Ⅳ
「オレはお前が嫌いだ」
「わ、分かってるっすよぉー」
如何にも此方を見下していると言うべきか、或いは言葉の通り且つ其の目が浮べる色のままに嫌悪されていると受け止めるか。
或いは恐らく唯一青年の正体を看破し、若しくは看破といかずとも疑心を持って、何時か尾を掴んでやろうと窺っているのか。
幾つか候補を挙げられるが其のどれもが向けられて喜ぶ様な視線ではない、敵意と言わずも少なくとも好意は1ミリと無いだろう視線に、ハッキリと嫌いだと告げる言葉を受け、青年は情けない声をあげた。恐らく表情も其れに見合う顔をしている筈だ。
魔王城の一角。自他共に認める魔王ラベリタの1番騎士であり1の腹心。加えて其れ等の役目を別としたプライベートでは幼き頃からの友。リジーチェがこうして其の城を歩いている事は何ら不思議ではなく、表向きは魔王が見付けた記憶喪失の誰かである青年が客人として其の城を歩いていても、極々自然とは言えずとも不自然と言う事も無い。そうしていれば広い城内と言えどあくまで限られた空間、こうして鉢合わせする事とて有り得、其の度に先の様なやりとりは交わされてきた。
もっとも正確に言うのであれば今の青年の立場は記憶喪失の客人ではない。元よりラベリタは青年を客として迎えるつもりであったらしいが、其れを青年が殆ど頼み込む様にして受け入れなかった。ただでさえ相手を騙していたという罪悪感がある手前、一方的に世話になる事で此れ以上罪悪感を重ねたくは無く、些細な罪滅ぼし、或いは懺悔をしたいと思った故に何らかの仕事は与えて欲しいと請うた。
渋面を見せていたラベリタを何とか言い包め、与えられた地位が魔王城の使用人。
しかし使用人と言っても雑用を山と押し付けられる事もなく、ではラベリタの身の回りの世話はとなれば大抵の事は殆ど1人でこなしてしまう。其れどころか使用人部屋だと言って与えられた部屋は正体が神族である青年の目から見ても豪華と言えるレベルのもので、却って益々恐縮する結果にはなったが。
そう。暫定的とは言え魔王城に仕える立場になった事は、其の長さや務めるにあたる心情等々比べるべくもない差が両者間には存在していたとしても。ただ魔王城に仕える人物という広義では似通った存在となった事もあってだろうか、リジーチェとはやけに顔を合わせる事が多い。
話に聞いたリジーチェの性格を考えるに半分、或いは其れ以上は偶然ではなく、突如として現れた記憶喪失を自称する種族不明正体不明の青年に対し警戒心を持っての牽制、或いは監視であるやもしれぬが。
しかしそうであってもリジーチェの態度は大分軟化されてきた方である。青年がラベリタにより住人達に紹介された其の日に至っては、ほんの一瞬でこそあったが本気の敵意を向けられた事は残念ながら時間が経っても忘れられそうにない。根に持っていると言うよりは神族の立場でありながら、本気で恐怖を抱いた事が原因だろう。寧ろ今は落ち着いていると言え大戦の最中に於いて突如現れた正体不明の誰かを、案じ、容易に受け入れてしまうリジーチェを除いた魔族達の方が多少問題に思える。
彼等は皆、人が好過ぎるのだ。
記憶喪失であるという青年を案じ、労わり、魔界で暮らす事について歓迎し。青年が魔界を内側から滅ぼすべく派遣された天界の者だという可能性等、毛頭抱いていないかの様な。其れどころか長年の付き合いでもある仲間かの様に振舞う姿に青年の良心はズキズキという生易しい物を通り越し、グサグサと痛んでいた。本来はこうした正体不明の誰かをリジーチェの様に疑って掛かるべきであるのだ。
そうは言っても己を労わってくれる彼等彼女等を馬鹿な奴だと嘲笑する気にもなれず、其れ所か彼等彼女等が自身に向けてくれるやさしさは、良心を突き刺しつつもとてもあたたかい、幸福感さえ抱かせるものであった為、青年は強く心に決めたのだ。此の世界の住人を、此の世界を守りたいと。
