Ⅲ <後編>
鈍い音が一瞬だけ部屋に響き、しかし他の何処に漏れる事もなく、余韻も残さずに消えていった。いくらほぼ確定されている次期魔王候補と言えど、体力や単純な腕力よりは剣術、更に其れよりは魔術に秀でている身。そうでなくとも魔族の住居というものは住人のニーズに合って造られている。力自慢の種族が己の自宅を全力で殴り飛ばした所で目に見えた傷が付く事もない。
其れは次期魔王の自室の壁1枚とて同じ事。
次期魔王が己の感情のままに思い切り拳を入れたところで、成果は直ぐに消える一瞬の鈍い音。壁は僅かに陥没する事も、些細な傷1つが付く事もなく、彼が壁を殴った形跡等微塵も残らない。強いて言えば僅かな痛みを訴える己の拳くらいだろうか。
何にもならない。何も残さない。拳の痛みさえも直ぐに消えてしまうだろう。無意味な事此の上無い。頭では理解していながらラベリタは、其れでも己の内の感情が流れ出るのを満足に抑えきれなかった。
「ラベリタ」
背後から聞こえる声が誰の物であるかは分かる。たとえ溢れ出る感情に翻弄されつつあるといっても其処迄我を失っているつもりはなく、そうでなくとも此の状況でラベリタの自室に入ってくる者がいるのであれば該当者は1人だ。
何より茫然自失状態にあっても気付きそうな程聞き慣れた声音が、背後に立ち此方に呼び掛けた人物がリジーチェであると何よりも雄弁に語っている。
そして長年の付き合いがあるリジーチェだからこそ何ら微塵も取り繕う事なく、恥や外聞等今更考える迄もなくラベリタが内心で荒れ狂う感情が其の儘投影された複雑な表情のまま、振り返る事も出来た。
気に病む事はない。お前は最善を尽くしたのだから。
そういった有り触れた慰めをリジーチェは口にしない。そう。言い訳でも誇張でも何でも無しに、ただの事実としてラベリタ達は最善を尽くした。幸い下界での治療法に対する知識は多くの住人が持っていた為、彼等は尽力して治療にあたり、しかし其れが実を結ぶ事はなかったという話。
ラベリタ達の治療に何ら過不足はない。最善であり、最適であり、其処に何の誤りもなかった。もしも誤りがあったとすれば、其れは治療対象の状況其の物に他ならない。
服の上からでも分かる大量の傷は、服の下は筆舌尽くし難き惨状を呈しており、疲労は蓄積、精神負担も膨大。其の上異世界の空気を呼吸器からも肌からも大量に摂取していたとなれば、あの状態でたとえ足取りは世辞にも正常と言えず、引き摺る様に剣を携えていたと言っても、何かを持って歩を進めていたなど考えられぬ事だった。
そしてそうした全ては本来であれば起こり得ない事の筈なのだ。
天界の使者は其の名の通り天界の遣いである為、天界は全面的に面倒を見る。下界から勧誘し、異世界で生き抜く為の全てと魔界を敵と認識する価値観を渡す。其れが長い歴史の常であった。
魔王の前に勇者が現れた際、怪我を負っていた事なら過去に何度もある。しかし其れはあくまで魔界に来てからの戦闘で負った怪我であり、魔界に降り立ったばかりの彼等は皆、魔王討伐に燃えた眼と傷1つない何らかの能力に特化した肉体を持っていた。
あんな勇者はラベリタにとっても、リジーチェにとっても。
無論他の住人達にとっても。
初めての事だった。
「何かの事故か手違いだろう。少なくともああいったパターンはもう早々起こらないだろうさ」
「頻発しても困んだよ。こっちの精神が抉られるっつーの。余計な事迄邪推しちまう」
ラベリタが言う邪推が何であるかはリジーチェにとって手に取る様に分かった。そもそもリジーチェにとって其れは邪推はない。有り得るだろう事を推測した結果に過ぎない。
リジーチェは魔界では珍しい好戦的な性分であり、疑心についても住人の平均が出ていれば其れを頭幾つ分もずば抜けて深い。そうした側面を抜きにしてもラベリタは歴代の魔王と比べてさえ尚、人が良い、平和主義者に思えるが。
そうしたラベリタだからこそ其れを余計な邪推だと語り、そうしたリジーチェだからこそ至極自然な推測だと断じるのだろう。
しかしリジーチェとて悪戯にラベリタの心労を増やす事を良しとはしていない。ましてや今、つい最近国の入り口で出会った様子のおかしい暫定勇者の死に、己達の尽力を理解しつつも傷心に暮れている友人の、いずれ自分が1番の腹心となって仕えるべき相手の傷口に塩を塗り込む真似等出来る筈もない。
