ただひたすらに歩く
その少年は歩いていた。
ただひたすらに歩いていた。
それに目的地は無い。
よってそこに意味は無い。
ただひたすらに少年は歩いていた。
その中で何かをするわけではない。
何かが道中にあるわけでは無い。
よってここに理由は無い。
ただそこにはこれもひたすらに道が続くのみ。
その道はひどく綺麗に整えられている。
ひどく真っ直ぐに出来ている。
そこには何も無い。
少年は何を考えているのだろう。
いつか終わると希望について考えているのだろうか。
いつまでも終わらないと絶望について考えているのだろうか。
そもそも彼は何かを考えているのだろうか。
少年はただひたすらに歩いている。
そこに嬉しさは有るのだろうか。
そこに悲しさは有るのだろうか。
そこに怒りは有るのだろうか。
そこに楽しさは有るのだろうか。
少年は苦しいのだろうか。
少年は疲れているのだろうか。
少年は何かをもとめているのだろうか。
少年は何かをしているのだろうか。
少年は歩いている。
本当に少年は歩いているのだろうか。
少年はひたすらに歩いている。
本当に少年はそこにいるのだろうか。
その道に色は無い。
ただひたすらにそこには道が続いている。
色で例えるのならそれは白色なのであろう。
白色のような道だ。
しかし白色は無色にも見えるが実際はそこに色という物は有る。
この道は白色ではないのかもしれない。
白色と無色では決定的に違うところがある。
しかしそれは何かと聞かれて答えられる物ではない。
なぜなら無色というのは「何も無い」色なのだから。
無色は何も無いが確かに存在する。
無色は確かに存在するが何も無い。
比べて白色はどうだろう。
空のスケッチブックは白色だ。
積もりたての初雪は白色だ。
引き立てのシーツは白色だ。
白色は何か物がある。
存在している。
無色と白色はどこが違うのだろうか。
いや、この道は無色なのだろうか、と問いかけるべきであろう。
この道は白色ではない。
この道は色が無い。
だが無色ではない。
なぜならこの道が有るからだ。
無い物の色は有る物を翻訳するには使えない。
色という概念ではこの道を表すことは出来ない。
ただただここには道が続いている。
少年は歩いている。
ただひたすらに歩いている。
この道はどのようにしてできたのだろうか。
この少年はなぜ歩いているのだろうか。
道は少年が歩くからできたのだろうか。
少年は道があるから歩いているのだろうか。
どちらにしても少年と道に相互性があるのであれば、少年もまた何も無いがそこに有る物なのかもしれない。
無とはなんなのだろうか。
これに意味は無い。
これに理由は無い。
これに価値は無い。
これに思考は無い。
これに感情は無い。
私たちには理解できないだけなのかもしれない。
いいや、理解してもそれに見合うだけの表現を持っていないだけかもしれない。
表現できない物は理解されているとはいわれないかもしれない。
不確かな物は無いのと等しいのかもしれない。
しかしそれは確かにそこに存在する。
「存在する」という言葉さえもそれは違うのかもしれない。
本当はもっとこれを表現することに適した物が、言葉が、有るのかもしれない。
そもそも言葉という概念では表せない可能性も有る。
有る物だけを見ていく。
それはきっと正しいことだ。
しかしそこでふと思う。
ならば間違いとはなんだろうか。
無いなんて物は私たちが理解し得ない、表現し得ない物だろう。
無いものについて語ることはできない。
無いものについて見ることはできない。
ならば私たちは無いと思っていた物を理解、表現する術を手に入れたときどうするのだろうか。
そんな事は無いのかもしれない。
くだらない「if」だろう。
だが私たちは事実、理解できない物を表す術、表現できない物を表現する方法を進化の過程で得てきただろう。
ならばこれは「if」ではないかもしれない。
少年は歩いている。
そこには道が続いている。
そこには何も無かった。
私たちはそう感じた。
ただそれだけ、それ以上でもそれ以下でもない。
ただそれだけの事だ。




