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Ⅲ <前編>

「危ないから引き返してくれ。今迄だって危ない真似をして構わなかったワケではないが、今は尚更お前だけの体じゃないんだ」


 背後から聞こえる何処か焦った様な声音。事実其の声の持ち主が焦って此方を追い駆けている事を少年はよくよく理解しており、自分個人の事を案じてくれている事もよく分かっている。しかしそうした気持ちを理解出来る事と其れを素直に受け止めて引き返す事は別である。

 少年は聞こえない振りを決め込み此処迄進んできた。しかし其れもも限界があるだろう。本来であれば少年よりも歩幅も広く、体力もある声の主。少年を追い抜き強制的に進路を変える事等ワケもないだろう。其れでいてそうしないのは少年の事を案じつつ、少年の意志を汲んでくれているからに他ならず、其れを少年も分かってしまっているから無視を続けるのは良心が痛む。

 いくら幼少期から傍に居て多くの時間を過ごしてきた友人と言えど、否、そうした大切な友人であるからこそ無礼な態度を続けるワケにはいかないだろう。少年は観念した様に足を止めると溜息を吐いた。

 しかし声の主であり友人である彼が望む様に引き返す事はしない。


「オレだけの体じゃない、って言われてもな。まだ正式に決まったワケじゃねぇだろ」

「お前が1番魔王に相応しい。其れは明確だろうし、まだ正式に決まっていないと言っても継承式やら天界に対する詐術の天界やらの都合に過ぎない。実質お前は魔王になった様なものだ」

「……其れなら尚の事、今の内に行っておきたい。もし本当に魔王を継いだとしたら此処迄来るのは今以上に骨が折れそうだしな。其れに自分の目でしっかりと見ておきたいんだ」


 少年の言い分に友人の方は深く溜息を吐き、降参だと言う様に緩く首を振った。

 何の躊躇いもなく己の言い分だけを訴え、相手の反論を奪っておいて何ではあるが、彼には何時も申し訳ない事をしていると少年自身自覚している。今よりももっともっと幼い頃、数百年前より自分達の関係は然程変わっていない。

 何かと無茶をするらしい少年と、其の少年を案じるもう1人の少年。

 少年は友を過保護だと表し、もう1人の少年は友を危なっかしいと表する。

 其れが物心付いてから何百年と続いてきているのだから、いい加減態度を改めなければ愛想を尽かされてしまいかねない。もっとも少年は其れなら其れでも良いと思っていたが。

 友人と離れる事は酷く寂しい。酷く寂しいという言葉では足りぬ程だ。想像さえしたくない。

 しかし其の反面、友人が自分の傍で自分を案じているばかりに自身の人生さえ手放しているのではないかという不安も同居している。だからこそ彼が自分から離れていく際には笑顔で見送ってやろうとさえ思っているのだ。

 とは言え現実に此の友人は少年の魔王就任が殆ど本決まりになった際、魔王付きの騎士を志願している為、幸か不幸か当分此の生活に終わりは来る事もなさそうだが。


 何時も通りの生活。

 最近では天界からの攻撃も殆ど無く、少年が生まれてからの記憶では数度目の、束の間の平穏が訪れていた。

 とは言え何となく理由を察する事も出来るが故に、少年も友人も、他の住人達も此の平和を満喫しようとは思えないらしく、継承式やら詐術の展開やらに忙しくしている城付きの役職の者以外はひっそりと日々をやり過ごしていた。

 記憶の中で数度だけあった平穏も此れとまるで同じだ。もっとも此の平穏が訪れた理由さえ同じくしているのだから、結果が同様になっても何ら不思議はない。


 ただ少年にとって今迄の平和と異なるのは今こうして町から離れ、国の出入り口に向かっている事。

 そして何よりも此の類の平和を過ごす事が自分にとっては最後であるという事。


 敵将を討ち取れば歓喜に杯も交わされよう。其の間彼等が攻撃を仕掛けてこずとも何ら不思議はない。

 長らく続いている天界との大戦は、しかし1度たりとも魔界側から仕掛けた事は無い為、天界が祝宴に酔いしれている間は束の間の平和が魔界に訪れる。

 敵将を討ち取って交わされる杯。

 つまりは魔界側にとっては自分達の将、魔王が討たれた事に他ならない。外を歩いて砲撃や天界からの魔法が飛んでこないと分かっていても。天界と使者の契約を交わした下界の者に突如として斬りかかられる事もないと分かっていても。とてもではないが外を歩き回る気分にはなれないのだ。

