視線 ~そしてオタクはハブられた~
勤務時間を終えた彼が休憩室に戻って来た。常人には聞き取れない独り言で空気を汚しながらフラフラと荷物を纏めていた彼だが、ふいに正面にあるホワイドボードに目を止めた。狭い休憩所においてひたすら通行の妨げを敢行しているホワイドボードであるが、今日はその中心に一際目立つ張り紙がしてあった。
“○月×日、ホニャララで飲み会! 全員参加! 参加費用、3000円”
主任の名前とともに殴り書きされた必要事項の羅列を目で追うにつれて、彼の顔から表情が消えて行く。肩を落として踵を返したその顔には、仕事から解放された人間に特有の清々しさは微塵もなかった。
「3000円あったら、XXさんとXXさんのところの新刊が買えるのに」
絶望に打ちひしがれた様子でドアノブに手をかけた彼の視線が、ふとイスの上に投げ出されていた一冊の雑誌に止まった。訝しげな顔で記事を覗きこんだ彼が目にしたのは、いわゆる女性向けの恋愛マニュアルのようなものだった。
“好きな人は褒めて落とそう!”
“彼の持ち物は必ずチェック! 何でもいいから褒めちゃえ!”
“男子の前では完璧はダメ! ちょっと抜けてる自分もアピールしちゃおう!”
“男子は料理上手な女の子が好き! 手料理をアピールしよう!”
“ライバルにスキを見せるな! トイレもできるだけ我慢しよう!”
ご丁寧に付箋が張り付けられ、赤ペンで囲ってある記事を読み進めるにつれて、彼の顔に不思議そうな表情が濃くなっていく。
「三次元の女はこれだから苦手なんだよ」
そして、彼は職場を後にした。
☆
「このライター、すっごくカッコいい! 主任、こういうの好きでしたっけ?」
キラキラと輝く小さな石がふんだんに散りばめられたピンク色の爪が、テーブルの上に無造作に置かれていたジッポのライターを軽く弾いた。全世界で二億部の売り上げを記録したという人気マンガの剣豪が描かれたライターをどこか思わせぶりな眼差しで眺め、理恵は長い茶色の髪をかきあげながら、左隣に座る立川を見上げる。
「私も好きなんですよ、このマンガ。泣けるんですよねえ」
曖昧な答えを返しつつ、立川はたくさんの水滴が纏わりついたコップを傾ける。氷が浮かんだ水がテーブルの上に置かれた瞬間、ベージュのマニキュアが綺麗に施された指がさっと伸びてきて、広げたばかりのおしぼりで水滴を拭い去っていった。再びグラスがテーブルに置かれるまでの、流れるような一連の動作を目の当たりにし、理恵が一瞬だけ不快そうな顔をした。
「立川さん、何か注文されますか?」
立川を挟んで、理恵の反対側。胸元はわざとらしくない程度に、しかしながらそこに存在する魅惑の丘陵はしっかりと他人の視線に晒されるほどに肌蹴ながらも、しっかりとスーツを着込んだ直美がメニューを差し出しながら柔らかい口調で問いかける。見慣れない文字と画像の羅列を眺めながら、少しばかり困ったような顔をしている立川を見て、直美はほんの僅か、彼の方へと身体を寄せた。
「これ、おススメですよ。評判もいいんです」
薄くもなく、濃くもなく、絶妙な色合いで描かれた理恵のマユゲ。その狭間に刻まれた縦ジワがぎゅっという効果音が聞こえてきそうな勢いで寄せられた。
「じゃあ、それを……」
「直美さん、もしかしてリサーチ済みだったりするんですか? 周到ですね」
しかめっ面で睨む理恵を余所に、頷いた立川に満面の笑顔を返していた直美の口元がピクリ、と強張った。そして何事もなかったかのような顔で理恵を見やる。
「まさか。友達と来たことがあるのよ。半年くらい前に」
「へえ、そうなんですかあ」
互いに口元だけを笑みの形に歪めて、憎悪さえも入り混じった視線を交わし合う。間に挟まれている立川は、どこか居心地が悪そうにネクタイを緩め始めた。そして姿勢を正すように見せかけながら顔を上げ、周囲に視線を巡らした彼だが、誰もが一斉に自分から視線を逸らす様を目の当たりにし、何とも言えない微妙な顔ををテーブルの上へと戻していた。そしてタバコに火をつける。
