自転車に乗った二人
「痛い! もっとやさしくこいでよ!」
「乗せてもらって文句言うなよ。」
「お尻がはねて痛いの!」
ママチャリをこぐ新井は、後ろの荷台に小澤を乗せて自宅へ帰る道を急いでいた。車が通らない田んぼ道。舗装がされていない砂利道だ。その横に、田へ水を引き込む用水路となっている川が併走して流れている。
小澤は新井の幼なじみ。家も隣でいつも顔をあわせる同級生の女子だ。
砂利の路面にハンドルが取られ、自転車を揺らす。二人乗りしているから重心バランスも悪く走行が安定しない。クッションの無い荷台は振動が伝わって、座っているのはつらいはず。
新学期が始まって1週間。
そろそろ夕方の六時になろうとしているが、日が沈むことなくまだ明るい。
夕日が、穏やかに流れる川の水面を照らし輝いている。幅は六メートルほどの水底が望める、澄んだ川だ。水底には細かい砂が一面に広がり、春の小川のフレーズがよく似合う。
同じ高校に通う二人はいつもならそれぞれの自転車で帰っている。
しかし、今日は違っていた。
「だいたいなんで今日はチャリ乗ってこなかったんだよ」
「朝起きたらパンクしてたの! お母さんに言って自転車屋さんに持っていってもらったから、今日は乗って来れなかったの!」
振動がお尻に響いてつい声が大きくなる。
「じゃ朝はどうしたんだ?」
「走っていったの! 遅刻しそうになってあせったよ!」
「走れるんなら走って帰れよ。乗せてやって文句言われたんじゃ、あわねえよ!」
「文句じゃないでしょ! お願いしてるの!」
「口調がお願いに聞こえない!」
「おしりが痛くてそうなるの!」
学校から家まで舗装された県道を走れば、こんなにゆれることはないが、回り道になって二十分はかかってしまう。この田んぼ道を走れば、家までほぼ直線なので十五分ほどで帰れるのだ。だから、いつもこの道をこいで帰っている。毎日の習慣は急には変わらない。気を使わない相手なら回り道して帰ってあげようなどと考えもしなかった。
「もっとゆっくり走ればいいでしょ!」
「六時からのテレビ、見たいものがあるんだ!」
「そんなの録画しておけばいいでしょ!」
「小澤をのせて帰るなんて想定していなかった! 録画なんかしてるわけないだろ!」
小澤は振り落とされないように、新井のベルトのバックルあたりに右手を回していた。
そこに手があるなら気にならない。だが、振動で小澤の手が上下する。ベルトの上を触られるとくすぐったい。ベルトの下に手がいくと身体が暑くなって落ち着かない。
はずかしくなってきた新井は小澤の手をはらうように立ちこぎになった。
「ちょっとあぶないよ!」
小澤の手は新井をもとめたが、ふらつく手は反射的にサドルを握っていた。
立ちこぎをする新井は、はずかしがった気持ちを悟られないにペダルに力をこめた。
「あぶないよ! 転んだらどうするの!」
小澤は目をつぶり、身体を小さくして自転車にしがみついた。
「大丈夫! 手、離すなよ!」
早く走るときのかぜが気持ちいい。はずかしがった気持ちが少しさめてくる。走ることが面白くなってペダルをこぐ足がより速くなる。怖がっている小澤の様子が背中でわかる。どんな顔しているのか気になった。怖がらせていることが優越感につながった。ペダルに立ちながら後ろを振り返った。
「怖いのか!」
声を聞いて小澤は目を開け新井に顔を上げた。
「怖いよ! 危ないから前向いて! 速度落として!」
「平気、平気!」
新井は小澤が怖がる様子を面白がって見ていた。
そのとき……。
自転車が宙に浮いた。
自転車は前輪を中心に振り回された。
荷台に座っていた小澤は遠心力に耐えきれず、投げ出された。
小澤の身体が宙を舞う。
新井も自転車から投げ出された。その事実をすぐには受け入れられなかった。何が起こった? 身体が宙を舞っているのがわかる。舞っている時間がスローモーションになって世界が回っている。倒れている自転車が見えた。自転車の横に、人の頭ほどある石が転がっている。こんな大きな石がこんなところに転がっていたか? ゆっくり動く時間の中で受け入れにくい事実を身体に感じていた。
人間ってこんなに簡単に宙に舞うんだ。