 天界からの侵略が止んでいる暇を縫っては楽しそうに遊びまわる、少年よりももっと幼い子供達でさえ家の中に籠っている。魔獣達も種族問わず何処か消沈している様だ。


 少年自身彼等の様に落胆のまま膝を抱えていたいという気持ちが無いワケではない。

 王を討たれた瞬間は未だ脳裏に鮮やかに残っており、幾度も悪夢として魘され、寝具を濡らし、心を刻んでは精神さえ蝕んだ。

 其れでも少年には蹲っていられぬ理由がある。友人が口にしている様に時期魔王は大方少年で決定されるらしい。少年自身も聞いていた。……だからこそ此の平和を迎えるのは少年にとって最後であるのだが。此の平和が次に訪れる時は自分が天界に討たれた時なのだ。

 もっとも其処について怯えは微塵も、と言えば大仰ながら、殆ど皆無に近しいレベルで少年は持ち合わせていなかった。恐怖に直面した事で心が麻痺したのではない。もし自分が打たれる事で魔界に平和が訪れるのであれば、其れは喜ばしい事であると少年は思っているのだ。

 其の民を想う気持ちが大きかったが故に、彼は魔王に選出されたのだろうが。

 しかし民が、先代の魔王さえもが少年の事を魔王に相応しいと口々に語っても、少年本人はまるで納得していなかった。同世代と、否、其れよりも下の世代と比べても尚小さな牙や角による負い目も決して皆無ではないものの、少年の負い目はもっと別の所にある。

 自分はまだ、魔界の事を把握しきれていないのではないか。

 此の世界を何度も見てまわればもしかしたら、相手の侵入を阻む手段があるのかもしれない。

 忙しく動く城の関係者を除けば誰もがひっそりと過ごす時期に、其れを利用する様に少年がこっそりと偏狭の地、住人であっても滅多に訪れる事がない国の入り口に足を運んだのは其れが理由である。


「……つーかお前こそ今の内に休んでおいて良かったんだぜ?そもそもお前だって色々考えたい事もあるだろうし」

「いや。お前が出掛けるというのに1人休んでいるワケにはいかないだろう」

「餓鬼の頃から散々引っ張りまわしておいて何だけどな?お前餓鬼の頃からソレばっかで。いい加減自分の好きな事をしていいんだぜ?」

「お前を好きで心配して、好きで付いて行っている。……しかし、まあ、其れが不満なら、次期魔王様が出掛けると言うなら次期1番騎士として付き添いを申し出るのは当たり前だ、というのなら良いだろ」

「……たく」


 呆れた様に返しつつも少年自身、自分が友人の言葉に支えられている事を自覚していた。此の友人がいなければ結果的に遺言となってしまった前魔王の言葉を受け入れられず、重みに潰されていた可能性を否定出来ない。

 こうして自分がすべき事を見付け其処に歩いていけるのは、幼少期からの少年をよく知る友人が支えていてくれているからというのは大きいだろう。

 勿論常日頃から不相応にも抱いていた此の国を平和にしたい、住人が悲しまない世界にしたいという気持ちもある。其れは次期魔王としての未来が見えた時、有力候補だと言われた時と様々な伏目ごとに強さを増していき、今では確固たる意思になっている。其れでも前魔王が遺言めいた物を残して討たれて直ぐ、こうして其の為に足を動かす事が出来るのはやはり、変わらず自分に付いて来てくれる友人の支えあってこそだろう。

 今回の少年の目的は魔界の入り口付近の視察である。天界と隣接しているワケでもなければ、国としての魔界の隣に何があるというワケでもない。其れでも国という体面からか、魔界にも展開にもそれぞれ入り口というものは存在していた。もっとも大戦中である上上空からの攻撃も正確に乱射出来る天界側が、素直に入り口から国に来た事等滅多に無いが。

