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 穏業の術。

 魔力を練り、己の姿を周囲から文字通り隠す為の魔術、或いは技巧を凝らした結果の技術である。魔術と技術の差異こそあれ其れを極めれば欺く事が可能な存在は増え、膨大な魔力或いは生まれながらの才能を持つ者が極めれば微細な存在感の欠片さえ誰にも掴ませる事無く身を潜める事が可能になるらしい。

 らしいという中途半端な表現を用いれば尚の事、眉唾物、過去少し穏行が優れただけの者について伝承が一人歩きした結果大仰に伝わっただけと言った印象の方が強固になってしまうだろうが、其れは決して眉唾物でもなければ伝承の一人歩きでも何でもない。


 誇張でも過大評価でも何でもなく、ただの事実として其れ程の穏行術を扱える者は存在する。


 だからこそ其の誰からも存在感の尾さえ掴ませぬ程に穏業術を扱える者であるところの1人の青年は、住人が行き交う中存分に談笑中の人々に不躾な視線を送り、鼻を大袈裟にひくつかせるという整い過ぎた顔さえ台無しになる様な間抜け面を何の躊躇いも無く晒せているのだ。

 此れが穏業を用いらずの行動であったら不躾な視線に長時間晒される事に、幾ら穏やかに談笑している住人達でも多少なりとも気分を害し、場合によっては要らぬ争いを巻き起こすだろうし、間抜け面に失笑を買う事も請け合いだっただろう。

 しかし青年の穏業は誰にも見抜く事が出来ない。青年自身の上に立つ、幾年も経験を積み修行を重ねた老齢のお偉方であっても青年の穏業には舌を巻くばかりで何も太刀打ちが出来ないのだ。もっとも其れは穏業に限った話ではないが。

 其れ故談笑に花を咲かせる住人達も、何となく視線を感じるという事さえなく、青年の存在を微塵も感じる事なく恐らく普段と変わりないだろう生活を営んでいる。

 そう。此れが普段と変わらない生活であるのなら、青年にとっては驚きだ。


「うーん、転移場所を間違えたかなぁ」


 胸中で抱くだけに留まらず思わず零して見せた独り言も無論、行き交う住民の耳に届く事はない。

 とは言え言葉にしてみれば信憑性が多少なりとも増すだろうかと思っての独り言ではあるが、青年にとっては却って逆の効果を齎した。

 桁外れた魔力と其れを組み上げて術の形にする精度。加えて身も蓋も無い様な話であるが、影響は避けられないとされている生まれ持っての腕。

 そうした物が並外れ過ぎて優れている青年にとって転移場所を誤る等有り得ない話であった。青年が転移場所を間違えるよりも天と地がある日突如、何ら前触れも無く引っ繰り返ったものの被害は一切無かったという方が未だ現実的であり、更に言ってしまえば此処が其処である方がもっと現実味がある。

 もっとも俄かには信じ難い話であるのも確かだが。


 転移した青年の目に映ったのは、穏やかな表情を浮かべ隣人と談笑したり、目的地に向けて歩く住人。楽しそうに走り回る子供の元気な声。

 洒落た煉瓦造りの花壇を彩る花は華美過ぎず、程好い美しさを誇っていて好ましい。種類や色合いのバランスもよくよく考えられている様で見事の一言に尽きる。

 鼻先を擽る甘い匂いはとても心地良く、不快感を感じさせる甘ったるい臭いや人工物めいた物ではない。生憎と青年には見聞きしただけで身に染みた経験はないものの、其れは例えるのであれば休日に母親が焼き菓子を作った時の様な其れを思わせる安堵感と心地良さ。


 下界に住む人間に此の光景を話して聞かされば、彼等は間違い無く口を揃えて天界の光景だと語るだろう。

 厳密に言えば天使や精霊の暮らす天界と神々が暮らす神界は同一で無いのだが、下界の者に其れが分かるとは思えない上、今の論点は其処では無い為如何でも良い。

 そう。此処は天界でもなければ神界でもなく、下界でもない。


 楽しげに微笑み談笑を交わす或る住人の頭には三角形の角が。其の会話相手である住人が喋ったり笑ったるする度に口元には牙が。

 走り回る子供達には其の年齢故にか未だ幼く小さな蝙蝠羽根や三角の尻尾が。

 そうした多種多様な其れでいて広義では1つの種族が集る世界は唯一無二。天界でも神界でも下界でさえ同じ名称で呼ばれ、基本的には不浄の地、悪辣の地と忌み嫌われる場所。魔界である。