もっとも最近では天界も大人しくしている様であるし、彼等の能力を考えれば幾ら神族とはいえ青年の助力等却って無駄になるかもしれないが。
しかしながらこうした意思、彼等を守りたいという意思は実行に移す日が来ぬままの方が良い。魔界の主張を考えれば天界が何かを仕掛けぬ限り此の平穏は続くであろうし、天界とてラベリタの提示した終戦或いは停戦協定に明確な返答をせずとも其の提案其の物が枷となっていて無闇に攻撃も出来なかろう。
其の硬直状態が続けばいずれ有耶無耶になる可能性は低くない。何方か、特に好戦的である天界側の長が変われば尚の事其の見込みも高くなる。
そうなれば此の平和な魔界、何が何でも此処の住人達を守ろうという此の意志を発揮する機会等早々起こるまい。そして起こらぬ方が良いのだ。
果たしてリジーチェは其の考えさえ見通しているのか。
はたまた其処迄至らずとも青年を監視の様に日々見つめる中、己が懸念する様な裏切り行為を働く心配、そもそもが敵国の間者である危険性は無いと判断を下しつつあるのか。
若干ではあるもののリジーチェの態度が軟化されつつある事は素直に嬉しくも思う。
「お前が不審な行動でも見せようものなら、問答無用で斬り捨てるくらいのつもりではいる」
「大丈夫っすよ。恩を仇で返す様な事はしないっす」
言いながらも思う。もしリジーチェと対峙していなければ自嘲的な笑みさえ浮べていただろう。其の恩自体を自分は偽称によって買っているのだが、と。
もっとも正体を明かすまいと決めた以上其の自嘲を誰かに明かす事も無いだろうし、正体を明かすまいと決めた以上寧ろ己が心情で最も隠すべき自嘲であるが。其れこそ自身の今迄に1度しか破られた事のない穏業よりも強固に。
幸いリジーチェの読心術は其処迄に至らぬらしい。或いは己の主人が信頼した上で手元に置いている青年相手に其処迄疑心を向けられないのか、少なくとも青年の内心には触れずリジーチェは問いを重ねた。
まるで反射運動の様に青年を見ては顔を顰め、無遠慮に嫌っていると告げる彼にしては珍しく其の問いの前に一瞬の躊躇いを見せて。
「1つ聞きたい。お前が記憶を戻した結果、天界の者だったとしたら。其れでも尚、同じ事を言えるか?天界の者であれば手を出される前に斬ってしまえ。唯一其れを掲げているオレの前だけじゃなく、手を出さないなら何もしないと訴える住人や、歴代魔王の中でも1番の平和主義を掲げるラベリタの前でも」
其れは有り得ない未来の話である。そもそも青年に取り戻すべく記憶は無く、青年は魔族の間には認識されていないらしい神族。本来であれば天界に時折強力し、魔界は認識しないと掲げている立場である。そして魔界の直接的な敵ではない。
しかしそうした事を知らぬリジーチェ、特に魔族の中で好戦的で疑り深い、好意的に言うのであれば魔族の中で極めて用心深さに優れた人物である彼にとって、青年の様な存在は厄介だろう。
成る程、リジーチェの気に掛ける部分ももっともだ。仮に青年が本当に天界の者であったとしても、そして其れが誰かに露見したとしても、青年が攻撃を仕掛けぬ限り彼等は今迄通りに接してくれるのだろう。演技でも何でもなしに、青年の記憶が戻った事を喜んでくれるかもしれない。そして懐に入れている青年がそうした油断状態にある魔族を全滅させる事、或いは王であるラベリタの首を取る事等容易な事。
其れを防ぐべく正体が知れるなり危険因子を残すのは自殺行為にも等しいと青年に剣を向けられるリジーチェ以外は、青年にとって脅威にも何にもならない。言ってしまえば道に転がる小さな小さな石程にも。