其れ故リジーチェは本心を飲み込む。あの天界であればこういった事を頻発させる可能性も皆無ではない。其の推測の結果を呑み込み、代わりに軽く肩を竦めてみせる事で返事とした。
もっとも本当のところ、そうは推測していてもリジーチェ自身、こうした事が此れで立ち消え、或いは起きるとしてももう何時代も先であればと願っていた。
天界の良心等リジーチェは信じていない。下界の生き物に特別な思い入れもなければ、魔族以外の誰かが自分の大切な存在を失おうとリジーチェの感情は動かない。微塵の同情心さえ彼は持ち合わせていないのである。
しかし魔族の事、特にラベリタの事ともなれば話は変わってくる。
あの暫定勇者の存在がラベリタの心に少なからず傷を負わせた事は事実である。そうであれば彼が傷付く事を忌避するリジーチェとしても信じざるを得ない。
天界に良心等望まないがせめて、己の使いの管理だけは徹底すると。此れは不運な事故か、気紛れか、続く大戦に変調を来たす小石となるかの実験程度であり、此の先、少なくとも幾時代か先迄、事故も気紛れも実験も起こさぬ様と。
殆ど願う様に信じる他。
其れは其処に至る経緯を別としてラベリタとて同じ事。
正式な手順を踏まずに眼前に現れた下界の人間は、ラベリタに幾つかの推測をさせるには容易であった。彼の全身の傷や、魔力を使って窺えた疲労、そもそも此の世界に見合う体にさえなっていなかった事。其れは悪い想像を次々に思い起こさせる。
其の内の1つが、本来合意の上行われる下界から天界への召還が強制的に成されたものではないかといったもの。そうなれば下界では何の説明もされぬまま、行方や結末さえ分からぬままに大切な誰かを失った者も出てくる。先刻息を引き取った暫定勇者本人とて同じで、大切な誰かに何を言う事も叶わず突然姿を消す事と相成ってしまったのだ。
其れは自分の身、近しい人間の身に起きた事でなくとも、ラベリタの記憶に触れ嫌悪と悲嘆を引き起こすに十分である。
其れ故ラベリタは願うのだ。
嘆き、憤れど。実態が如何あろうと。先刻息を引き取った暫定勇者が生き返るワケではない。其れでもせめてこうした事態はもう2度と起こらぬ様にと。
もっともラベリタにとって其れは邪推である。天界が時に正攻法とは世辞にも言えぬ手段を用いてきた事は記録に残り、ラベリタ自身の記憶にも焼き付いている。しかしそうした時に汚い手を使う天界であっても下界の者を派手に巻き込んだ手を打つ事は流石になかろう、と。
暫定勇者本人や其の親しい人達が納得するとは思えぬ。ラベリタが同じ立場であれば不条理に声を上げているだろう。理解しつつラベリタは此れは痛ましい事故であり、天界の者はもう再発に用心を重ねてこうした事は2度と、少なくとも幾時代先迄は起きないだろうと思っていた。或いは其れは、己の邪推が邪推であって欲しいというただの願いに過ぎなかったのかもしれない。
痛ましい事故。魔界に居る身では防ぎようのなかった事故。無論本人や近親者には其れで溜飲が下ろう筈もない。だからと言って天界の事故さえ防げるというのは欺瞞だ。魔界の王の最有力候補とて其れ程の力を持ち得てはおらず、他国への干渉は難しい。まして大戦の最中と言えば尚更である。
そうした全てを思考では理解しながらも感情の方は受け入れ難く、意味を成さぬ音だけをラベリタは口から吐き出した。其れはまるで心が軋む音の様に。
リジーチェの願い、そしてラベリタの想いはあっさりと、簡単に破れ散った。
使者が告げた情報を再度頭の中で反芻する。再度。またもう1度。もう1回だけ。そうした事を何度繰り返しただろうか。何度繰り返そうと結果が変わらぬ事等ラベリタ自身がよく分かっていた。認め難い事実、受け入れ難い事実を目前に認めたくないと、理解したくないと心が駄々を捏ねているに過ぎない。
使者は優秀で的確に素早く天界から情報を持ち帰った。しかし其の中身はと言えば劣悪で生理的嫌悪感さえ齎し、ラベリタを絶望へと突き落とすには十分な物。事実報告している間の使者の顔にも普段の飄々とた姿からは想像さえ付かぬ程、堪えきれぬ怒りが滲み出ていた。
よもや誰が思ったか。或いは誰しも其の予感を多かれ少なかれ抱いていたかもしれない。其れでも誰もが其れは邪推だと、流石に其処に至る事は有り得ないと即座に否定していた。いくら長く大戦を続けている相手国とは言え、時に卑怯な手を用いられた事がある相手と言え、其処迄を仕出かすとは思わなかったのだ。