 少年とて其れを期待して視察に来たワケでもなければ、其処に罠を仕掛けるつもりもない。あわよくば敵を弾く為の何らかのヒントくらいは得られるかもしれないと思っているものの、重きを置いている目的、は天界其の物への対策ではなく、天界の使者の対策だ。


 天界の使者。

 天界の正式な文章では勇者と記される其の役職は、天界と契約を交わした下界の生き物が就く事になっている。


 通常では何の力も持たない下界の生き物の中から素質ある者を選び、協力を要請。下界から見れば異世界である此の地に適した体を与え、特殊能力と特殊な武器を与えて、天界は彼等を魔界へと送り込む。

 そうした天界の使者の剣に何百匹もの魔獣が斬り捨てられ、何人もの魔族が錆へと変わり果てた。

 天界に選ばれるだけの素質を持った上、天界の力を与えられているだけあって彼等の力はどれも本物であり、中には魔王を討ち取った者さえいたという。

 しかしそういった桁外れの力を持った者であっても、あくまで本質は下界の住人。魔法だの魔獣だのとは縁遠い生活を送ってきた彼等は、たとえ天界から恩恵を与えられていても自在に魔法を扱えない者が多い。

 そうした者は大抵数少ない魔力を攻撃系、或いは治癒系にあてている為転移魔法を使えず、其れ故に魔界へ侵入する手段として件の入り口を使用せざるを得ないのだ。

 勿論魔法を自由に扱える者は転移で侵入してしまうものの、少しでも侵入者の数を減らせるのであれば其れに越した事はない。


「とは言え」


 国の入り口に段々と近付いていた頃、少年は半ば独り言の様に、半ば友人に聞かせる様に口を開く。


「入り口時点で使者にお引取り願うっつっても、そう簡単にはいかないのが現実だよなぁ。魔族以外を衝撃無しで阻む様な結界がありゃ理想だがそんな便利アイテム無いだろうし、あったらあったで既に以前の魔王様の誰かが使ってるだろうから、使ってないって事は其れだけハイリスクって事だ。まあ国を隅々迄見る事自体重要だから無駄骨じゃねぇけど」

「其れなら話は簡単だろう。勇者と呼ばれる使者が来た時点で斬り捨てるなり、吹き飛ばすなりしてしまえば良い」

「お前、冷静そうに見えて結構過激な事を考えてるよな……。良いか?あくまでオレ達は先に手を出さない。オレの時代になったとしても其れを変えるつもりはねぇよ。もっとも誰が魔王になっても、其処だけは変わらないだろうさ」

「天界の力を得た状態で魔界に来る時点で其れは立派な敵対行為だろう?」

「だから其れは早計だって。ああ、見えてきたな。国の入り口。とはいえ、そんな便利アイテムの気配は感じ取れねぇが」


 国の入り口といっても門が構えられているワケではない。

 ぽっかりと突然道が途切れ、其処から先は異空間が続いている。勿論勇者は此処からやってくる為、足を踏み出した所で体が消し飛んだりする事はないのだが、突如途切れた道は明確に住む世界の境界を示していた。

 其の穴が視認出来る距離。入り口付近に何らかの便利アイテムや、結界の類を張る為の手掛かりとなる様な魔力の流れがあれば、十分察知出来る距離である。しかし何ら感じ取れる物はない。やはり流石に何かあると望むのは夢を見過ぎたか。そう思いつつも念の為、魔力探知の力を研ぎ澄まして微細な魔力でも拾い上げようとした少年を。


「ラベリタ!!」


 普段淡々と話す友人が珍しく荒げた声で少年の名を叫んだ事により、集中状態に入れず文字通り気が散る。

 名前を叫ぶのと殆ど同士に友人は少年ことラベリタの華奢な体を、半ば突き飛ばす様な勢いで自らの背中に隠した。ラベリタの体型に関しては先述の通りである事、友人の方は騎士志望である事や幼い時分よりラベリタを過保護気味に守ろうとしていた事もあり見掛けよりも力がある。