そうしたリジーチェの言外の意を全て汲み取り、其の上で青年は深く頷いた。
「正直もしオレが天界の住人で、記憶を取り戻したら戸惑うかもしれないけど。でも此れは言える。此処の人達は何も分からないオレにやさしく手を差し伸べてくれた。今こうして仕事と住居に有り付けているのはラベリタのお陰だし。其れを裏切る様な真似はしたくないって、此れは強く思ってるんすよ」
「……及第点をやろう。まあ微塵でも不穏な動きを見せ次第、お前の末路は剣の錆だが」
「リジーチェの愛剣に錆を作らせる様な事はしないんでご安心を」
其の儘何処か目的の場所へと向けて歩を進めだすリジーチェの背を見つめながら、思う。
リジーチェが案ずる様に魔界は酷く取り入り易い国だ。天界の使者の死に心を痛め、得体の知れぬ男を親身になって匿う。其れは彼等のやさしさ、人の好さであると同時に、相手国から見れば明確な隙である。
魔界を想い魔王を想う1番騎士にして1番の友人、リジーチェが持ち前の警戒心を更に強めていても頷ける。少なくとも今はまだ大戦について、天界側から終戦協定停戦協定共に返答がなされていないらしい。承諾もなければ棄却もない、其れ故の平和。しかし其れ故、仮に今砲撃でもされればと考えると、彼等との付き合いが短い青年とてぞっとせずにいられない。そうなのだからリジーチェが過敏になるのも自然な事だ。
もっともそうした最悪な未来等、訪れないに越した事はないのだが。
「いたー!魔王様ー、フェリいたよー!!」
「ああ、本当だな。此処にいたのか、フェリガーデ」
背後から元気一杯嬉しくて堪らないとでも言う様に弾んだ幼い声と、其の声にやさしく同意した穏やかな声が聞こえた。
フェリガーデ。愛称フェリ、或いはフェリィ。
其れは青年の名であり、青年が魔界に来て以来彼等から貰ったもう1つの物だ。
無論青年には神族として生まれ、長い間を共にしてきた己の名という物がある。しかし青年は魔界に来た際咄嗟に記憶喪失を演じ、種族も魔界に居る理由も何も分からないと嘯いた。そうした状況で青年側から名乗るワケにもいかず、しかし記憶喪失の青年を気遣う住人達が青年に名前を問う様な事はしない。
名を知らなければ其れを呼べず、そうなれば代名詞を用いるか身近な単語で呼び掛けるしか青年を呼び止める方法も無く。存外一切名前を呼ばぬ状態で生活を共にするというのは、不便な物であった。其れは呼ばれる青年側にとっても、呼ぶ側にとっても同じであっただろう。
其れ故にか青年が魔王城で使用人を務めだして数日、遠慮がちに青年に宛がった自室へと訪れたラベリタは、やはり遠慮がちに青年へと切り出した。
お前、名前は思い出したか?と。
其処で青年には大きく分けて2つの選択肢があった。即ち、肯定か否定か。肯定するのであれば都合良い理由をでっち上げて己の名を明かせば良い。否定についてはもっと容易で、ただ首を横に振るだけで良かった。
そうした至極簡単な選択であるにも関わらず、青年は答えに一瞬だけ窮した。一切の名を呼ばぬ状態での生活に因る不便さを其の時点で青年は実感しており、其れを相手側に強いている事も自覚の上であった。
嘘を吐いて世話になり、過分にも思えるやさしさを享受している。其の上で彼等に不要な不便を強いる事など己に出来る事ではないと。
しかしそう思い、其れを忌避したいと願うと同時、青年の中には同等程の質量を持ったある思いも根付いていた。
青年のあの名は、当然と言えば当然であるが神族として生まれた己が、神族として付けられた名であり、神族としての生活を共にしてきた物だ。あの何事にも無関心であり、魔界には一切の干渉を試みず無い物とさえ見做し、ただただ天界からの報告だけを耳に入れていた時分の。