あの1件以来暫定勇者は何度と無く現れた。其の全てが。初めて此処を訪れたあの勇者も含めて、事故でも何でもない、天界の思惑通りであったなど。
あまりに短い間に訪れる奇妙な勇者……傷と毒で塗れた体でありつつ武器を引き摺る下界の者……其の姿に天界の策を一瞬も疑わなかったと言えば嘘になろう。痛む胸の片隅、憤怒と悲哀に暮れる思考の片端。そうした中でラベリタは1つの予測を過ぎらせはした。
短い間に訪れた暫定勇者達。其の期間は時の流れが格段に違う下界の其れに当て嵌めても十分短いと言える物であった。そうした間に何人も何ら形跡さえ残らず消え去ってしまえば、下界では事件として、或いは其処に至らずとも眉唾物の都市伝説として、騒がれるだろう。そうやって或る程度の注目を集めた後天界の住人は下界の者に此れが全て魔族の仕業であると吹聴、彼等を誘導し魔界に攻め込ませる算段かと。
しかし蓋を開ければそうではなかった。
勿論天界が授ける力が体質に如何しても合わなかったと言うでも、力を授ける前に下界の者が何処かに迷い込んでしまったと言うでもない。紛れも無く天界の故意。
天界は己が始めた事であるにも関わらず勇者の、下界の者の存在が疎ましくなり。彼等に力を授ける事、彼等を天界の住人にする事を拒み。其れでも勇者制度は都合の良い捨て駒だと考えた天界は徐々に必要な過程を省いて、ただただ魔界に押し入るだけの人形を作り上げる事にしたらしい。
しかし何も知らずに連れ去られた下界の者が素直に言う事を聞くとも思えない。事実何度も抵抗され、何度も逃走を図られと散々であった様だが、其の度に天界の者は彼等に攻撃魔法を下し、武器を振り下ろし、殴る蹴るの暴行に及んでいた。
暫定勇者に等しく残っていた傷は其の時の物だろう。
そうした手間を掛けるくらいであれば今迄通りの手順を踏んだ方が効率的で、遥かに手間も掛からないではないか。人情的な面を省いても天界の行動にはそうした疑問が残る。しかし其の疑問の答えを天界は残しており、魔界の優秀な使者は其れをさえ持ち帰った。
曰く。
苦々しげな顔で。まるで吐瀉物でも見てしまったかの様に不快感に顔を顰め、使者が吐き出した言葉を。こうして再度脳内で再生するだけでもラベリタに憤怒が、憎悪さえもが沸きあがってくる。
自室の壁を殴るのは何度目だろうか。魔王候補の自室が魔王の自室になってからも其れは変わっていない。勿論其の行為は一瞬の拳の痛み以外何を残す事もなく、内心の憎悪さえこびり付いて離れぬまま。
「天界は思った以上に下らないヤツだったな。或いはオレがもっと最悪の事態を想定しておくべきだったか」
遠慮がちに背後から掛けられた声が誰の物であるかは振り返らずとも分かる。嗚呼、そう言えば初めて暫定勇者の死を目の当たりにし、行き場の無い感情を自室の壁にぶつけた時。あの時もこうしてリジーチェが声を掛けてくれた。今では名実共にラベリタの1番騎士であるリジーチェが。
伏せられていた顔を僅かに上げて、しかしラベリタは小さく首を横に振る。
基本的に平和主義である魔族の中、リジーチェは好戦的であり、先手を討つ事さえもう構わないのではないかと語る珍しい性分である。其れ故相手の醜い部分、現状正にといった事象を挙げるのであれば天界が下界の者に行っていた行為等の推測に長けている。其れは確かにラベリタ達には出来ぬ事、リジーチェだからこそ出来る事ではあるが。
「お前にそんな汚い事させられるか。誰かに汚れ役を押し付けんのがオレは嫌いなんだよ」
そう。その様に相手の汚い部分を正確に読み取ろうと躍起になるのは、当たり前だが気持ちの良い物ではない。ましてや今回の場合。
「天界は己のストレス発散の為に下界の者に暴力の限りを尽くし、使い捨てついでに魔界に送り込んでいる、なんて事実、推測だけで至れなんて言いたくもねぇ」
※
ラベリタは1つ大きく息を吐き出すと、視線を遠くへと投じた。だが其れも一瞬の事で直ぐに視線は青年の方へと戻る。会話中と変わらず青年を、彼が気分を害していないか様子はおかしくないか、案じ、注意深く見つめながら。