 抵抗する間も無く、ラベリタは背中に庇われる形に落ち着いた。もっともこういう際、下手な抵抗をするよりはされるがままに任せている方が余計な怪我を負う可能性は低い。突き飛ばした側が其れなりの経験と力加減を持っていれば却って抵抗する事が悪い結果に働くのはよく分かっている為、抵抗する間も無かったというのは結果的に良かったのだろうが。

友人の背中に庇われる格好のままラベリタは前方を窺う。何となく癪な状態ではあるものの、最早慣れてしまったと言えば慣れてしまっているし、此の友人がラベリタを突き飛ばした様な状況でラベリタが簡易的とは言え保護下を出る事を許すとは思い難い。

 加えて彼が強行策に出たという事は其れなりに危険が迫っており、つまらぬ争いに興じている場合ではないという理解もある。

 もっとも再三言っている通り彼はラベリタに対して酷く過保護である為、蓋を開けてみれば些細な危険にも満たぬ様な物だったという事も珍しくはないが。


 果たして視線の先には1人分の人影があった。


 未だ魔界の領域には足を踏み入れていない事もあってか顔立ちは朧気ながら、人影を成しているという事は此方に向かっているのは人型。右側がやけに出っ張って見えるのは帯剣しているからだと考えれば納得も出来る。

 此の入り口を使用するのは勇者くらいであるから、友人が敵襲を警戒してラベリタを庇ったと考えて何ら問題は無さそうだ。

 実際に攻撃を仕掛けられたというワケでもないのに相変らず心配性が過ぎるヤツだと半ば呆れつつ、其れでも警戒するに越した事はない防御魔法を構築する反面、友人が先走って相手を斬り捨てて仕舞わぬ様其方にも注意を払いながら、侵入者の様子もよくよく観察する。

 そういった器用な事を何処にも手抜きなくやってのけつつ、ラベリタは1つの違和感に突き当たった。


 侵入者の様子がおかしい。


 違和感が更に強くなったのは侵入者の顔立ちが認識出来た其の時。魔界にふらふらと覚束無い足取りで入ってきた其の人型は、一見して分かる範囲だけでも傷だらけで衰弱しきっていた。

 右手には確かに剣を持ってはいるが、其れは世辞にも構えているとは言える状態ではなく、重みに耐えられないものの捨てる事も出来ずに引き摺っているとでも言う方がしっくり来る様な有様であり、恐らくは天界の使者(勇者)なのだろうが、今迄目にしてきた勇者とは根本的に違えていた。

 其れに気付いているのかいないのか。

 十中八九気付いているけど関係ないという判断を下したのだろう、相手の出方も見ずに愛剣で侵入者を斬り捨て様とする友人に対し、


「止めろ、リジーチェ」


 今度はラベリタが友人の名を呼ぶ事で静止を促す。

 友人、リジーチェは不満そうな様子をちらと見せつつも、警戒は解く事無く眼前の勇者を見据えたまま、其れでもラベリタの言葉に応えて斬りかかるのを止めた。

 とは言っても不満は存分に残っている様で勇者を見据え、何時でも斬り捨てられる様に愛剣は構えたまま、リジーチェは背後に庇うラベリタに問い掛ける。


「何故だ?侵入してきた以上敵対行為と見做して斬り捨てても、其処迄責められる事はないだろう?此処で多少グレーな戦術を取ったところで、此の状態で町中に進まれるよりは良いと思うが」

「町中に出られるのを避けたいっつーのは同意出来るけどな?まだコイツは何も攻撃してきちゃいねぇ。其処で手を出すのは魔界始まって以来の問題になるだろ。はっ、今町中を襲われる被害を考えれば悠長だと思わないでもねぇけどな。……そもそもコイツは何かおかしい」

「魔界を大切に想うお前の気持ちは買っている。歴代魔王様が遵守し、オレ達も当たり前の様に受け入れてる先に手を出さないという意思も立派だろうさ。だがオレもお前と同じ言い分だ。コイツは他の勇者に比べておかしい。だからこそ妙な手に出られる前に早々に葬ってしまうべきだと思うが」