たとえ積極的に天界に加担する事もなかったとはいえ、少なくとも天界魔界の問題に於いて無関心であった事に変わりはない。或いは結果として魔界を追い詰めていた事も1度や2度では無かっただろう。
魔界に来て生まれ変わったつもりで、なんて高尚或いは都合の良い事を夢想したワケではない。そうしたワケではないものの、今迄名乗っていた名前を使い此処で生きていくのは如何にも青年にとって我慢ならぬ事だった。
結果、青年の動かした首の方向は、横。
其れを見たラベリタが元からがちだった態度を更に遠慮がちにして。見ている此方が申し訳なく恐縮してしまいそうな、或いは多少余裕があれば何方が主人だとツッコみを入れそうな。兎に角も遠慮に遠慮を、躊躇に躊躇を重ねた様子で、思い切った様に深呼吸を1つしてから、切り出した。
もしもお前さえ構わないなら、名前を付けさせてもらっても良いか、と。
其れは青年にとって願ってもいない申し出だった。生まれ変わったつもりでなんて高尚或いは都合の良い事を考えてはいない。其れでも魔界を訪れ、天界と魔界の真相に触れ、魔界を守ってみせようと内心決意を固めた青年に、名前を与えてくれる。今迄の怠惰で、崇められるまま、請われるままに動いていただけの神族に。
其れは感涙に咽びかねない程の幸福で、或いは其処に誰も居なかったのなら青年もそうしていたかもしれない。ただ其処にはラベリタが居る。涙の意味を泣く程嫌だったと誤解される危険性は否めず、そうした誤解を生む事等、仮に一瞬で解けたとしても青年にとっては忌避したい事態である為涙は堪える。
もっともこうした心情はラベリタが去って数分、誰も居ない静寂の中落ち着きを取り戻して漸く悟った感情であり、其の時は何かを思考している余裕も、己の感情を確かめる様な余裕もなかった。
ただただ勢い込んで頷き、飛び掛らんばかりの勢いでラベリタの小さな両の手を取っては、其れこそ懇願していた。魔界では不敬罪が存在しないらしいが他国の王に対し平民ですらない立場の者が行えば処刑は免れぬし、不敬罪の存在しないらしい魔界で行っても素性の知れない青年がした事である。1番騎士で魔界で唯一強い危機感を持った好戦的な男リジーチェの目に入っていれば、首に彼の愛剣が突きつけられていても不思議は無い。
幸い前者は不敬罪の存在しない魔界である以上ただのたらればに過ぎず、後者については青年に宛がわれた自室であるからか、ラベリタが付き添いを断ったかで其の姿は無かった為、青年の無礼はラベリタを僅かに戸惑わせただけの結果に終わったが。
そうした敬意でラベリタが青年に与えてくれた名。
ラベリタは本名を思い出した時早々に忘れてくれて構わないと言ったが、青年にとっては忘れようもない、頼まれようと手放したくないと執着心さえ抱いた物。
其れこそが今、堪えきれない嬉しさに弾んだ元気一杯の声と、ラベリタの物であるやさしく穏やかな声が呼んだ名前。フェリガーデだった。
青年、フェリガーデが振り向いたと同時、少年の方が堪えきれずという様にぱたぱたと駆け寄ってきた。両手には大切そうに何かを抱いている。
もっとも後から転ぶなよと苦言を呈しつつ歩み寄ってくるラベリタの外見も如何見ても少年の其れであるが、今走り寄って来た少年は其れより遥かに幼い。
所謂町の子供達と言った体で、好奇心も旺盛なのだろう彼等はフェリガーデが正体不明である事に恐れもせず、遊び相手が増えたとでも言う様によく懐いてきた。
当初こそ戸惑ったもののこうして懐いてくれる事は不快ではなく、今ではすっかり彼等のお目付け役兼遊び相手の1人になってしまっている。もっとも彼等の中で1番の遊び相手兼お目付け役はラベリタであり、其れだけは譲れないそうだが。
「如何したんすかー?」