新井の身体は川へと飛ばされた。
水しぶきを上げ、身体が沈む。
新井の意識はしっかりしていた。水面に顔を出し、立ち上がろうとした。でも、足が川底にとどかない。全身が水に覆われた。身体はまだ沈んでいく。視線の先が暗い。まるで深海だ。
この川こんなに深かったか? 身体を動かしてみた。自由に動く。ちゃんと泳げる。でも、水面に向かって泳げない。なぜ? 身体は水底に引かれるように沈んでいく。
人影を感じた。眼を凝らし、感じるほうへ目を向けた。小澤だ。
手足を動かしもがいていた。息が苦しそうだ。小澤を見て感じた。俺は息が苦しくない。いや、息をしていない。しなくても苦しくない。なぜだ? 小澤は大丈夫か? このままじゃ溺れてしまう。小澤を救わなきゃ。
新井は小澤に向かって泳いだ。もがく小澤の身体に手を回し抱きしめた。小澤は目を開けて笑顔を見せると新井の背中に手を回した。小澤の手が新井に助けを求めて抱きしめる。しだいに笑顔が消える。くるしそうに新井の胸に顔をうずめた。
小澤が死ぬ? 新井はあせった。小澤が死ぬなんて考えられない。助けなきゃ。水面まで泳ぐんだ。
新井は左手で小澤を胸に抱きながら、右手と足を動かし必死に水面を目指した。体力はある。泳ぎは得意のはずだ。しかし、泳いでも泳いでも水面が遠い。むしろ水底に引かれる速度のほうが速い。
なぜだ。なぜ浮かべない。このままじゃ小澤を助けられない。新井は目に涙を浮かべた。水の中でも涙は流れた。涙は六つの光る滴となって水底へ引かれていった。
新井の身体を抱く小澤の手が緩んだ。小澤は首を支える力を失い、顔がゆっくり上に揺れた。口が開き、全身の力が抜けていく。
小澤!?
新井は小澤を力強く抱きしめた。ゆれる顔を頬に引き寄せた。
水底に引かれる速度に身体が抵抗できなくなった。
泳ぐのはもういい。こうしていよう。ごめん小澤、俺が無茶しなければ、こんなことにはならなかった。小澤がそばにいると、つい無茶したくなるんだ。かっこ付けたくなるんだ。だから、さっきも無茶して自転車こいで。そうしたら石にぶつかって。でもあんな石があるなんて知らなかったんだ。朝来たときには気が付かなかったんだ。ほんとだよ。今さら言い訳してもしょうがないけど、あの石さえなかったら、こんなことにはならなかった。あの石さえなかったら……。
……ごめんな。
新井は小澤をだきしめながら水底に引かれて沈んでいった。暗い水底の一点に六つの滴が流れ込む。その一点が青紫の光りをほのかに放ち広がっていく。二人はその光りに導かれるように、静かに落ちていった。
俺、小澤のこと……。
夕焼けの空が景色をオレンジに染める。
自転車に乗る二人の影を長く砂利道に伸ばしていた。
「あぶないよ! 転んだらどうするの!」
小澤は目をつぶり、身体を小さくして自転車にしがみついた。
「大丈夫! 手、離すなよ!」
新井はいい気になってペダルに力をこめる。ペダルに立ちながら後ろを振り返った。
「怖いのか!」
声を聞いて小澤は目を開け新井に顔を上げた。
「怖いよ! 危ないから前向いて! 速度落として!」
「平気、平気!」
新井は小澤がこわがる様子を面白がって見ていた。
「平気じゃない! ちゃんと前向いてこがないと怒るよ!」
小澤は本気で切れそうだ。
「分かったよ。でも六時に間にあわなかったら責任取ってもらうからな!」
新井は立ちこぎを止めて、サドルに座った。
小澤の右手がすぐに新井のお腹に回ってきた。
新井の顔が赤くなる。
「ゆっくり行ってよ! もうおしり限界だから!」
「分かったよ。俺もつかれた」
赤らんだ顔を小澤に見せられず、前を向いたままうなずいた。
二人の乗る自転車は家まで続く砂利道をハンドル揺らせながら走り続けた。
二人が通り過ぎた道端に、人の頭ほどの石が転がっていた。石は砂利道から外れ、川の一端を塞き止めていた。石の影響でそこだけ流れが変わっている。だか、川全体から見れば、取るに足らない変化でしかない。穏やかな川はいつもと変わることなく、澄んだ水を下流へと運んでいた。
「ちょっと!なんでまた速くこぐのよ!」
「やっぱり六時のテレビ見てぇ!」
「痛いってばぁ!」