 魔界を自分の目で見るのは青年も初めてだ。しかし魔界の話は黙っていても自然と耳に入ってくる。天界と続く争い。下界の者を堕落させる行為。荒みきり、常闇と言うに相応しい鉄錆の臭いに満ち満ちた国。

 と平たく言ってしまえば其れが多くに語られ、青年の知識でもある魔界なのだが、今眼前に広がる光景にはそうした様子が欠片も感じ取れない。

 其れ故に青年は戸惑い、自分の姿がどれ程の魔族であっても感じ取れぬのを良い事にしげしげまじまじと観察して回っているというワケなのだが。


 見れば見る程混乱は増していくっすねぇ。


 というのが青年の出した結論である。

 幾ら観察しても噂に聞く、或いは伝承に語られる魔界とは似ても似つかぬ平和な光景が広がるばかりだ。寧ろ此れを見てしまえば天界の方が余程荒んでいるのではないだろうか。

 何度か訪れた事もある天界の光景は容易且つ鮮明に脳裏に熾す事が出来る。光や花々に溢れ絢爛豪華な御殿を構え、傍目には楽園の体を成しつつも力関係や組織がしっかりと構成されているが故に影で頻発する上へ向かう向上心(蹴落としあい)

 浮べる笑みは万人に等しく向けられる物でありながら何処か薄い。もっとも傲慢で身勝手、其の上高みの見物が標準装備たる種族の1人に天界の住人も語られたくはないだろうが。

 しかし今見る光景だけでも魔界にはそうした物が微塵も感じられない。

 魔界は魔族の寄せ集めである。広義では同種族とされているものの、例えば今正に仲良く談笑している鬼と吸血鬼、走り回る悪魔と夢魔の子供といった様に厳密に語るのであれば全くの異種族が寄せ集められている。そうなれば生態系や趣味嗜好も多少なりとも異なりを見せ、争いが勃発して不思議が無いのだが彼等は驚く程穏やかだ。

 魔界を汚い種族の掃き溜めと表する天界の住人は多いが、掃き溜めは何方だと思わず此処に居る筈も無い彼等に内心ツッコまずにはいられなくなる。

 青年の本来の所属地である神界でさえ上位の座を狙って身内同士の蹴落としあいや、大量の愛人を囲う事、伴侶の利用さえ躊躇無く行っているというのに。

 神族が、天界の者が、終いには下界でさえ下位種族の寄せ集めと語られた地である筈なのに、其の振る舞いや国の有り様は上位種よりも余程上位種らしい。

 もっとも本当の所青年にとっては全てが平等に下らなく、他種族だからと下位種族の様に思ってはいないのだが。


 此の青年は神界に所属する。つまり種族は神族。下界で神様と呼ばれる存在である。

 そんな神様の中でもまだまだ新米の若造でありながら、老齢のお偉方にも容易に勝る力を発揮する彼が、完璧な穏業を自身に施しているのが現状だ。

 其れ故彼は魔界のど真ん中、不躾な程に視線を投じ、時に間抜けな姿さえ何の迷いも無く晒していた。其処には意識してか無意識にかは兎も角、どうせ誰にも認識されないのだという前提があっての事。

 彼の穏業については前述の通り。

 眉唾物の伝説ではないかと言われるレベルであり、其の僅かな気配さえ誰も掴む事が出来ない。其れは大神とでも呼ばれている様な上層部でさえ。

 そう。


「なあ、其処の。ご丁寧に穏業術迄使って何の用だ?」


 今迄誰であっても見抜いた事が無い、見抜けない、筈だった。

 背後から掛けられた声に青年は驚愕する。飛び上がる程と言っては大袈裟かも知れないが、少なくとも比喩でも誇張でも何でもなく誕生して幾千年、今迄の生涯で1番驚いた。

 思考は動揺による影響を受けたのか他に穏業を使っている者が居るのかと有り得ない考えさえ提示する。視線が釣られて周囲に向くも、やや遅れて其れは有り得ないと理性が否定した。誰かが穏業を使っていれば其の精度は如何あれ、魔術を用いているという様子が青年の目には映る。