走り寄って来た少年に目線を合わせるべき屈んで問い掛ければ、少年はじゃんと言って誇らしげに、其れでいてそーっと手に抱えていた何かをフェリガーデへと示した。
わお、と思わず感嘆の声があがる。話には聞いていたが此の目で見るのは初めてだった。
少年の手の中でよちよちと動き、時折小さな鼻先を揺らしては周囲を覗おうと懸命な姿を見せる、小さな小さな生き物。小さな少年の両手の中にさえすっぽり収まってしまう其の生き物は、しかし小さいながらも大人になった姿を想像させる翼を持っていた。
魔竜の子供。其れも孵化したての赤ちゃん竜と言った所か。
ラベリタがそろそろ魔竜の産卵期に入る為、尚更早く天界との問題に決着を望み、動いているのは魔界に来て日の浅いフェリガーデにも分かった。其の産卵期はまだ先であるし、其処から孵化迄の時間を考えれば魔竜の子供が沢山見られるのはまだ少し先だろうが、産卵期はあくまで目安であるし、早い内に産まれた卵から孵った子供なのだろう。
「おととい、孵ったんだ!まだまだ赤ちゃんだけど、もう人の手の中ならお散歩もできるし、フェリに見せたくてつれてきたの!フェリ、魔竜の赤ちゃんを見たことない、って言ってたから」
かわいいでしょー?とまるで自分の事の様に少年は語る。耳の位置から頭にかけて生えている竜の角を機嫌良く揺らす姿からも、此の少年が心底から魔竜の誕生を喜んでいるのは明らかであった。
フェリガーデはそんな少年の頭をやさしく撫で、少年に対して微笑み掛ける。
「うん、すっごく可愛いっす!素敵なものを見せてくれてありがとね、ロウリ。此れから此の子のお世話も頑張るんすよー」
竜族の少年ロウリは顔を目一杯輝かせると、うんと力強い元気な肯定を返した。此れを頼もしい返事とでも言うのだろう。
ロウリに任せれば手の中の子竜も立派な魔竜になる様に思えてしまう。否、事実ロウリは立派に此の子供を育て上げてみせるのだろう。其の頃は少し大人になった、其れでいてラベリタに懐く事と好奇心を忘れていないロウリが、成竜に届くかという具合に成長した手の中の子竜を見せに来る未来は容易に思い描けた。
そして不思議と其処に、まるで当たり前の様にフェリガーデは居て、変わらずロウリの頭を撫でるのだ。
其の光景は僅かに願望交じりやもしれぬが、結局は己の手で掴む事の出来る願望。此の未来を逃すまいとフェリガーデは己の決意を改める。もっとも表情は穏やかに笑ったまま、厳しさの欠片も表に出さないが。
家の手伝いや子竜の世話もあるからと来た時同様ぱたぱたと駆けて帰るロウリを、来た時とは異なりラベリタと並ぶ形で見送った。
リジーチェと対面した時に漂った重苦しい空気はロウリの訪問で霧散し、ロウリが去った後も和やかで明るい空気だけが周囲を漂っている。正に歴代魔王で最もと謳われる程平和主義者であるラベリタの城に相応しい。
其れ故に却って、大戦は正式には終結はおろか停戦さえしていないのだという事実がフェリガーデの脳裏に過ぎり、不安が首を擡げてくるが。
「大丈夫だったか?」
其の不安を受け止め警戒はしつつも、今は振り払おうと努めていた所為か。ラベリタの質問の意味が分からなかった。ラベリタはフェリガーデの事を気に掛けている。自身の記憶に暫定勇者の事以外にも傷を抱えている所為か、単純に天界の行いを知っている為其の被害に遭っていたらという同情からか、或いはラベリタの性分か。フェリガーデが失った記憶の輪郭に触れた時、何やら不快な思いをするのではなかろうかと強く案じてくれている。
自惚れでなく其処については痛い程よく分かっており、感謝もしている為、本当は記憶喪失でも何でもないフェリガーデとしては申し訳無く、出来る限りラベリタに心配を掛ける様な言動は控えているのだが。