青年は気分を害してはいた。勿論其れは己の失った記憶が其処に関わるからという理由ではない。今迄神界と関わりを持ち、自分達は綺麗な者だと騙っては魔族の悪行を嘯いた。其の天界が影で何をしていたのか。其の光満ちた様子と恭しい態度に隠されていた、本物の面。其の醜悪さに。
青年とて詐術は得意である。穏業同様神族の上層部さえ容易に欺いてしまえるだろう。
青年とて此の長い長い時間の中、嘘の幾つかは口にしている。其れは直ぐに露見する些細な物もあれば、1つ2つは隠し通さねばならぬ大きな物とてあっただろう。
其れでも。其れを踏まえた上で、或いは此れは棚上げだと言われても構わない。そうした上で生き物は此処迄醜悪に成れるものかと吐き気さえ催す不快感が、長年神として生きてきた此の身にさえ振りかかる。
「大丈夫か!?」
そして其れを隠しきれる程の余裕も無かったか。或いは隠していたところでラベリタに其れを見破るだけの観察眼があったか。
何処か切羽詰まったラベリタの声に青年は何とか不格好ながらも苦笑を浮べると、首を振ろうとして、しかし振るべき方向に迷い、
「流石に良い気分はしないかも。でもオレの失った記憶には関係無いみたいだけど。……其れでもやっぱ、良い気分はしないっす。ごめんね、こんな話をさせて」
変わりに口を開いた。
ラベリタは青年の謝罪にか一瞬驚いた様子を見せるも、直ぐに小さく首を振る。
「いや、オレこそこんな話を聞かせて悪いな。……お前が其の被害を受けてねぇならまだ良かった。一昔前には魔族が攫われる事もあったからな。あの1件を考えるとつい、したくもねぇ警戒をしちまう。とは言え返事こそないものの終戦協定や停戦協定を提示してからはピタリと止んだが」
言ってしまえば何も関係の無い青年でさえ此れ程気分を害したのだ。其れを目にし、経験し、決して良い記憶になっている筈もないだろうラベリタは其れでも青年に全てを話し、かつ終始青年の事を気遣っていた。
魔族は神を認識しない。或いは神を知らないとでも言うべきか。
神族は魔族に関わらない。天界に力を貸すという間接的行為以外で魔族に対する一切を無い物としている。
しかしながらそう、神族には天界との繋がりがあり、青年には確かに膨大な力がある。神族としての力が。何をするのが最善手であるかは判断に難しい。加えてラベリタが終戦を望みつつ、其れが天界を滅亡させての形でない事は明らかだ。己の手を汚さずとも魔族の手が汚れずとも、天界が壊滅したが為の終結であればラベリタも魔族達も心からの歓喜は得られぬだろう。
其れでも青年には天界との友好的関係が残っている。直ぐに直ぐが叶わずとも何らかの取り掛かりさえ見出されば魔界側の望む形に天界を崩す事は不可能ではないだろう。其れが魔界の平和を望むラベリタへの恩返しになるのではないか。
もっとも単純に己の業腹というのも含まれてはいるが。
「ん?今更だけどお前、……帰る場所も覚えてない、よな?」
ふとラベリタが遠慮がちに問い掛ける。そう言えばそうだと青年も思い至る。
無論実際には青年の家は神界にある。しかしラベリタにとって青年は己の種族さえ覚えていない記憶喪失。自然帰る場所も其処から抜け落ちている事になる。
青年が頷けばラベリタは此処に居ないか?そう返してきた。
「城にも空きはあるし、こうした状況だ。多少の手伝いは頼まれるかもしれねぇが宿屋の主人や女将も、宿代を請求せずに生活は保証してくれるさ。お前さえ良ければ如何だ?記憶が戻る迄最低限の面倒は見るよ」
「良ければ!良ければお願いしたいっす!!」
勢い込んで答えた時青年の中にはそうするのが自然だという打算は無かった。
ただただもっと魔界の事を知りたいと、此の世界に触れていたいという思いから青年は答えていた。答えた後で声が明る過ぎ不自然ではなかったか、やはり逡巡さえしないのは無遠慮であったかと悔やむ。恐る恐るラベリタの方を窺えば、やはり青年の態度の所為か目を見開いて驚愕を露わにしていた。
しかし其れも一瞬。青年は直ぐにぷっと笑い出すと、微笑みを見せて青年に語る。
「話の中でも名乗ったがオレはラベリタ。一応は魔界を治める魔王を務めている。住人はみんな気の好い奴等だし、不安もあると思うが自分の国だと思って寛いで欲しい。分からない事や不安に思う事があれば気軽に聞いてくれ。ようこそ、魔界に」
そんな風に。
ただただ真心だけに溢れた、誠意の籠った言葉を。