「いや、そういうおかしさじゃなくて。……つーかお前、やっぱ其処迄理解した上で斬ろうとしてたんだな」


 リジーチェの魔族にしては珍しい好戦的思考は相変らず健在であり、多少頭を抱えたくなってしまうも、彼は分別のある性格をしている為己の好戦的思考は決してラベリタ以外の前では口にしない。また彼自身争い其の物を拒んでいるワケではなく彼の好戦的思考の根底には魔界を想う気持ちがあっての事であるし、ラベリタの言葉は基本的に受け入れてくれる為、当面の問題は其処にはない。

 当面の問題は此のおかしな勇者だ。

 確かに2人で会話を交わしつつも警戒心は一切解かず、視線は勇者を見据えたまま、リジーチェの手は剣を構え、ラベリタはラベリタで強固な防御結界を何時でも発動出来る状態にまで備えていたが。

 件のおかしな勇者は飛び掛ってくる気配を微塵も見せない。

 今迄であれば此方の攻撃や防御に警戒しつつも、勇者達はそれぞれが得意な攻撃を仕掛けてきていた。しかし眼前の勇者には其の様子がまるで窺えず、かと言って魔族との対面に恐れをなしている様な気配もない。

 其れがラベリタの違和感を益々深めていく。

 大戦が長年続いていれば其の戦略として天界が送り込んでくる勇者と対面したのも、何十、何百人に及ぶ。そうした中では確かにいざ魔族を前にし臆する者はいた。いたが、恐れているなりに何かしようとしてはいた。其れはがむしゃらに突っ込むなり、自害を図るなり、寝返ってみせるなり様々であったが眼前の勇者の様にただただまるで虚空を見つめる様にぼんやりと立ち尽くしたままという事は1度も無かった筈だ。

 其れに此の勇者からは天界の気配をまるで感じられない。勇者は天界の使者であり、天界からの恵みを受けている。其れ故天界の気配を色濃く感じられるのだ。


「……なあ、飛躍し過ぎだって笑ってくれて構わねぇよ。1つ良いか?」

「オレがお前の言葉を嘲笑した事があったか?」

「オレの言葉を笑わず受け入れてくれるお前にも笑われかねねぇ。我ながら現実感っつーのを放り捨てた意見だって自覚はあんだよ」

「其れでも笑いはしないさ」


 そうした会話をしている間も勇者は何かをしようとはしない。ただ虚ろな目を此方に向けるばかりで、其の目は魔族に対する恐怖や憎悪もなければ、天界に対する信頼も敬愛も無い。

 心がからっぽになった者の瞳というのをラベリタは見た事が無かったが、其れはこうした目の事を言うのかもしれない。

 勇者への警戒は欠かさぬまま、ラベリタは言葉を続ける。もっとももう警戒の必要は無いのかもしれないが。


「コイツ、天界の力を受けてないんじゃねぇか?」


 其れはラベリタ自身が前置いた様に本来であれば有り得ない、笑われてもおかしくない結論である。そんな結論を出せば冗談だと思って笑われるか、本気で言っているのであれば本気で頭の心配をされてしまっても文句は言えない暴論だ。

 魔族にとっては魔界こそ住むべき世界、安息の地であるが、下界の者にとってはそうではない。其れは魔界に限らず天界についても同様であり、下界にとっては異界、そして異界の空気は下界の者には猛毒とさえされている。

 天界が自らの使者に与える力は、単純な力や魔力だけでなく、異界である天界と魔界で生き抜く為に必要な処置であるのだ。其れを怠ればどうなるか実際に見た事はないものの、推測は容易だ。

 体は異界に耐えられず、簡単に死に絶えてしまうだろう。

 だからラベリタが口にした様な結論は本来であれば有り得ず、笑い話のタネにされる様な極論である。しかし自身の言葉通りリジーチェは笑わなかった。それどころか視線こそ眼前の勇者に向けたままではあるものの、ラベリタの言葉に神妙に1つ頷いてみせる事で肯定を返した。