 もし他に誰かが居た場合、青年の目でさえ見抜けない程の穏業の持ち主という話になるが、神種である青年にさえ見抜けない術を破る存在が早々居よう筈も無い。少なくとも神界と天界には居なかった。

 そうなれば。

 此れも有り得ない様な話ではあるものの、余程現実的である可能性。

 背後から掛けられた声の持ち主……未だ幼さを存分に残す少年の様な声……は、青年の穏業を見抜いたという事。

 そろりそろりと。

 或いは怖々ととでもいう表現が見合う様に、青年は顔を後ろへと向ける。

 果たして其処には声音から想像出来る外見と違わぬ年格好の少年が1人、本来であれば何も見えない筈の(くう)、しかし実際には青年が立つ場所を見据えて立っていた。

 小さく華奢とも言える様な体躯に、魔族に見られる特徴である角や牙も其の体型に見合って小さい。牙に至っては注視せねば見落としかねない程である。

 先程町中を楽しそうに走り回っていた悪魔や夢魔の子供達と其れ程年格好だけを見れば変わらぬ様にも見える。もっとも魔族も神族同様時間の流れが遅い生き物であり、外見から歩んだ年月を推測するのは難儀な事である為一概には語れないが。

 加えて少年が無邪気に走り回る子供達と似通っているのは体型や顔付き、声の幼さだけである。

 其れだけ似通っていれば子供達と似通っていない点の方が少なく、子供達と同分類にしても構わぬ様に思えるが此の少年、決定的な部分が彼等とは異なっていた。断じてただの子供に己の術を見抜かれた悔しさから負け惜しみを探し出したワケではない。

 敵対する天界の者や魔界側とは疎遠と言え高い能力を誇る神族は当然の事、魔法的な力とは縁遠いと言われる下界の住人でさえ此の少年を目にすれば否が応でも何かを感じずにいられないだろう。何かを。そう。


 其処等を駆け回る子供達は当然の事、談笑を交わす大人でさえ比べるべくもない程に突出した魔力。

 小さな体躯ながらも其の体に掛かっているのは全人類の命であるという覚悟。

 万人の上に立ち、其れに相応しい振る舞いを身に付けている統率者の風格。


 此の少年こそ多種多様の魔族が集る魔界を統べ、其の頂点に君臨する王。魔王である、と。


 其れであっても己の術を見抜かれた事に対しては度し難いものがあるが、破られた以上は其処に固執していても仕方がない。無視を決め込み余計なトラブルを生んでも厄介な事此の上なく、正体が露見したら露見したで厄介である。

 現状天界からの大戦報告は途絶えているものの、天界と魔界は長年大戦が繰り広げられている。

 天界とはやや密接に関係している神界であるが、魔界とは前述の通り疎遠。魔界側が神界を如何認識しているかは定かでなく、定かでない以上は様々な可能性を考えて対応すべきである。

 其の大前提として正体が露見していないのであれば隠し通し、極力穏便に済ませるというのが最善策だ。


「……えっと、オレに言った……よね、多分」


 青年は整い過ぎた顔で苦笑の形を作り上げ、周囲をもう1度見渡しつつ少年へと問い掛ける。

 少年はと言えば青年の其の言動に呆れ顔を1つ作り上げた。


「少なくともオレにはお前しか穏業術を使ってる誰かは感知出来ないな。お前の目に別の誰かが見えてるなら、其の誰かさんに少し術の精度を下げる様頼んでみてもらいたいものだが」


 ゆるりと1度青年は首を横に振る。

 其れこそ本当に青年にも感知出来ない程の誰かが居れば話は別であるが、少なくとも今青年の目に映るのは呆れ顔の少年と視界の端に映る平和な日常を謳歌している楽しそうな魔族達だけで、穏業を用いている他の誰かとやらは微塵の気配も無い。

 相手の用件、そして相手が自分について何処迄知り得ているかを探りたい。そしてこうした場合後手に回るのは極力避けるに限るだろう。もっとも経験と評価に裏打ちされた絶対的な自信を崩された時点で、向こうに軍配は上がっている気がしないでもないのだが。

 青年は其れ以上の抵抗を諦め、降参だと言う様に両手を軽く挙げてみせる。わざとらしい溜息を1つ。何方も演技ではあるものの、本音を言えば早々に降参して逃げ帰ってしまいたいし、肺が空になる程の溜息だって漏らしたい。


