prologue
都市伝説。曖昧な根拠のままに語り継がれる、噂話。
私、古藤愛花はそんな奇妙なものが集まる場所……サイトの運営をしている。
別にそういうものに興味があるとかじゃない。怖がりなくせにありもしない話を信じて語るクラスメイト達とは断じて違う。
ただ、そんな話の中にも、たまに『本物』は混じっているのだ。
***
ぱちり、と自動的に目が覚めて、勢いよく起き上がる。
部屋の中は薄暗く、パソコンの画面だけが月のようにボンヤリと光っていた。
「ん”ー……おはよう」
何もない空中へと声をかける。返答はない。当たり前だ。空気が喋るわけがないし、ここにはまだ何もいないのだから。
布団をきっちり畳み、机の上に置いておいたパーカーを羽織って部屋の外へ出る。やっぱり薄暗くて、埃っぽい臭いが鼻をついた。掃除をしなくては、といつも思うが時間がない。何より、この臭いが私は好きだった。
階段を降りて、少し迷ってから目の前の扉を開ける。廊下とは違う、白くてぴかぴかした洗面台が目に飛び込む。眩しさに目を細めながら、蛇口を捻った。いつも通りの温度が手に触れる。ふと目を開けて鏡を見ると、自分の大嫌いな顔が移りこむ。
「……変な顔」
ボサボサの髪。つり上がった目。皺のよった眉間。無愛想とはこういうことなのだろう。指で口を引き上げてみるが、誰が見てもアンバランスで気持ち悪い。そんな自分の顔が嫌になって、冷たくなったお湯で濡れた手で勢いよく頬を叩く。痛い。このときだけは、自分の感情と自分の顔が合致しているように思える。
自虐を終えて、リビングへなるべくゆっくりと移動する。そう、ゆっくりと。今日の調理担当はひどく真面目だから、時間ぴったりでないときっと皿を投げてくるだろう。
(このくらい……かな)
一分ほど廊下をうろうろしてから、埃も音も立てないようそっと扉を開ける。
机の上には、出来立てであろう料理が並んでいた。きらきら輝くご飯、湯気が立ち上る味噌汁、脂ののった鮭、瑞々しいサラダ、黄金色の紅茶……和風なのか洋風なのかまるでわからない。
「……どちらかといえばパンが好きなんだけど。ありがとう」
誰もいないキッチンに声をかけると、シンクの中の皿ががちゃんと危なっかしい音を立てた。
「……ごちそうさまでした……うっぷ」
机の上の皿がようやく全て真っ白になった頃、時計は既に9時を指していた。「量が多い」と書いた紙を机に置いて急いで部屋に戻る。リビングを出た直後に皿が割れる音がしたが、自分に当たってはいないので気にしないことにした。机の上のリュックを手に取り、早足で玄関へ向かう。
扉に手をかけた時、いきなり足を掴まれ引っ張られて、危うく転びそうになった。足元を見てみると──
血にまみれた腕。
自分によく似た顔の女性。
目が合って、泣きそうな顔をして。
足を思いっきり引っ張って。何かを呟きながら。
それを、知っている。これは、こいつはきっと。
「しつこいよ、私はあんたなんか知らないってば」
掴まれていない方の足で腕を踏みつける。肉を踏んだときの気持ち悪い感覚。べたり、と地面を汚す血。
瞬きをすれば、それは綺麗さっぱりと消えた。
(……嫌な夢、見ちゃったな)
はあ、とわざとらしくため息をついて。
もう見えないそれをもう一度、念入りに踏み潰してから扉を開けた。
「いってきます」
空には月が浮かんでいる。ニヤリと気味悪く笑う、丸い月。そんな月に向かって中指を立てる。
夜は、『彼方の世界』が『此方の世界』に色濃く顕れる時間。
都市伝説として語られたものたちが、かたちを持って出てきて、人々をさらって行く。
「今日はー……歩く死体? よくありそうな話……」
私の仕事は、それを元に戻すこと。
2つの世界の境界線を元に戻すこと。
───境界潜航。2つの世界に潜り込む、秘密の航海。
「それじゃあ、早速……やりますかあ!」
そうして彼女は闇に消える。
その場に少し、鉄の臭いを残したまま。