「恐らくは。理由も天界の目的も定かではないが、天界がコイツに力を与えた形跡はない。もっとも手にしている剣は天界からの物だろうが、其れだけだ」

「……入り口の防御の類は後だ。一先ずコイツを保護するぞ」

「オレとしては天界が送り込んだ事に変わりは無いと見做して此の場で葬り去りたいが。まあ、お前ならそう言うだろうとは思っていたしな」

「オレじゃなくても言うだろ……。怪我も酷いし早急に手当てすべきだろうが、転移魔法なんて使ったら負担が掛かるのは目に見えてるしな。1番近くの宿屋でも借りるか」

「ならお前が転移魔法で宿屋に飛んで主人達に話を付け、治療の準備も進めておいてくれ。お前の方がそうした社交には長けているだろうし、人1人運んで行くのならオレの方が適任だ」


 知らず渋い顔になっていたのだろう。リジーチェは何処か悪戯めかして笑う。


「大丈夫だ。お前が止めろと言った。お前が助けると言った。斬り殺したりはしないさ」


 勿論、ラベリタの渋面の理由を正しく理解していながら敢えて的外れに。

 もっとも今此処で友人とじゃれあいの様な会話をしている暇がないのは、勇者(下界の住人)の様子を見れば明らかであった。

 適材適所という言葉もある。

 其れ等が理解出来ぬ程ラベリタとて子供ではない。直ぐに渋面は真剣な顔へと打って変わり、練っていた防御魔法を転移魔法の魔力へと変換させる。次期魔王である事が殆ど確定している其の腕は流石と言うべきか、一刻を争う様な状態であっても思わず見惚れる程鮮やかな流れで彼は魔法を構築、其の姿を会話に出た宿屋へと向けて転移させる。

 最も信頼の置ける、1番の友人たるリジーチェに、ソイツを頼むという言葉を残して。





 少年、話の途中で本人が名乗ったところによればラベリタというらしい、は、其処迄話すと口を閉じた。

 もっとも其れ迄の間でラベリタは全く淀み無く話していたというワケではない。時に口を紡いで数秒沈黙したり、言葉選びに迷う素振りを見せたりはしていた。そして其の度に青年は後悔に襲われた。

 ラベリタにとって此の話が気持ちの良い物でない事は想像に難くない。寧ろ触れるのも忌避したい記憶であったのだろう。其れは心を見通す類の魔法を使わずともラベリタが浮かべる表情や、些細な動作で初対面である上他人の痛みを気にも留めない青年にすら読み取れた。

 目に宿る怒りや悲しみ。そうした自身の感情を押し殺す様に強く強く握り締められた小さな手。少年の様に小さな体に抱え込んでいた不愉快な記憶を、しかしラベリタは努めて何でもなさそうに、ただただ史実を聞かせる様に言葉を紡いでいく。

 そうした状況に追い込んで迄言葉を引き出させているというだけで後悔を抱かせるには十分だろう。仮定の話にこそなるが其れだけでも冷血漢とさえ噂される青年の心にさえ、後悔という感情、誰かを此の場合はラベリタを労わる感情を植え付けたかもしれない。

 しかしラベリタの様子は此れだけに留まらず、そして青年の冷たい心さえ完全に後悔を覚えさせた。

 双眸に宿るは悲嘆の色。憤怒の色。其のどれもが色濃く、少年の(こうした)見た目ながらも魔族の性質上長い時間を生きてきたラベリタの中で不愉快極まりない苦しい記憶である事は前述の通り、想像に難くない。抱えているだけでもラベリタにとって傷となっていただろう。其れを口にだして語るという事は自ら其の傷口を抉るという事だ。

 其れがどれ程の痛みを伴うか。

 痛いと感じる様な記憶を持たぬ青年では想像にすら及ばぬ様な壮絶なものだろう。其れにも関わらず此の少年は。


 会話の中、絶えず、青年の方を気にしていたのだ。


 確かに少年の双眸は悲嘆を宿し、憤怒に燃えていた。しかし其れは宿る度に消え、燃える度に失せ、其の頃には悲嘆も憎悪も嘘であったかの様に青年の方をやさしく、案じる様に見つめていた。其処からは先迄確かにラベリタが浮べていた感情は影も燃え滓さえも残さず、ただただ青年を気遣う色だけが其処にあった。

