第59話 一触即発
「それは……俺の役目……!」
アレックスは地面に片手をつき、膝を折り曲げて立ち上がろうとしていた。が、直ぐにまた崩れ落ちてしまう。
「!? ちょっと。あんた腕、怪我しているんじゃないの」
私は初めて気が付いた。
大きな外傷らしきものは見当たらなかったが、その部分だけ内側から赤黒く膨れ上がっていたのだ。しかも棒状のようなもので固定されている。
「この程度、俺の根性で……」
コイツ、こんな状態でまだ言うか。
「駄目よ、怪我人のあんたはここで大人しくしていて。あとは私がやるから」
「だが……ッ」
「あんたにも役目があるように、私にも役目はあるの。これからそれを果たしに行くところなんだから、邪魔をしないで」
その言葉に、アレックスは初めて驚きの表情を見せた。
「君の役目?」
「そうよ。私はあの黒いものを壊しにいく。
あれが瘴気を撒き散らし、魔物を呼び寄せている元凶なのよ。
あの中心にあるモノを破壊しなければ、何れ大変なことになるわ」
「大変なこと?」
「今は詳しい説明をしている時間がないわ。ともかく今動けるのは私だけなんだから、あんたは私がその役目を果たすまで、ここでしっかりと見届けていて」
私はそう言うと、まだ何かを言いたげな表情の彼を残し、急ぐようにその場を離れた。
だがその前に、ルティナを救出しなければならない。
瘴霊の種の直ぐ側で倒れているのだ。直に影響を受けているのは間違いないだろう。
先程ゼリューと戦っていた時には、特に変わった様子もなく、普通の状態にしか見えなかった。
しかし今思うにあれは、アレックスと同じように痩せ我慢をしていたに違いない。後から考えてみれば、彼女ほどの腕を持つ術士が、素人同然の戦い方をするはずがないのだ。
私は倒れている彼女の足下付近へ歩み寄ると、両足首を抱えて地面を引き摺るように移動させていく。成人男性であれば抱きかかえて運ぶこともできるのだろうが、力のない私にはこれが精一杯だった。
私がその作業をしていると森側のほうでは、何かの動く気配と、獣の唸り声のようなものを感じた。
一瞬背筋が寒くなる。だが勇気を出し、その方向へ顔を向けてみる。
そこには私の身長の倍くらいはあろうかという魔物が、のそりと暗闇から姿を現しているところだった。
巨漢である全身は茶色の体毛で覆われ、その鋭爪はひと薙ぎで、人間の身体をいとも容易く引き裂けるらしい。
熊と非常に類似した容姿の魔物、ベアベアだ。大きな角が額に一本生えているので、熊との区別は安易につく。
だがこの魔物、普段は人気のない山奥にしか生息していないと言われている。何処から入り込んできたのかは知らないが、人里のある山間部などには、滅多に下りてこないらしい。
そう言えばもし遭遇してしまった場合には、その場で「死んだふり」をすれば気付かれないという噂もあるが、本当なのだろうか。
しかし実際に出遭ってしまったなら、そんな余裕は皆無に等しい。
それを今、私は身をもって体験していた。せいぜい尻餅をついて、その動向を見守ることしかできないでいる。
(どどどどどうしよう)
今の私では、魔物を倒すことができない。精霊術が使えないからだ。
かなりの心細さを感じている私の心臓は、激しく波を打っていた。全身から冷や汗も吹き出してくる。
魔物は、倒れて動かないルティナの頭上付近に佇んでいた。その鋭爪の届きそうな範囲内には、私も居る。
敵がこちらを振り向けば、完全に目が合ってしまうだろう。ここはやはり今からでも「死んだふり」をするべきなのか。
しかし魔物のほうはこちらの心配をよそに、向こう側へと頭を動かしていた。これほど近い場所に居るというのに、こちらへは一向に見向きもしない。
そういえば先程から、何処か様子も変だ。
低い唸り声を上げてヨダレを垂れ流し、遠くを見ているかのような、完全にイッた目をしている。状態が普通ではない。
それに歩いている足取りも不安定だ。これではまるで――。
魔物が向かっていた先には、瘴霊の種があった。
そうだ。そこへ向かっている。
敵は何の躊躇いもせずに、そのまま黒い渦へと消えていった。
程なくすると、大きな爆発音が聞こえてくる。魔物の入った場所からは強風が排出され、複数の何かも外へ投げ出されていた。
それは赤い液体だった。
中に紛れていたのは、ミミズの千切れたようなもの。或いは白い固形物。それらが瀑布の如く、地面へ叩き付けるかのように投げられていた。
同時に放たれる臭気のせいで、私の胃の内容物も逆流しそうになってきた。だが大量の唾液を一度に飲み込んで、何とか堪える。
堪えつつも私は、それらが何なのかを即座に理解できていた。これらは先程まで魔物だったモノだ。
それだけでもかなりグロテスクな光景だったが、自ら吐き出したものを踏みつぶすかのように、黒い塊も更に大きくなっている。
周囲の瘴気濃度も上昇しているのか、気配も一段と強くなった。それを遮断しているはずの私でさえも、皮膚がちりちりと灼けるようだ。
恐らく魔物はこの気配に導かれて、ここへやって来たに違いない。ということは、他の魔物も来る可能性が高い。
「……何故」
私はその声で下を向いた。
「逃げた……何故……あの時……殺し…………」
ルティナが開いている右眼を地面へ向け、繰り返し何かを呟いている。目は開いていたが、そこに光はない。
「待っていてルティナ。私が絶対に助けるから」
返事をすることがないのは分かっていた。しかし彼女にそう、声を掛けずにはいられなかった。
私は急いで比較的安全な遠い場所――離れた木の根元付近にまで彼女を移動させた。そして黒い瘴気の前へ再び戻ると、目を凝らしてそれを見上げる。
思った通り、最初に見た時よりも何倍もの大きさになっていた。
先程の光景がフラッシュバックとなり、思わず身震いしてしまう。
だがここまで来たのだ。もう後戻りはできない。
私は意を決すると、思い切って足を踏み入れた。




