第61話 エリスの決意
瞬間アレックスの身体が傾き、私の上に覆い被さってくる。
「ちょ……っ、アレックス!?」
こちらへ縋るように倒れてくる彼を、私は内心焦りながらも背中で受け止めていた。
一見着痩せして見えるが、彼は立派な成人男性である。日頃から剣士としても鍛えているし、身長や筋肉もそれなりにあった。
その大きな身体と重装備を、小柄な私が全身で受け止めているのだ。かなりの重量感である。
「君にだけ……責任を……」
荒い息遣いとともに掠れ気味の低音が、何とか足を踏ん張っている私の耳元で囁いてくる。
「……役目……俺が……」
何を言っているのかあまり聞き取れなかった。もしかすると彼もルティナと同様に、既に正気ではないのかもしれない。
「ちょっとあんた、何でこんなところに居るのよ」
既に瘴気に侵されているのなら、立って歩くことさえもままならないはずだ。
「仲間である俺には……君の役目……見届ける義務が……それが……今の俺の役目……だ……」
「な、アレックス……あんた」
「俺も……一緒に闘わせて……くれ」
何という信念、精神力だろうか。
私には信じられなかった。それは最早、瘴気を凌駕していると言っても過言ではないのかもしれない。
しかしやはり、こんな状態の彼を連れてはいけないと思った私は、そのことを伝えようと口を開きかけた。が、唐突にある考えが浮かんできた。
「分かったわ。それなら、あなたにも手伝ってもらうわよ」
私はアレックスの身体をそのまま背負うようにして、少しずつ歩き出す。
彼は既に自力では立てないのか、抜き身の長剣(ロングソード)を地面に突き刺して支え、杖代わりに進んでいる。
急に私の気が変わったのには訳があった。
その考えが正しいかどうかは分からない。だが私にかけられている防御術が薄くなり、輝きも失いつつある。
既に私の時間も残されてはいないのだ。
それにまたいつ、下位クラスの魔物が現れるかも分からない。もしかしたら、もうすぐ側まで来ているのかもしれなかった。
「……この俺がこんなザマで……すまない」
私の右肩へ凭れるようにして歩いていたアレックスが、不意に謝ってくる。
「何を言っているのよ、あんたらしくもない。ここで弱気になったら、余計に瘴気に侵されるわよ」
「しかし世のため人のために働かなければならない……英雄であるこの俺が不甲斐ないばかりに、君にその役目を押し付けてしまうことに……」
「言っておくけどね、アレックス。私はその『役目』を押し付けられたなんて、全然思っていないんだからね」
通常であれば、一人で落ち込むことはあっても、他人に弱音を吐くことのない彼に対して、少しばかり腹が立っていた。
「役目とか責任とか義務とか、最初からそんなものは関係ない。
それが例え絶望的な状況であったとしても、まだ一筋の光がそこに残っているのなら、私は途中で投げ出したくない」
最初から勝ち目のない戦い方をしたくはなかった。だから私はそのような状況に陥る前に、極力逃げるようにしているのだ。
だがもし、万が一、どうしても逃げられない状況になってしまったなら――。
「絶対に諦めたりもしない。思いつく限りのあらゆる手段を使って、最後まで藻掻いて闘ってみせる」
自分が未熟で弱いのは分かっている。
だが弱者は弱者なりに、プライドを持っているものだ。私はそれを最後まで、捨てたくはなかった。
「ただ自分に出来ることを、目の前にある出来ることから精一杯にこなす。ただそれだけなんだから」
今の状態がまさにそれなのだが、まだ希望は残されているはずだ。
だから後悔だけはしたくない。これは私の、精一杯の意地だ。
「途中で諦めない……あらゆる手段で最後まで闘う……か。実に君らしい……俺は君のそんなところが好きだ」
アレックスは『そんなつもり』で言ったわけではないと思う。
当然私にも分かっていた―――分かってはいるのだが。
「べっ、べッべべべべべべ別に……っ、ちっとも凄くなんかないわよッ」
私は何となく見られたくなくて、慌てて顔を逆方向へ逸らしていた。
「そ、そそれにッ、それを言うならあんただって。自分の信念を貫こうと、一生懸命努力しているじゃない。
そりゃ、多少暴走気味になるところもあるけれど、それがアレックスだもの。
だから役目を私に押し付けたなんて思わずに、いつもみたいに堂々と、胸を張っていればいいのよ!」
続けて彼は何かを言ったようだが、その声は下から唸る風の音に掻き消されて聞こえなくなっていた。
私たちは既に瘴気の中へ入り込んでいた。ようやく中心へ近付くことができたのだ。
先程までならその風に飲み込まれ、外へ放り出されるところだ。しかし今回はこの場所に留まっている。
やはり思った通りだ。
私一人では、体重が軽すぎたのだ。身体も支えられず、下から吹き上げる風に抵抗できなかった。
もしかしたらそこへアレックス本人と、装備している防具や剣の重量などが加われば、先程よりは多少抵抗できるのではないかと思ったのだ。
実際、彼自身も力を入れ、地面で支えてくれている。それが背中からも伝わってきていた。
ここまで来れば、種は直ぐそこにある。
私にかけられている防御術は、殆ど見えなくなっていた。瘴気も徐々にこちらを侵食しつつあった。
あとは私がまだ正気を保っていられる間に、短剣を突き刺すだけ。
―――が。
下から突き上げるように吹いてくる、強い熱風。
それが目の前で腕にぶつかると、弾け飛んだ。持っていた短剣が弧を描くように上空へ飛んでいく様が、私の目にはハッキリと映っていた。
目の前が瞬間的に真っ白になる。
足のつま先から身体の芯までが、一気に冷えていく。
あれを取りに行っている時間は、もうない。
私は目の前で開いたままの両掌を、呆然と見詰めていた。
「……リス……」
耳に当たる吐息。肘に当たる感触で、私は我に返る。
そうだ。
まだやれる。
まだ希望はあるはずだ。
私は右手を強く握り締めると、肘を後ろへゆっくりと引いていった。
しかし。
背中から伝わってくる重圧感。
既に気力を失いそうになっていた私は、それを支えきれず、前のめりで倒れ込む。
私は体勢を立て直すかのように、慌てて彼の手を引っ掴んでいた。
そうだ。ここで何もせずに、終わらせるわけにはいかない。
私は夢中で、その手を強く握った。