 ただ記憶を思い返すだけでも己の傷を抉る行為であろうに、ラベリタは思案し、事実を的確に告げながらも青年が傷付かないだろう、其れが叶わぬのなら傷が浅く済むだろう言葉を選んで紡いでいた。

 其の理由は簡単だ。其の原因は明白だ。

 ラベリタは青年が己の種族さえ忘れてしまった記憶喪失の青年だと信じ、其の心当たりを持っている。だからこそ幾ら青年が覚悟はしていると語っても、記憶を取り戻す事で深い傷を負わぬ様気を遣っている……気を遣わせてしまっているのだ。


 何度少年の言葉を制止させようと思っただろう。一瞬だけ苦痛に顔が歪み、感情を堪えようと掌を破らんばかりに拳を作り。

 そうした姿を目にし、何度もう言わなくても良いっすと声を掛けたくなっただろう。

 堪えきれず言葉が喉をせり上がってきたのも1度や2度ではなかった。

 しかし青年は其れをしなかった。正確に言えば出来なかった。

 何故ならもしラベリタの言葉を止めればラベリタは、青年が失った記憶の輪郭に触れて苦痛を感じていると判断するだろうから。

 何故ならラベリタの話を止めるのは、自分の記憶をラベリタに求めた記憶喪失の青年の仕事ではないだろうから。

 だからこそ青年の中に強い後悔は生まれていた。

 天界の実態を知りたいと思い、天界側の報告(敵国)としてしか知らない魔界の本当の姿に触れたいと青年は願った。ラベリタの話で全貌は見えずとも一端を掴む事くらいは可能だろうと話を求めた。

 ラベリタに穏業を破られた際、神族である事が露見し要らぬ面倒が起きては御免だと記憶喪失のフリをした。

 其れさえしなければ。

 せめて己の正体を明かした上で天界と魔界の事を知りたいと打ち明けていれば。

 其の場合ラベリタは話してさえくれなかったかもしれない。魔王の優秀な部下、主に先の話にも出てきた過保護なリジーチェ(1番騎士)に強制的に魔界から追い出されていた可能性さえある。

 其れでも此の少年が余計な気をまわして言葉を選び、己の傷にも無頓着で本当は何1つ傷を負っていない青年の様子ばかりを気に留める事もなかっただろうに。


 悔やむ。

 しかし後悔したところで如何にもならない。

 今此処で正体を明かしたとしても其れは青年の自己満足にしかならない。ラベリタの気遣いを、気苦労を、無意味なものだったと嘲笑に付す事にしか。


 其れ故に青年は言葉を失った。

 もっとも其れなりに自分の国が助力していた天界が、まだ確信にこそ至っていないものの卑劣な行為を犯していたらしいという事実だけでも、基本他人に無関心を貫く青年さえ閉口させるだけの情報ではあったが。

 そんな風に後悔に満ち満ちた思考の海に沈もうとしていた青年を、突如として引き上げたのは。


「……本当に大丈夫か?」


 此の短時間だけで随分と聞き慣れた声に、思考の海に沈むのに従って俯きがちになっていた顔を上げる。

 尚も此方を気遣う様な声に顔を上げれば、尚も此方を気遣う様に此方を見つめるラベリタの双眸。

 また胸が痛むのを感じつつ青年は首を横に振り、少しだけ頼りなく見えるもののしっかりとした微笑みを作りあげた。

 せめて少しでもラベリタが此方を気遣う事が無いように、と。


「大丈夫っすよー。気分が悪いとかもないし。ただ記憶も戻っては来ないけど」

「……何度も言うが気分の良い話にはならないぞ?お前がどの立場だったところで、良い気がする話にならない事だけはお墨付きだからな」

「オレも何度でも言うけど、やっぱ記憶に関わる事かもしれないなら知りたいっす」


 嘘だ。

 取り戻すべき記憶など青年にはない。

 あるのは、測こそ付いているものの此の話がどんな結末を迎えるのかきちんと聞きたいという気持ちと、今此処で話の制止を求めればラベリタにアンタの気遣いは無意味でオレは十分傷付いたと伝える事にも思え、其れを忌避したいという気持ち(エゴ)