「タバコを吸ってる男の人の指、すごくセクシーでスキなんです」
紫煙をくゆらせる立川をうっとりと眺め、直美がそんな言葉を口にした。周囲から嫌味な視線を送られた立川は、気まずそうに、まだ半分も吸っていないタバコを灰皿へと擦り付ける。残念そうな表情で彼を見やる直美に、理恵は憎しみの籠った視線を向けるが、気を取り直したように立川の腕を引っ張った。
「ねえ、立川主任、私ねえ、こういうお店に来るの、初めてなんですよお」
毛羽立ちひとつ見当たらない畳が敷き詰められ、床の間に掛け軸と菖蒲の一輪ざしが飾られた部屋の中を、付けマツゲに飾られ、カラーコンタクトで不自然に巨大化した瞳でグルリと見渡し、理恵は感激しきった声音で告げた。再び無難な返答しかしない立川の隣で、直美が目の中に炎を宿らせる。
「そうなの? まあ、理恵ちゃんみたいな若い子には、こういう落ち着いた雰囲気のお店はちょっと早いかもしれないわねえ」
ちらり、と直美の艶を帯びた視線が立川の横顔から首筋を撫でて行った。口元を引きつらせた立川が反射的に直美から距離を取れば、必然的に理恵の方へと身を寄せることとなる。
「そうみたいです。だから、今日は連れて来て貰えてとっても嬉しいです!」
立川には決して見えない位置で勝ち誇ったように笑う理恵。その瞬間、彼女たちの近くにいた社員は、そのベージュ色に塗られた爪が畳をギリ、と引っ掻く様を目の当たりにした。微妙な空気が流れ始めた時、軽い声掛けとともに襖が開かれてコース料理が運ばれ始めた。
「すごい! おいしそうですね。このコース、主任が選ばれたんでしょう?」
目の前に並べられていくまるで芸術のような料理に大袈裟なほど顔を輝かせ、直美は立川を斜め上に見上げながら言った。同時に、立川が困ったような顔をする。
「いや、料理の方は店の方にお任せしたから……」
瞬きをするほどの時間、硬直した表情を浮かべた直美と、ニヤリと笑う理恵。
「でもこのお店を選ばれたのは主任じゃないですか。ちゃんとしたコースを作ってくれる料理人のいる店を選べるっていうのは、誰にでもできることじゃないですよ」
何となく気まずそうな顔で立川から視線を逸らし、直美は並べられていく料理ひとつひとつを検分し始めた。
「それでは、乾杯の音頭を取らせていただ……」
「ねえ、主任の好きな食べ物って何ですかあ?」
班長の声音を遮って、理恵がいきなり問いかける。絶句している立川と鬼のような形相を浮かべる直美には構わず、理恵は嬉しそうにピョンピョン身体を揺らした。
「私ね、こう見えてけっこう料理が得意なんですよお。和食とか、家でもけっこう作ったりしてるんですう!」
「へ、へえ……」
あちこちで、申し訳なさそうに乾杯、という小さな声が上がり始めていた。その様子を目にした直美が、さっとビールを取り上げて三つのグラスに注いでいく。
「カンパイしましょ、カンパイ! ほら、理恵ちゃんも!」
「ありがとうございますう、直美さん!」
口元だけで笑いながら、理恵が直美からグラスを受け取った。お通夜さながらの雰囲気を醸し出している周囲とは対照的に、やたら元気な声で理恵はカンパイと叫んで立川のグラスと触れあわせた。だが、決して口はつけない。
「この料理、すごくおいしい」
見とれるほど綺麗な箸使いで煮物を口元へと運んだ直美が、感激したように呟いた。そして立川へと視線を向ける。
「今、料理の修行中なんですよ。特に和食」
「そうなんだ……」
「なかなか覚えられなくて。ほら、基本の調味料とかあるでしょう? さしすせそ、とか言いますよね。“さ”は砂糖で、“し”は塩。“す”はお酢で……あれ? ねえ、理恵ちゃん、“せ”って何だっけ?」
本当に忘れてしまった、という顔をしながら、直美は固まっている理恵に問いかけた。
“私ね、こう見えてけっこう料理が得意なんですよお。和食とか、家でもけっこう作ったりしてるんですう!”