「オレに感知出来る限りではオレしか居ないね」

「其れで用件は何だ?随分と熱心に此の辺を見てくれていた様だが……魔族、じゃないよな?」


 そう問いを重ねる少年の目はしかし、言葉にも表れた通り青年の正体を決めあぐねている様な色がはっきりと見て取れる。

 初対面で、其れこそ魂に刻み込まれ訴え掛けられた様な絶対的な風格が若干ながら揺らいでいる様にさえ、見えなくもない。

 何故か少年は青年の事を魔族ではないと断定出来ない様だ。一見して青年に魔族が持つ特徴は一切見受けられない。其処については特徴が露見するのに一定条件を必要とする種族も居るのかもしれないが。しかし青年の感覚が間違いでなければ此の少年、恐らく魔王は自分の国の住人の事を把握していそうに思う。そうなれば青年が自分の国の住人ではない事、つまりは魔族でない事も容易に判断出来そうなものだが。


 青年は即座に2つの可能性を推測する。

 1つ、此の少年に対する評価は自身の術を破られた事も影響した、青年の過大評価である事。

 2つ、此の少年は眼前の見知らぬ誰か(青年)を一概に魔族でないと判断出来ない事情がある事。


 1つ目の可能性は浮べてこそみたが今一ピンと来ない。そうなればまだ有り得そうなのは2つ目。

 しかし此処で其の可能性に賭けて魔族を名乗る事は青年には躊躇われた。神界は魔界と疎遠であり、基本的に魔界に対しては触れず近寄らずだ。自分達が神でありながら触らぬ神に祟りなしといった態度を長年貫き通している。噂には極々1部の例外が居るという話だが、其れこそ伝承級の話である上、今此の場では関係の無い事。

 そう。だから青年も当たり前の様に魔界に対する知識は一切無い。持ち得る知識は噂に聞き、天界から聞かされる物だけ。

 魔界に対する偏見だらけの地で、魔界を敵視する相手から聞く情報となれば、魔界(相手)に不利になる様な、多少操作された情報である可能性の方が高いだろう。そんな情報だけを武器に魔族を名乗って穏便に事を済ませるのは、己の力量に自身のある青年にとっても無謀でしかない。

 ならば。

 青年は自身の出した答えに従うべく。



 悲しげな困り顔を作り上げた。



「実はよく分からないんだ」


 果たして青年の策は、少なくとも最初の出だしに関しては成功した。

 少年の目は驚きに見開かれ、何処か痛ましげに揺れた。まるで此処が町中でなければ今にも泣き出してしまいそうな程に。己の感情を堪える為にか、或いは堪えきれず浮上した結果のものか、強く唇を噛み締める。小さく鋭利さの欠片もない牙とは言え、其れこそ己の皮膚さえ突き破りかねない勢いで。

 はっ。短く吐き出された言葉にもならない音からでは彼の感情を正確に汲む事は出来ない。しかし此の様子が青年の尻尾を掴む為の演技でもない限り、嘲笑の類ではないだろう。

 突破口を見付けた。

 確信と同時により用心を深める。少年の言葉や顔色から魔界の目から見た魔族の実態を探り、己の正体を明かさずに上手く切り抜ける事が出来るかもしれない。


「よく分からないって、自分の種族、だよな?……まあ深く聞こうとは思わねぇけど」


 問いを重ねる少年の声は何処となく震えており、青年の突拍子もない発言を訝しむ様子はない。寧ろ自分の種族が分からないとはどういう事だという意図で訊ねつつも、まるで自分の種族が分からないと言い出す事に心当たりでもある様な。

 魔族に対する悪い噂だけを聞いて過ごしてきた身にも、其の様子は痛ましく映る。いっそ正体を明かせば怒りこそすれ此の顔は見せなくなるだろうか。ふと過ぎったそんな考えは、面倒事は御免である事と、殆ど有り得ないだろうがまだ断言の出来ない危険性、全て此方の尾を掴む為の演技であるというものを強く思い浮かべる事で振り払う。

 先程よりも幾分躊躇いが生まれた手段であるものの、当初の目的を果たす為には大分有効であると見て良さそうだ。青年は悲しそうな表情は其の儘に、弱々しい微笑みを浮べてみせる。

 何度か下界の者が浮べるのを見た事がある、所謂無理をして笑ってみせている時の顔、だ。まさか万物の力を持ち、全ての頂点に君臨するとさえ語られる神族の、其の中でもかなりの実力者である自分が浮べるとは夢にも思わなかったが。