 そんな気持ちを抱えているからだろう。ラベリタがまるで真意を窺う様にじっと此方を見つめている事に、青年は少なからず動揺した。何かを取り繕うべきか、其れとも何もせずワケが分からぬ風を貫くか。動揺の中、頭の片隅で考える。

 もっともそんな状況で出した答えが最善手どころか次善の策になる事はないだろうし、幸いな事に青年が悪手と成りかねない考えを出すより先にラベリタが口を開いた。


「うん、嘘じゃなさそうだな。無理をしている風もなさそうだ」


 満足そうに、そして安心した様に1つ頷いて言うラベリタに、青年は益々混乱を極める。

 間抜けな声をあげる事こそなかったが、其の混乱はありありと表情に出ていたのだろう。ラベリタはああ、と納得した様に声を漏らすと青年に目元をやわらかくした双眸を向ける。其処には今迄と違って何処か此方に対する罪悪感の様な物が僅かに窺えた。


「悪いな。お前が無理をしてるんじゃないかと思ってちょっと覗わせてもらった。盗み見るみてぇな事して申し訳ねぇし、お前の意志を尊重したいとは思ってるが、無理されるっつーのは望んでないんでね」

「えっと、心を見たって事?」


 もしそうであったら、ラベリタは青年の後悔も、ラベリタに対する罪悪感も見て取ったのではないだろうか。青年が本当は記憶喪失の青年などではなく、魔族とは縁遠く天界は其れなりに関わりがある神族だという事さえ見て取った、或いは推測出来るだけの材料を見付けたかもしれない。

 ラベリタの様子は先程と全く変化がない。其処に騙されていたという怒りや絶望も微塵も感じられないが、だからと言って露見していないとも限らない。

 其れがやけに不安で、先迄抱えていた戸惑いも手伝って僅かに声が震えていたかもしれない。


「いや。其処迄踏み込んじゃいねぇよ。あくまで今の会話に対するお前の不快感や拒絶反応を窺っただけだ。結果お前の言葉に嘘はなかった、って判断したんだが……やっぱ話すのを止めた方が良いか?」

「ううん。オレが大丈夫だって伝わって良かったし、心配してくれたのは素直に嬉しいっす。でもアンタさえ、ラベリタさえ良ければ続きを話して欲しい」


 如何やら正体が露見した事はなかった様だ。其れに安堵しつつ青年はラベリタの言葉に返す。

 いきなり名前を、其れも呼び捨てる形で呼んだからか、ラベリタは一瞬目を見開き、しかし気分を害した風もなく直ぐにくすくすと笑い出した。其処に先迄悲嘆に暮れ憤怒に燃えていた姿はない。また青年自身が望んだ会話の続きによって直ぐ掻き消えてしまうのだろうが、見た目に見合った少年らしい無邪気な様子に青年は安堵する。

 もっとも青年が話を求めなければラベリタは己の中の不愉快な記憶を呼び起こす事もなかっただろうから、此の程度償いにも慰みにもならないだろうが。

 其れでもひとしきり楽しそうに笑うラベリタの様子は青年の目にも微笑ましく映った。


「じゃあ続き、話すな」


 そう気を引き締め、表情も引き締めてから切り出す迄少年らしい無邪気な笑顔をラベリタが浮べていた事に。

 恐らくは魔界の環境や彼の友人であり1番騎士だろうリジーチェの力が大きいだろうが、傷を抱えていても此の少年が笑えている事に幾らか安堵しつつ。


「執拗な警告に思われるだろうが、気分が悪くなったら言えよ?」


 恐らくはラベリタにとっても深い傷の部分。

 そして彼には遠く及ばずとも魔界の卑劣さだけを聞かされ、天界を同志と言わずとも其れなりに関わり、力も貸してきた神界の住人として、今迄長年持っていた考えが引っ繰り返る……取り返しの付かない失態さえ叩き付けられる事に対しての覚悟を決めて、青年は重々しく頷いた。



 今迄神族の仕事など考えた事もなかった。

 しかし此れを機に本来の神族(自分達)が如何あるべきか、見つめ直すべきなのかもしれない。

 勿論、今迄のオレの、褒められない態度改善も含めて。

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