第60話 タイムリミット
黒い風のようなものが吹き荒れていた。
中心にある種が高温だというから、近付くことさえできないほどの熱さなのかと思っていた。
しかし実際に入ってみると、生ぬるい風が吹いているだけである。想像していたような、強烈な臭いも感じられない。
とはいえ、気持ちの悪いことに変わりはなかった。
生暖かい上に粘り気のある風圧が、直に肌へ当たっている。毛穴という毛穴にぺたぺたと貼りついては、隙あらば侵入しようとしているかのようだ。
ゼリューの術によって瘴気を防いでいるはずだが、全身に鳥肌が立つくらいの気持ちの悪さである。本当にこの術は瘴気のみを遮断するだけで、その感覚までを防ぐことはできないらしい。
だが例え気持ちが悪くても、それは我慢をすれば良いだけだ。近付くことが可能ならば、何も問題はない。
『瘴霊の種』の鈍い輝きは、入り口付近からほど近い場所に見えていた。
距離はそれほど遠くない。あれを破壊するだけだ。
私は急いでそこへ向かう。が、剣を繰り出そうと身構えた瞬間、一陣の強い風が吹き上げてくる。
気付いた時には身体が宙に浮き、外へ吹き飛ばされていた。
それは一瞬の出来事だった。自分の身に一体何が起きたのか、瞬間的には理解できなかった。
全身を強打していた私には、激痛が走っていた。だがそれに耐えつつ身を起こしてみると、目の前では何事もなかったかのように鎮座している、黒い塊が見えた。
地面には血溜まりと、魔物の残骸が転がったままだ。鼻をつくような、酸味のある異臭も立ち上っている。どうやら服へも付着してしまったようだ。
だがそんなことを気にしている場合ではない。私は自分を取り戻すと、再び中へ入っていった。
が、結果は同じ。
しかしここでも諦めるわけにはいかない。私は間髪いれずに今度は助走をつけつつ、三度中へと入っていった。
「……! なんでっ!???」
またもや同じ目に遭った私は、呆然と地面に座り込んでいる。
吹き荒れる黒い風が私の身体をすくい上げるかのように、いとも容易く三度とも、外へ押し流してしまうのだ。
最初に何故ゼリューが、周囲の瘴気を一時的に減少させようとしたのか。
ここでようやく、その理由を理解できたような気がする。
恐らくそれは、中で渦巻いている黒風が術だけではなく、外部からの侵入者をも排除するためだろう。
人間である私には当然のことながら、瘴気エネルギーを体内へ蓄積することができない。つまり『養分』を持っていない私は『種』からしてみれば、『不要異物』というわけだ。
「でも何か……何か方法はないかしら」
私は持っている短剣を見詰め、焦りながら必死に考えを巡らせていた。
途端、視界が揺れる。
何かが全身へのし掛かかってくるような、重い感覚。私の中に外部から、何らかの圧力が流れ込んでくるようだ。
「まさか」
気付いた私は、自分の手の平を改めて確認してみた。先程まで透明に光っていたものの輝きが鈍く、薄くなっているように感じられる。
『俺が中和して、影響力を一時的に防いでいる。が、およそ三時間程度の効力しかない』
三時間――。
正確な時間は計っていないので分からないが、あれから大分時間は過ぎているはずだ。そろそろ術効力が切れてしまっても、不思議ではない。
どちらにせよ私の時間も、あと僅かしかないのだ。
「ここまで来たら、あとはもう、やるしかないって言うことよね」
奥歯をギリリと強く噛みしめた私は、改めて球体のほうへ顔を向けた。
こうなったら助走距離を伸ばし、一気に中へ突進していくしかない。
私は決意を込めて立ち上がると、先程よりも距離を置いた状態で剣を持って身構える。そして自分の中では全速力だと思われる速度で、そこへ向かって走り出した。
目標物が見えてきた。
だがその側まで来た時、下から伸びる大きな手が、否応なしにさらっていく。私は抵抗する間もなく、またもやはじき出されていた。
しかし。
「……あれ?」
私はまだ倒れてはいなかった。
背中にあるのはいつもの無機質な、堅い地面の感触ではない。
堅いものではあるが、でも何故かそこには温もりと柔らかさを感じさせる。それに私を包み込むようなこれは――。
「! アレックス!?」
背後にいたのは彼だった。