「やっぱ自分の種族さえ分からないっていうのは、変っすかね?なんか、色々転々としていて、記憶があやふやで。何度も何度も子供の頃とか、そーいうの思い出そうとするんだけど、如何しても其の記憶が見当たらないんすよ」

「……クソ」


 どの言葉が決め手になったのかは青年には分からない。

 しかし其の言葉を聞いて少年は、堪えきれずと言う様に極めて短いながらも憎悪が存分に込められた暴言を吐き捨てる。力を持たぬ下界の者であれば其れだけで昏倒してしまいそうな、力のある天界の住人とて卒倒させてしまいそうな程の強い憎悪。

 幸いにも其れは不特定多数に向けられている様であった上、魔力を乗せているワケでもない思わず漏れ出た言葉であったのと、青年に向けられた敵意(憎悪)ではなかった為実害を被る事はなかったが。


「えっと、何でアンタがそんなに怒るの?もしかしてアンタ、何か知ってる?」


 其の言葉が此の場を切り抜ける材料を求めた故だったのか、純粋に心底から気になったからなのか、此の時の青年には分からなかった。

 戸惑いの演技を添えつつもするりと出てきた言葉であったのは確かだが。

 青年の言葉に少年は己の失言に気付きはっとして、其れでも何かを話そうとし掛けるものの、直ぐに止めてしまう。しかし心の何処かで此の儘沈黙を貫く事に躊躇いがあるのか、僅かに口が開いている。まるで何か話したいとでも言う様に。


「その、良かったら聞かせてほしいっす。もしかしたら何か思い出す切っ掛けになるかもしれないし……」

「……思い出した先に幸せがあるとも限らねぇぞ?」

「其れでも!其れでも、此の儘悶々として、見当たらない記憶に困惑せずに済むなら……受け入れる覚悟は出来てるよ」


 よくもまあ、此れ程こんな言葉がすらすらと出てくるものだ。普段の青年であれば、否、数瞬前の青年であればそうした自身の機転や演技力に我が事ながら流石だと酔いしれ、ついでとばかりに少年も含めた周囲を見下していただろう。

 しかし今の青年にそうした余裕は無かった。其処であの言葉の理由を遅れて理解する。此の場を切り抜ける為ではない。純粋に心底から理由を求めている。


「お前が天界の住人である可能性は薄いと見てる。かと言って天界に救われた者じゃないとも限らねぇし、何より自身の認識さえ朧気であちこち転々としてた、ってヤツには種族特有の匂いも付かないからお前が天界の住人じゃないって判断も断言出来るもんじゃねぇ。だからお前が天界の住人であったり、天界に恩があるヤツの場合、胸糞悪い話になる事は請け合いだ。……まあもしそうなら記憶を取り戻した時こんな話は信じないだろうし、オレが天界に打撃を与えるべくホラを吹いたとでも思うんだろうけどな」

「今のオレには何も分からないし、正直話してもらわないと何にも言えないっす。でもさっきも言った様に記憶を取り戻す事による不快感は覚悟の上っすよ」


 青年は誠意を込めて少年を見つめてみせる。

 青年の演技力が真に迫っていたのか、或いは青年の演技とは別に天界と魔界に於ける真実を知りたいという真剣味がそうさせたのか。

 少年は覚悟を決めた様に小さく溜息を漏らす。幼さを存分に残したままの其の眼には、憤怒と悲愴、覚悟と諦観が綯い交ぜになり、幼い顔立ちの少年にはまるで似合わず、此の世界を背負って立つ魔王には酷く相応しく、其れでいて噂に聞く魔王像とは似ても似付かぬものであった。

 同時に青年の中に嫌な予感が芽生えていた。勿論青年は自分でもしっかりと記憶している様に神界に生まれた神族であり、神族から見れば実力はまだしも年齢的には見習い扱いをされる様な若者。天界と関わりこそあれ青年自身に密接な関わりは無く、寧ろ自分に害成さないのであれば特に何をしていても構いはしない。

 ただ其れでも。

 天界の者であれば不快感を与えるからと言い淀んだ少年が、本当に好意からそう言ったのであれば。長年聞かされ認識してきた物が崩れる様な、そんな嫌な予感だけは、確かに青年の胸に生まれていた。

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