少し長くなりますがよろしいでしょうか?」
アラタが頷くとアンジェは一呼吸置いて語り始めた。
「今から1000年前、破壊神ベルゼルファーの復活を目論む信徒達と彼らに対抗する者達との戦いがありました。これを〝神魔戦争〟と呼んでいます。その対抗組織の中心人物であったのが魔王グラン様でした。グラン様は魔王軍を率いてアストライア王国やその他多くの組織と同盟を結び、辛くもその戦いに勝利しました。しかし、アストライア王国は破壊神との戦いに大きく貢献した魔王軍を恐れて、戦後に魔王様に関する虚言を広めたのです」
「虚言って一体どんな内容だったの?」
アンジェはアラタの問いに静かに頷くと、ゆっくりと確かな口調で続けた。
「魔王様は破壊神復活を目論む信徒の一人であり、魔王軍も同様の存在であったという内容です。以降、魔王様と魔王軍に関連する組織は、邪悪な存在であると一般的に認識されています」
アラタは一通り彼女の話を聞いて驚きを隠せないでいた。この話が本当であるなら、実に納得のいかない話だ。
そのアストライア王国のでっち上げによって魔王関連のイメージが180度変わってしまっている。
「当時の魔王や戦いに関わった人達は、そのなんちゃら王国の嘘について何の反論もしなかったの? いくらなんでも、そんな無茶苦茶がまかり通るなんてありうるのか?」
アラタの冷静な分析にやや感心した表情を浮かべてアンジェは語る。
「信徒達との最後の戦いは実に激しく、敵味方共に多くの犠牲があったと記録には残っています。そして、魔王様も破壊神の顕現体と戦い、相打ちになりました。そのような戦いの後で皆疲れきっていたのだと思います。生き残った魔王軍の方々もこれ以上の争いは望まないという意向で、アストライア王国に特に反論することなく歴史の表舞台から退きました。同盟に参加したその他の方達は、アストライアのそのような行動に絶望し距離をとったり敵対するようになり、現在に至っています……ご清聴ありがとうございました」
「ありがとう、アンジェさん。この世界での魔王のイメージが何となく分かったよ。なんとも言えない立場だね」
彼女の話からすると魔王という存在は、少なくとも悪い存在ではない。ただ世間的には歪んだ情報操作により大悪党と化しているのが問題ではあるが、このイメージが1000年続いているのだからどうしようもない。
アラタが魔王についてあれこれ考えている横で、アンジェは林の闇の中をジッと見つめていた。
「魔王様、まだ動けそうですか?」
「大丈夫だけど、どうかしたの?」
先程までとは明らかに違うアンジェの真剣な表情を見て、嫌な予感がしたアラタであったが、彼女の次の発言でそれが見事に的中してしまう。
「申し訳ありません、迂闊でした。どうやら向こうは既にこちらに気付いたようです」
「向こうって、どなた?」
「ファングウルフの群れです。少なくとも10頭はいるかと思います。戦闘になると思いますので私から離れないでくださいね」
「そうじゃないかと思ったー!」
明日も投稿できるように頑張ります。