何かしてしまったかと直近の記憶を思い浮かべる。子供との触れ合いは初めてではないし、殆ど振り回される様に遊び相手に請われた事も何度かある。其の過程でロウリともロウリ以外の竜族の子供とも接している為、今更子供に付き合わされる事の不快感や疲労、竜族に対する嫌悪感や敵意について訊ねられるとは思わない。
では彼等に声を掛けられる前の出来事、リジーチェとの対面についてか。確かに空気は幾分か張り詰め、其の張り詰め様は仮初とは言え平和を手にしている魔王城に於いて多少悪目立ちしていた可能性は否めない。しかし此れはリジーチェとフェリガーデが顔を合わせる度に行われている、最早お決まりのやり取りめいた物で今更気に掛ける事では無いようにも思えた。加えて初対面の頃と比べればリジーチェの態度も幾分も軟化している。
其れなら何故。
考えても答えを出せず黙り込んだフェリガーデに焦れたのか、或いは偶々ラベリタの口を開いたタイミングがフェリガーデがお手上げだと判断した時と重なったのか。
「種族によっては魔物の類を拒むヤツも居るからな。オレ達にとっては魔竜に限らずみんな可愛いと思っているが、お前は如何なのかと思ってな。だからと言ってフェリガーデに懐いているロウリが、フェリに見えるって嬉しそうにしてんのも止められねぇし」
と自ら答えを提示してくれた。
答えが提示されてしまえば容易である。そして其れに対するフェリガーデの応え等決まりきっていた。笑顔を浮かべ、先程のロウリに負けず劣らず元気良く頷いてみせる。
「大丈夫っすよ!自分の種族の事は相変らず思い出せないけど、ロウリが見せてくれた子竜、すっげー可愛かったっす!ロウリに改めてお礼も言わないと」
此れはロウリやラベリタに気を遣っての世辞ではなく、フェリガーデの本心だ。
今迄魔竜は天界の寄越す資料程度でしか覗いた事がない。魔界の生き物である魔獣の類も神界に於いては等しく関係の無い物であり、実物を見る必要はない。天界に助力するにあたって弱点と僅かな知識だけあれば十分なのだ。
そして其の資料の多くは悪意を持って歪められた外見をしている。
もっともそうした落差を踏まえずとも素直に魔竜は格好良いと思ったし、其の子供はとても可愛かった。子供の姿等戦闘に不要と判断されたか子竜の姿は歪められた資料内にも一切見受けられず、文字通り生まれて初めて目にしたのだが感動さえ覚えた程だ。
そうした本心が抑えきれず、自身でも自覚出来る程フェリガーデの声は弾む。少し幼すぎただろうかと照れも生まれるが、其れで問題無くフェリガーデの本心はラベリタに通じたらしい。其れなら其れで多少子供っぽい振る舞いをしてしまった事くらい、良しにしよう。
「気に入ってもらえたなら良かったよ。魔竜は此れから産卵期に入んだ。子竜も沢山生まれるだろうし、何ならフェリガーデも育ててみたら如何だ?オレも経験があるが、凄ぇ可愛いし成長していく姿を見んのは感慨深いモンがあるしな」
「い、いいんすか!?」
先程の興奮は未だ尾を引いており、其処に思いもよらぬ申し出をされてば更に子供の様な言動は引き摺り出される。フェリガーデはかつて己が幼子だった時分よりも余程幼い振る舞いをしている事を自覚し、しかし其れだけでは冷静さを取り戻す事も叶わず、無邪気に期待で輝ききった目をラベリタに向けて返答を待った。
ラベリタの中に最早フェリガーデが魔竜について気を遣った発言をしたという気掛かりはとうに霧散した様で、今はフェリガーデの様子に対してだろう微笑ましそうに表情をやわらげている。
「ああ。とは言え多少難しいトコもあるから、竜族の助けは借りねぇといけないけどな。ロウリの家に頼めば喜んで力を貸してくれると思うぜ?」
「直ぐにでも!直ぐにでも頼んでみるっす!!」