カマラのまばたき
バリカンで刈り上げられ、所々頭皮もえぐれている。服はなく、泥まみれの麻袋を肩にかけている。左手と脚は折られ、立ち上がることはできない。全身に黒紫の殴打痕。道行く者はこの若い女性がなぜ路肩に打ち捨てられているのかを知っている。敵国にくみした者の末路。圧政から解放された市民は、抑圧された憎悪を復讐に変えてしまった。
全身に広がる冷気、これが死期なんだ。
もう間もなく意識が消える。
右手に抱える赤子の顔がにじむ。新生児も、虫の息だった。
…ごめんね。
人間は生きるために何でもする。この母親もそうだった。豪華な暮らし、ねたむ人々。そして、悪魔に虐げられた人間は、解き放たれ悪魔になった。
今日のこの日を迎えるまでに、私、何をしたのかしら。
不思議ともう痛みがない。
彼女の意識は望郷から走馬灯の回廊を歩き始めた。
懐かしい匂い…。
業火に包まれる前の穏やかな丘陵地帯をかける幼少の思い出。
涙が落ちる。
赤子の頬濡らす雫に、カマラはそっと手を差し伸べた。
ボロをまとったその小柄な男は、不思議な多重倍音の唄を歌う。歌っているのではない、開いた口から音が…溢れている。遠ざかる意識の中で、リタはゆっくり首をうなだれた。
三本指が真っ赤に染まると、指の微振動は超音速になる。
閃光がもれないよう麻布で乳児をくるむ。
幸いに脳の損傷を免れていたため、組織の蘇生は早かった。折れ曲がった四肢と小さな内臓を復元する。男の子の息が穏やかになるのを確認したカマラは、薄笑いを浮かべる母親の瞼をそっと閉じた。
目をぱちぱちさせるカマラ。まだうっすらと輝く右人差し指をリタの額においた。
彼女の意識を追いかけ、そっと目を細める。顎を右下に少し下げた。
彼女は、右斜め下、同様の最期を迎えた者と引き合い始めていた。
意識は散漫で、混濁した記憶の破片をあびている。非常に危険な状態だ。このままでは、死を自覚しない。しかも、死者の数が多い、数千に達する。
左小指で男の子の額に触れ、カマラは沈む母を彼にみせた。
大音響が通りをゆらす、一つの命は数億、それ以上の魂の濃縮した結晶でもある。
“…わたしのウィルが泣いている…”
リタは泣き声のする方向を探した。心臓が停止していても、聴覚野の残存機能は長い。
”ウィル!”
落下する数千の目にもウィルがみえた。闇間で、ただ一点の光。
おかげで、飛び散り、回転する彼ら彼女らは、上下を認識できた。
必死に、目を凝らす。
光から目を離すな、これが最後、心の声がそう叫ぶ。
ウィルが差し伸ばす手をリタは両手で包んだ。
母親が光球を受け止めると、二つはひとつになり、干渉波が解き放たれた。
多重環状光がゆっくり、力強く広がる。
ある者は悲鳴を上げ、ある者は呻きつつ深淵へ落下している。
より速く、虹の波紋は人々を飲み込んでいく。
下の者はみた、上の者が次々と光に溶けていくのを。
そして、その最後の表情も。
すべての者が同じ何かをみつめていた。
影をもかき消す一瞬、感動の涙を映す瞳。
照らし出された彼らの姿は無惨極まりない。手足のもげたもの、焼け爛れたもの、、、およそ人間の身体ではない。
その人生がどのようなものであったか、一切を問うことはなかったのだろう。
等しく、光りに瀕した面は何事もなかったように綺麗な、かつてそうであった本来あるべき姿に戻りながら消えていった。
男は見苦しくもがいた。
恐ろしい…、恐ろしい…。
幼子のように近づく光の帯に顔を引きつらせる。
アーアーー、声にならない叫びを上げ。
悪業を極めた人生の果てが、こんなにも恐ろしいものだったとは。
ただただ、恐れた。許されるということを。
あ… 。
カマラはまばたきした回数分、直前の未来をみた。
そして、この母親の肉体を再生しようと思えば、出来たのかもしれない。しかし、今後の長い魂路の門出にこれ以上、この次元に彼女がやり残したことはなかったのである。
カマラは麻に包まれた青い肌の赤ん坊を大事に抱え、路地裏に消えた。