「確か、“せ”ってしょうゆのことじゃなかったっけ?」
険悪を通り越して瘴気さえ立ち登り始めていた場の空気だが、立川の一言で僅かながら解消される。声と顔だけは明るく笑って誤魔化す理恵と、ここぞとばかりに立川を褒める直美。立川は、口元に愛想笑いを浮かべつつ疲れた顔でビールを流し込んでいた。釣られたように、直美も一緒になってビールを煽る。
そして時間が流れていく。誰一人として楽しそうに笑っている者がいない状況の中、ふいに直美がソワソワし始めた。
「ちょっとトイレ行ってきます」
何でもないように立ち上がった若手社員を見る直美の視線には、激しい羨望と怨恨が綯い混ぜになっていた。それを見た理恵が、瞳の奥をギラリと輝かせる。
「ねえねえ、トイレの場所、分かる?」
襖を開けた社員を、理恵は世話を焼くフリをして呼びとめた。
「直美さん、トイレの場所ってどこですか?」
“まさか。友達と来たことがあるのよ。半年くらい前に”
不意打ちとも言える質問を投げかけられて、直美の顔が傍目に見て分かるほど強張った。
「えっとぉ、どこだったかしら。あの時はけっこう酔ってたから、忘れちゃったわ」
返って来た無難な答えに、理恵が僅かに目を細める。どこか悔しそうな理恵の表情と、怒りを込めた直美の視線が火花を散らす様を眺め、巻き込まれた若手社員は早々と逃げるように立ち去って行った。その時、立川のケータイが着信を告げる。
「ちょっと、婚約者と話してくる」
苦笑いしながら、飛び上がるような勢いで立川は二人の間を抜け出した。その瞬間の直美と理恵の表情を目の当たりにして、ずっと静かに状況を見守っていたキモオタが盛大にビールを吹き出していた。途端に騒がしくなる部屋の中、あちこちから汚いだの有り得ないだの、キモオタを罵倒する声が飛び始める。
「ほんっと、有り得ないですよね! そもそもいい年してマンガが大好きだとか、気持ち悪くてやってられないですよ!」
“このライター、すっごくカッコいい! 主任、こういうの好きでしたっけ?”
理恵の氷のような視線をその身に受け、隠そうともしない毒を鼓膜に注がれながら、キモオタはひたすら平謝りしてテーブルを拭く。そして気まずさを誤魔化すためにタバコに手を伸ばした時、直美の目がギラリと光った。
「タバコ吸う男ってホントに嫌い! 臭いし、汚れるし! 周りの迷惑も少しくらい考えて欲しいわ!」
その言葉には、キモオタだけでなく社員の三割ほどが俯いていた。
“タバコを吸ってる男の人の指、すごくセクシーでスキなんです”
キモオタはひたすら申し訳なさそうに握りしめたライターをテーブルに戻した。その後も彼を非難する声は止むことなく、逆にそれまでの気まずい雰囲気を無かったことにするかのように社員たちはキモオタへの悪口で場を盛り上げて行った。
「よぉし! 今日は私の奢りだ!! 理恵ちゃん、カラオケ行こう、カラオケ!!」
「行きます、行きます!! 直美さん素敵ー!!」
とっぷりと日が暮れた駐車場。直美と理恵に引きずられるようにして、社員たちはカラオケという二次会へと繰り出して行った。ひとり、ポツンと駐車場に立ち竦むキモオタは、満天の星空をゆっくりと仰いだ。
「こうして社会は回って行くのさ……」
ここまで読んでくださって誠にありがとうございました。
ちなみにこれはフィクションでございます。
居酒屋に友人と飲みに行った時、隣の席がこんなカンジでした。赤の他人とは言え……非常に気まずくて、その時に飲んだ酒の味は覚えてません。